日記「今日見た映画 2017」32『残像』 | やりすぎ限界映画入門

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■『残像』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

2016年/ポーランド映画/99分
監督:アンジェイ・ワイダ
出演:ボグスワフ・リンダ/ゾフィア・ヴィフワチュ/クシシュトフ・ピチェンスキ

■2017年 劇場公開作品 32本目

映画少年となって入門したばかりの頃、『マッドマックス2』『ランボー 怒りの脱出』『エイリアン2』しか映画ではなかった時代、「フランソワ・トリュフォー監督」や「ジャン=リュック・ゴダール監督」「フェデリコ・フェリーニ監督」のように、多少詳しくなると視界に入ってくる名前の一人が、「アンジェイ・ワイダ監督」だった。

だが「白黒」で『地下水道』『灰とダイヤモンド』とかの写真を見ても、「絶対見たいと思わない」。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか『リーサル・ウェポン』『ダイ・ハード』しか映画だと思ってなかった「鶏」には、「ごめんなさい」を通り越し、「完全無意識スルー」状態だった。

それでも「20代」後半から「30代」に掛けて、「何とか」、「ジャン=リュック・ゴダール監督」や「フェデリコ・フェリーニ監督」は、「ジム・ジャームッシュ監督」と「同格」の、「滝に撃たれる」覚悟で「荒行」に挑み、「多少」見た。だが「アンジェイ・ワイダ監督」は、「今日まで」「1本も見たことがない」。「見なければならない」「罪悪感」から、「アンジェイ・ワイダ監督」の名前を今日まで忘れることがなかったほど、「逃げた」トラウマを忘れたことはなかった。

1991年公開の『コルチャック先生』など、もはやタイトルだけで「完全無意識スルー」。それ以降はタイトルさえ僕の「脳みそ」が、視界に入らないよう「制御」したのかもしれない。

だが映画雑誌『スクリーン』の『執筆者選出ベストテン』は現在も毎年続いていて、とうとう「30代」後半から、「罪悪感」から僕自身逃げれなくなってきたのだと思う。

2009年公開『カティンの森』は、借りようか迷い、「パッケージだけ手に取った」。だが「逃げた」。

2012年公開『菖蒲』は、借りようと思い「店員に聞いた」が、僕が行くレンタル店は「全店壊滅」で、レンタルしてる店を「1店も」見つけることができなかった。「借りられないならしょうがない」と、「自分の心に言い訳して」「逃げた」。

2014年公開『ワレサ 連帯の男』は、タイトルさえ視界に入ってなかった。作品の存在さえ知らなかった。

そして2017年公開『残像』で、「もう逃げられない状態」に到達。「人生初」、「アンジェイ・ワイダ監督」の映画を、「テオ・アンゲロプロス監督」「ジャ・ジャンクー監督」の映画に挑むほどの覚悟を決めて見た。

第二次世界大戦後、ソ連に占領されたポーランドで、芸術を政治に利用しようとする社会的リアリズムに反対した「ストゥシェミンスキ教授」は、「仕事」「食べ物」を国に奪われる。社会的リアリズムに賛同しなければ「生きれない」状態に追い込まれる。だが最後まで信念を変えず死んでしまう。

これ見てて「政治」「歴史」にそんな詳しくない僕でも、「社会主義体制」に「何かいいことってあるのか?」と思ってしまう。多分「殆ど実話」なのだろう。「ジャ・ジャンクー監督」の映画に挑む覚悟は消えて、「社会主義体制」の現実に、「震撼」「驚愕」「絶句」するしかなかった。

見終わって調べ、『残像』が「アンジェイ・ワイダ監督」の「遺作」だったことを思い知る。ずっと逃げ続け、「初めて」見た映画が「遺作」。僕の「罪悪感」は「極限領域」に到達。ものすごい「信念」の映画『残像』の前に、僕自身の人生を「反省」し、「アンジェイ・ワイダ監督」に申し訳なく思ってしまった。




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画像 2019年 10月