兵隊・抑留記(85)  墓標もない戦友たち | SAPPERの兵隊・抑留記

兵隊・抑留記(85)  墓標もない戦友たち

 
抑留後期 - その6
 
 
 収容所の敷地は南が高く北にゆるく下がった高原地帯にあった。南の柵外に一本、松(落葉松?)が少し傾いた状態で生えている。そこの周辺が日本人墓地である。零下35度を超える気温に曝された地面は、鶴嘴(ツルハシ)も円匙(シャベル)も受け付けない。ボタ山(採炭の際出る石炭以外の石屑)から、石炭を拾ってきて、人の形に4~50cm位積み上げ、夕方火を付ける。この火はチョロチョロ夜を通してみえるのである。翌日、円匙で掘るが2~30Cm位しか掘れないのである。自然の抵抗は強力である。
 
 この僅かばかりの窪みに死体を置き、雪をかき集めて覆ったのである。
 
 1945年初冬に亡くなった戦友には「陸軍上等兵○△」「陸軍伍長◇□」の木の墓標が立てられたが、厳冬に入ってから亡くなった多くの戦友達には墓標はない。
 
 厳冬に入り、連日多くの死亡者(発疹チフス・栄養失調)を数えることとなったため、急遽、英霊安置所(テントを張り)を収容所内の南西隅に設置した。そこが遺体(死体)の一時保管所(安置所ではない)であった。
 
 ソ聯側の指導により、人間の尊厳を無視された遺体(否、一個の物体→死体)は丸裸(スッポンポン)にされ、肘や膝が曲がったままの姿で、整えられることもなく、地面に無造作に放り出された格好で、一晩置かれたのである。
 
 これは、三途(さんず)の川のほとりの奪衣婆(だつえば)を彷彿させる地獄図である。
 
 荷車への積み込みには、荷台にカチンカチンに凍った死体を頭・足を交互に縄でくくり、「一本松」まで運搬する。
 
 この作業は炭坑勤務の合間に駆り出され何回か従事した。
 
 “俺”は、英霊の一番多かった日を、13人と、記憶している。
 
   無残 祈る冥福
 
 “俺”はこんなところで、死んでたまるか、死ぬものかと、つくづく思う毎日であった。
 
 
つづく