兵隊・抑留記(82)    K氏の銃殺事件真相(2) | SAPPERの兵隊・抑留記

兵隊・抑留記(82)    K氏の銃殺事件真相(2)

 
抑留後期 - その3
 
 
 
 この《シベリヤ日記》によれば、銃殺されたのは昭和20年11月となるが(I隊戦友会名簿 5/5頁 0414)では昭和21年2月17日没とあり、月日に食い違いがある。おそらく守谷大隊長のシベリヤ日記の方が正しいと思うが、今となっては正す術はない。
 
 戦没年月を昭和20年11月として若干補足してみたい。
 
 “俺”が一日の炭坑作業を終え、、収容所(ラーゲリ)に帰るや否や、ラーゲリ内は《K事件》で沸き立っていた。何たる無法、忿懣やる方なし。
 
 収容所の塀(有刺鉄線)は高さ4~5米ある。この塀の内外20米位離れたところに、夫々高さ1m位の低い柵(有刺鉄線)がある。
 
 この内外40mの不干渉地帯に立ち入る者は『銃殺』と、厳しく決められていた。尚、この不干渉地帯は、ここの住民との接触防止のためでもあった。
 
 塀の角々には俺たちが作った望楼が設置されている。収容所内の我々は四六時中、ソ聯兵の監視下にある。と、いうわけである。
 
 厠(便所)は、細長く、出入口は両妻側の二ヵ所である。内部は、片側通路になっており、一段上がったところに、西洋梨を縦に切ったような穴が西洋梨の頭を通路側に向けて、十数個ある。金隠し、左右の仕切り、扉等は無い。
 
 無論、暖房設備のない吹きさらしであった。
 
 Kが使用した厠は、衛兵所に隣接する望楼の近くにあり、厠の裏側が高さ1mの外柵に触れんばかりの位置にあった。
 
 
つづく