2017年3月5日、発作的に敢行した「丸山ダムとともに去りぬ」ツーヤオ(八百津・笑)弾丸ツアー。
このツアーは、一部を残してほぼ記事にしている。前説、湯谷橋、旅足橋、湯谷橋から東進、米澤橋、二股隧道、宮ヶ谷橋、宮ヶ谷橋から東進、五月橋、柏木橋、柏木隧道リベンジ篇、再びの旅足橋。続きを書くと言ってからすでに4年以上…(笑)。
今宵ご紹介するのはその帰り道、関市でいくつか寄り道した際のメインターゲット。つまり、事前に知った上で来た、ということ。
どこで知ったかといえば、閉じられて久しい関ヶ原のあのお方のブログでなんだが…お元気にされてるんだろうか。
さて、早速にドン!
いや~これはイイ~。現在地コチラ。
これ、桁橋ということでいいのだろうか。
やさしいアールを介して橋台と接しているけど、アーチ橋とは到底呼べないしな。
これ、見るからに戦前橋…昭和初期か、下手すりゃ大正橋梁じゃないかと見えるのだが、
親柱の銘板はすべて失われているために情報皆無。
もしこれが戦時下の金属供出によって失われたのなら、戦前橋説を皮肉な形で証明することになるんだけども、まあ詳細は不明だ。
まさしく「高欄」。欄干と一体となった親柱の意匠も素晴らしいのだが、
特に「おでこ」にあしらわれたブルーの円形意匠。これ、陶器だ。陶器が埋め込まれていた。
関といえば刃物の町であって、決して陶磁器の町ではない。美濃焼の産地は東農なので少し外れているんだが、なんらか関係があるのやらないのやら?
こういうデザインの橋、
ほぼ見たことないなあ。古い橋のメッカ、埼玉県あたりにありそうな。
橋上から望む、上流側。
向こうに見えるは、長良川鉄道越美南線の橋梁。あれの名称が「第二関川橋梁」だったので、河川名が関川だとわかった。
対してこちら、
下流側。この楕円形意匠も洒落てる~。
そして、北側!
こっちもまた、イイよねえ~。
この「非対称」が、
逆に大きなアクセントとなっていて、心憎い。
背後のお宅とも、
すんごくマッチしてますな~。
ここ、名称がわからなかったので、南側の町名を採って「十軒橋」という仮称で記録していたのだが、Q地図で「吐月橋」と判明した(位置がずれていたが、まあ間違いないだろう)。しかしながら、お誕生日までは判明せず。
いや~、こんな橋が近所にあったら、
毎日撫でまわしに行くな~絶対(笑)。
最後に、気がかりなことを。
この吐月橋、関市の橋梁長寿命化点検による判定は「3」(早期措置段階)だったようだ。
要は、安全に使うためには早期に何らかの措置が必要だと。
(向こうに見えてるのが吐月橋ね・笑)
もしかしたら今頃、超つまらん橋に架け替えられているかもしれない。あるいは、高欄が超つまらん柵に取り換えられているかも。そんなことがあったら悲しすぎるけど、世の流れには逆らえない…。
悲しい感じで、終了(笑)。