お盆の八ヶ岳がみせたもの 〜アカルヒメと牛頭天王と天神さん | かんながら

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旅の記録です

 
 
からの、つづき。
大阪で、阿加流比売(アカルヒメ)さまのところにいった。
丹後の神人はわたしを最初にみたとき「宇迦之御魂」とおっしゃったが、「阿加流比売さまもみえる」とおっしゃった。
それは、産土神様にいらっしゃるので、と答えた。
アカルヒメ神社は、杭全(くまた)神社の境内外末社になっている。
 
でもこのたび、行ってみて知った。
 
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当社の祭神、阿加流比売命(あかるひめのみこと)は、新羅から来た女神で天之日矛の妻と伝える。
当地を開発した渡来氏族の氏神として、その創建は詳(つまびら)かではないが、平安時代に作られた延喜式神名帳に当社が記載されている。
俗に三十歩神社と呼ばれるのは、古来から祈雨の神とされ、室町時代の寛永年間に干ばつがあり、僧の覚証が雨乞いのため、法華経三十部を読経し霊験を得た故事によるとか、当時の境内地の広さが三十歩であったのによると伝える。
またかつて住吉大社の末社であった由縁で、7月31日に行われる同社の例大祭「荒和大祓(あらにこのおおはらい)」に、当地の七名家より桔梗の造花を捧げる慣例となっている。
明治30年に背戸口町よりうつされた境内末社、天満宮、琴平神社とともに大正3年、杭全(くまた)神社境内外末社となり、今日に至っている。
社殿背後の土塁と松山池は、環濠集落の名残が見られる数少ない場所のひとつである。
 
アカルヒメは、アメノヒボコの妻。
天之日矛は出石の神。
 
アメノヒボコは、ダメンズだったからアカルヒメは実家に帰らせていただきます、って逃げてきたことになっている。
 
繰り返し読むと、理解が増えるものなんだな、今みた、7月31日。
7月31日はわたしにとって縁日。
 
身近な関係者で3人もこの日の生まれがいる。
しかも明治天皇祭(お隠れになられた日)は7月30日である。
そしてその翌日は世界最大の花火大会っていわれてた大阪PLの花火大会。
 
なんかある、8月1日。
 
 
その日を前に、桔梗の造花がアカルヒメ様に捧げられる?
しかもよくみたら、もともと杭全神社じゃなくて、住吉大社の末社じゃん。
そして元は「背戸口(せとぐち)」町にあった。
 
瀬戸口でしょ、普通に考えて。
瀬戸内海を通って、きました?
 
だんじりは住吉大社から一直線の道路に結集して、杭全神社に宮入りする。
 
以前に阿波の玉ちゃんに聞いたけど、阿波では、だんじりは、海に出るらしい。
「てんのうさん」の、お引っ越しの様子だって。
 
ふとん太鼓もそういうことみたい。
ふとん太鼓とだんじりって全然ちがう。
朝まだ街が寝てるときにひっそり出るふとん太鼓。
 
だんじりはご存知のとおり、やんちゃ祭。
男の祭りってかんじ。
 
赤いお布団って、御輿入れってことかな。
でもだんじりより先にあるんだよね。
お姫さまのところに、だんじりがくるってこと?だったら辻褄があうような気がする。
 
とにかく、わたしのふるさと杭全(くまた)神社では、だんじりは港から入り、宮入りする。
ふとん太鼓は、静かに祭の最初の朝にでる。
 
 
わたしの祖母は、「はいからさんが通る」の漫画に出てくるようなお嬢様だった(と思う)。
明るくて、勉強もできて、働きもの。
もう50年近く前の今頃祖母は亡くなったが、ちゃんと、だんじりを引く人たちをもてなして、旅立ったといっていた。
 
祖母の生家のあった場所にも行ってみた。
そこは高津宮だった。
 
大江山 いくののみちも とおければ まだふみもみず 天橋立
 
 
 
わたしには、進学先を選ぶ自由がなかったが、なぜそこまでしてもう今は「生野」にはない学校にいかねばならなかったのか(それは完璧に母の強い希望である)、ぼんやりはみえてくる。
 
「白梅」だし。
 
 
梅か。
菅原道真。
熊野=牛頭天王=スサノオ。
 
とにかく苦手な大阪、とりあえず成った、と思う。
生野の吉兆で、ご馳走してもらったし。
母が聞いたら卒倒するだろうが。
 
あのみちの向こうには、近づいちゃいけません、って言われてきたし、なんとなく雰囲気が苦手なので自分の住む地域でも自分の住んでたごく一部の場所しか知らなかった。でも、今回生まれて初めて知った場所がたくさんあった。
 
 
さて、わたしは調っただろうか。
 
伊勢平氏おじさんは、わたしのバロメーター。
伊勢方の母と、伊勢平氏おじさんは、そっくりである。
 
 
わたしの中の大阪が調えば、伊勢平氏おじさんとの関係に変化があるはずだ。
 
 
 
 
で、行った。
山に。
大阪から帰ったその足で。
 
 
 
行きの車の中では、機嫌よくも悪くもないくらい。
 
以前だったらビクビクしたけど、しなくなった。
はじめておじさんと共有する場で自分の場がもてた、と感じた。
 
おじさんは、好好爺というか、おじいちゃんみたいになっていた。
 
たった一回でもそうなればいいや。
今までは萎縮してちっとも自分らしくいられなかった。
 
 
彼もわたしがよほど「憎く醜い女にみえる呪詛」にでもかかっているようだが、
わたしも彼がよほどの「やなやつにみえる呪詛」にかかっているように思える。
 
 
わたしは、今までの人間関係を振り返って、「これはお試しだ」って思って、
感情を排除して自分の内面の不調和の方を調えるように努力してきたが、おじさんは違う。
 
気に入らないものは遠ざけ、祓う。
そうすれば解決すると思っている。
 
 
世のダメンズ同様、すべて相手(わたし)のせいにしてわたしの方を変えようとする。
 
磐長姫(いわながひめ)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)を託されて、
「ぶさいくな磐長姫の方はいらない」って返した、元祖ダメンズ邇邇芸命(ニニギノミコト)と同じである。
 
 
相手が不機嫌でも、その機嫌を取ろうとしなくなった。
相談の電話で、伝えてて、気づいたけど、わがまま男の機嫌をとってはいけないのだ。
ますますそれが助長されるだけだから。
 
 
自分の心地いい状態から外れないことが大事だ。
自分の感情、自分のエネルギー状態に責任をもつ。
そうすれば、自分の場を作ることができ、自分の望む現実を作って行ける。
 
結局「永遠の今」の連続が未来を作っているのだから。
 
 
 
おじさんには、またしても「空気が読めない」ってことを怒られた。
 
わたしはおじさんの話の腰を折るらしい。
疑問に思うことを聞いてるだけなんだけどな。
 
他の人とだったら、
「なんでそう思うの?」
って興味を持たれて、話が弾むけど、おじさんは、「否定された」って思うみたい。
 
 
今までは「違うな」って思いながら聞いてたんだけど、
そうすると、隔たったままなにも言えずに、オーラ消してニコニコしてるだけになった。
そして「バカ」とか、「愛想笑いが気持ち悪い」とか、「話しててもつまらない」と言われるようになった。
 
だから隔たった段階で、質問を入れる作戦にでたのだが、わたしの言い方は直接的すぎてダメらしい。
 
「そういう意見もあると思うんですけど、わたしはこう思う」と言え、と提案された。
 
もちろん、承った。
 
でもわたしは知っている。
そんな小手先で、「憎く醜く見える呪詛」はとけっこない。
 
 
だいたいみんな まず、「理由があって」「不満が出る」、って思うけど、実際は逆である。
「不満」なときに「理由がみつかる」のである。
そしてその理由は潰しても潰してもわきでてくるものである。
 
 
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というではないか。
 
 
 
八ヶ岳高原ロッジで開催中のハチロー展に。
 
最初に八ヶ岳にきたとき知り合ったハチローさん。
 
昨年は、コロナで中止に。
会うのは2年ぶり。
元気のないとき、たくさんの絵を送って励ましてくれた。
 
 
八ヶ岳はもともと木がなかったのを西武の堤さんが植えた、と聞いた。
天皇家の資産は戦後、幾ばくかを残して払い下げられたらしい。
だから、「プリンス」なのだそうだ。
 
この辺にも天皇陛下がこられたことがあって、記念植樹があったりする。
 
 
おじさんは1日目はビールがあまり美味しくないといってほとんど飲まなかったが、
2日目はわたしに怒ったりして元気になったのかコンビニで買ったワインを楽しく飲んだ。
 
機嫌がいいときは、とてもいい。
たぶん、他の人にはこういう人なんだろうって思う。
 
思いがけずに一緒に飲むことになってしまった(満月と酒と、アワとスワ)ヨギの治療師も伊勢平氏おじさんにそんな印象をもっていた。
 
なんでわたしにだけ、ああなんだろ。
やっぱり呪詛としか思えない。
 
「あなたの目の方が曇ってるんじゃないですか」って言っておいたけど。
「キミはよくもまあそんなに自信があるんだね」って大笑いしていたけど。
 
大体矛盾してる。
わたしのことは「嫉妬」の問題があると言っていたのに(意思のチカラの使い方 〜ネガティブと、どうつきあうか)、もしそうなら自信あるわけないじゃないか。
嫉妬っていうのはコンプレックスからくるのである。
 
 
 
 

「障りが起きはじめた直前、わざわざ電話してきたことを覚えてる?」って聞いた(阪神淡路大震災から26年 〜神の居場所)。

 
もちろん「覚えてない」っておじさんは答えた。
 
この記事は、帰ってからたまたまブロ友さんのrukoさんが古い記事になぜかタイムリーなコメントをくださったのだが、この内容をまさに山で伊勢平氏おじさんと話していたのである。
 
 
わたしは、自分の転機に家族のことで動揺することが起きるって体験をずっとしてきた。
だから、わたしは家族の方を手放した。
 
普通はしない。きっと。
 
でも、そういう選択もあり、だって思う。
 
 
おじさんと山でテレビをみているとき、少年院でオレオレ詐欺の受け子にならないように、
「あなたの家族がされたらどう思うか」みたいなことを聞く更生プログラムをやっていて、
「親に愛された体験のない子にそんなこと言っても分かり合えない」って思った。
 
 
わたしは家族の情に育まれないで育ったが、愛された体験が乏しい人たちの気持ちはとてもよくわかる。
 
 
 
おじさんは、昼寝をしすぎて眠れないことをわたしのせいにして、
「もうキミとは山に来ない」って怒って背中を向けて寝ていたが、
疲れているはずのわたしの方は目が冴えて、外をみた。
 
星空が明るかった。
 
アフリカの砂漠でみた月夜や、明るかった満天の星空を思い出した。
 
 
明け方、夢をみた。
 
わたしは山の上を何かの乗り物にのって飛んでいた。
温泉が見えた。
 
小さなお堂があって、伊勢平氏おじさんがそこで祈っていた。
そこになにわの審神者(さにわ)がふんどしと鉢巻姿ででてきて、禊かな、って思ってたら、
おじさんに「一緒にやりますか」って声をかけていた。
 
もう一人同じ格好の人がきて、白山のサルタヒコだった。
 
3人は一緒になにやら行法をはじめてわたしはなんとなくそこにいた。
 
そんな夢。
 
ちょうどおじさんが目が覚めたみたいだったから「今おじさんが夢におじさんが出てきたよ」って言った。
 
めずらしくおじさんは、
「どんな」と聞いた。
 
だから、答えた。
 
 
「それは、熊野で、玉置神社の近くの十津川村で、その近くに湖があるところ」とおじさんは言った。
 
 
調べてもわからなかったが、今みたらこんなものが。
 

川合神社(御祭神:菅原道真)

 

菅原道真を祀る神社。

安貞2年(1228)に、十津川郷の地頭であった玉置庄司が西川の河合(矢倉観音堂の前田谷の上流)に天神社を祀ったのが始まりで、その後、この宮平に遷宮したとのことです。

とある。

 

 

 
 
川合神社の祭神は、菅原道真公。(略)
この川合神社は、桓武天皇の16代の子孫、平資盛(たいらのすけもり)(平清盛の孫、改名して玉置直虎)は、1185年2月7日攝津の国1の谷落城の後、河内国の梅谷で、三十六郷の領主となった。しばらく居住して北野天満宮を杉の枝に勧請し、男子4人を連れて伊勢国へ移り、牧田庄大里に居住して16郷を支配した。この地を長男一正二譲り、玉置直虎は大和十津川郷の玉置山に移った。
1217年、三男の加賀守直次が十津川郷の?地頭として玉置庄司と名乗り、住居に天神社を建立していたが、1228年年5月15日西川の河合(川合)の郷に祀り、川合天神と称するようになった。そして、末代まで玉置氏の鎮守神として崇め、お参りを怠ってはならないと戒めた。
(玉置山権現縁起)
 
加賀守直次が建立した川合の郷はどこか。世界遺産「小辺路」高野街道に隣接し、「矢倉観音堂」上の尾根を東へ上がったところ、現在の川合神社から道路を500メートルほど上がった前田谷の上流に「川合」と呼ばれる地がある。ここは杉木立の間を細い谷川が流れ、その岸辺には大石をあしらった石垣が今も苔むしたまま残っている。昭和20年代半ばまでは、数枚の棚田だった。一番下の小さな田が、「天神田」と呼ばれて牛で耕さず人手で行われていた。小さな祠が祀られていたのでしょう。天神さんが、いつ宮平の地に移されたかは定かではない。
 
その後宮平の地には、菅原道真公を祀る本社をはじめ、勝手神社、若宮神社、稲荷大社の4社が鎮座することになった。(後略)
 
川合神社氏子有志
 
 
 
矢倉観音堂は、「大阪天満市場山家屋彌兵衛」と刻まれているってある。
大阪の天満と関係があるのか。
しかも、「耳」を患う人が願をかけ、地蔵さんの頭を撫でると治ると言われているだって。
 
「耳」!?
 
もちろんそれは、ミシマミゾクイ「ミミ」ノカミ。
 
そもそも大阪をいう「攝津」って、耳三つなんだもん。そのままじゃん。
 
天神さんと三島の神は繋がっているっぽい。
しかも熊野の奥地で!!
 
なんとそれをいいあてたのが、わたしの夢を聞いた、伊勢平氏おじさんっていうのも面白い。
 
 
そうだ、今年の2月、星供養のとき、成田山に行った(瓢箪から駒が出て、さて、次は? 〜成田山・星供養)。
星をマンダラにしている本尊が開帳される。
三島は海賊だから星や暦は関係ある氏族。だから行った。
 
 
そのときのことは、こう書いている。
 
表参道についたら、なにわの審神者(さにわ)から電話。
 
「成田山から帰ったところ。そちらは?」
「玉置や」
「え?玉置?」
「平資盛(すけもり)が関係しとる。大トン神社ってところが奄美にあるらしい。」
 
「大トンじゃなくて、大チョンってよむんだけどさ、ウチの集落にある神社だよ。加計呂麻島の諸鈍(しょどん)。」
 
ここのことに違いない。なにわの審神者(さにわ)も川合神社を見つけてたんだな。節分の頃に。
そして、見える「加賀」の文字。
加賀藩も梅鉢紋。
 
梅つながり。
 
白山のサルタヒコもちゃんといた。
 
 
ミシマミゾクイミミノカミ(攝津)にも、奄美の加計呂麻の諸鈍の大屯神社にも関わるじゃん。
平資盛(すけもり)は、玉置氏だったんだ。
 
玉置神社にわたしがなにも感じないのはそういうことなのかもね。
だって、祀っている方だもん。資盛を。
 
 
真言密教・なにわの審神者(さにわ)と白山天台・白山のサルタヒコ、そこに祈る伊勢平氏おじさん、なぜかその3人を見てるわたし。
まんまじゃん。
 
 
もう現実的には2人の審神者(さにわ)はことを終えて次に行ってるんだけどさ。
おじさんだけがまだ祈ってて。
あ、それもまんまか。
 
 
そういえば、おじさんは、「うちの集落には資盛の神社がある」っていったら「維盛と関係ない」って言ったけどさ、維盛の異母弟だし、どちらかというと逃げた維盛とは違ってなんかちゃんとしてるし。むっちゃ関係あるじゃん。
 
 
わたしが夢でみた実際のお堂は、写真でみたところ「果無(はてなし)観音堂」ってとこみたい。
不動明王1体と観世音菩薩2体が祀られているお堂。
 
 
不動明王は、大日如来と同じ(七夕だから、成田山 〜祇園会に開くもの)。
 
ここ、川合神社でみるところ、菅原道真が、玉置山権現っぽい。
そして祀っているのは、平資盛(すけもり)あらため、玉置直虎。
熊野に鶴ヶ城を作ったらしい。
 
そして資盛は奄美に落ち延びたという伝説があり、なぜか奄美の加計呂麻で「大屯(おおちょん)神社」として祀られている。
旧重陽9月9日の祭り「諸鈍シバヤ」というマレビト信仰の芸能を残している(神の居場所その2 〜神様はいつきたのか)。
うちの集落の小さなあの神社がまさか熊野の玉置神社に繋がっていたとは。
 
 
だいたい、こっちで玉置山権現を祀ってたんだとしたら、生きてたんでしょ。こっちで。
 
いつも島ではヤマトのことを祈ってたんだな。
久高島も、古宇利島も。
うちの集落も田んぼがあったり、馬を田んぼに使ってたり、裕福な場所である。
熊野と交流があったのか。
 

菅原道真が、玉置山大権現?
そしてそれを祀ってたのが、平資盛。

諸鈍には「諸鈍長浜」って歌がある。
沖縄には琉球古典の「しゅどん」と言う歌があって、歌詞がそっくりらしい。
諸鈍の乙女の笑顔がむっちゃきれいで忘れられないって歌である。


それにしても、菅原道真。
天神さん。そしてなぜか、ある、牛。
繋がってきたような気がする。

菅原道真は、菅家っていう名も持っている。

 
 
 
紀伊国(きのくに)熊野の豊かさは、木だけじゃなかった。
島とその向こうの大陸との交流があったから、豊かだったのだ。
 
 
その影に見える天神さん(菅原道真)。
杉の枝ってなんの印?
書いてて思ったけど、杉って杉玉。
そして、三島明神(大神神社)の三本杉じゃん。
三島か?
 
まだわからないことはたくさんある。
 
山にきたときは、まだ雷雨の合間で、夏はこれからって感じがしたけど、
帰る日はもう夏空になっていた。
 
「夏の空になった」
とおじさんは、言った。
 
 
3度目の夏は、くるのか。
「神事には、3度目はない」ってなにわの審神者(さにわ)はいっていたけれども。
 
 
おじさんにも言ったけど、実は1年目に全てのことは成っていた、と思う。
2年目は審神者たちが入って、美志摩かなの「かんながら」の旅を成就するようにガイドしてくれ、こうして記録もできた。
 
 
3年目の今は「そういうことだった」と検証している感じ。
答え合わせ。
 
 
1年目の夏の終わりに、おじさんにメッセージが降りてきたように、
 
「小さなしあわせを大切に」
 
スタートしてればな。
 
 
あの頃は間違いなく、「美志摩かな」じゃなくて、本名のひとりの女だった。ちょっと浮世離れはしてたけど。
 
 
 
おじさんも、わたしも、
「決めるのは自分」っていうところでは一致する。
くるか、こないか、はわたしの意思による。
 
 
 
わたしは、なにわの審神者(さにわ)が言った、
 
「神事に3回目はない」にも、
 
おじさんの見たビジョンの
「赤いワンピースを着て微笑んで去っていく」
 
に従う気もない。
 
そうなればそうするけど、おじさんの夢に従ってそうする気はない。
あくまでも、わたしはわたしの意思で自分の人生を決めるのだ。
 
 
 
でも、わたしはどうしたい?
まだ、わからない。
 
 
 
いよいよ最終章って感じになっているけど、さらに宿題をくれる伊勢平氏おじさん。
 
でも今度のは結構いい線きたよ。
7月25日は大阪天神祭。
7月31日は、阿加流比売神社の「造花の桔梗」
 
本丸の「大阪」。
 
なんか重要ってすごく思ってたから。
あと、「天満橋」。
 
天満は天満宮なんだから、関係あると思うんだけど、加計呂麻のあるおばあちゃんが歌ってた歌。
 
「天満橋で、待っていた○○ちゃんは、待ってた男がこなくって、川に身を投げた」
かなんかそういう悲しい歌。
 
 
ありそうな話だけど、そういう歌が実際にあったのかどうかわからない。
 
大阪から遠く離れた奄美で、おばあちゃんは大阪にいたわけでもないのに、なんでそんな歌うたうんだろうって不思議だった。
 
 
でもなに、それ?
まさかそこにも島がらみの瀬織津姫がいたのではあるまいね?
 
 
 
いつも通り最高地点の蕎麦。
 
そばを待っているとき、いつもの話になりそうだったので、時間がもったいないから別の話をふろうと思った。
本当に伊勢平氏おじさんは同じ話ばかりする。
わたしが相手だと話にならないらしいから。
 
聞き忘れてることはないかと思ったら、「山本七平」が浮かんだ。
 
「山本七平さんのことを聞きたいです」
「何」
「お会いになったことありますか」
「ある」
「どういう経歴の方ですか」
 
結局おじさんは知らなかった。
ただ、「大蔵省の売店で自費出版で「日本人とユダヤ人」を売っていて、それが話題になったのがはじまり」と教えてくれた。
 
それで十分だった。
母や祖父母の考えとそれが一致するのは、そういうことか、ってわかったから。
 
 
伊勢平氏おじさんはもう50年近く前、仕事で会ったと言っていた。
すばらしい視点の持ち主で、(わたしが考えたように)誰かを参考にして書いたのではない、と言った。
(Wikiで検索したところ、それが正しいとするなら実際には複数の外国人の知人との話から書かれたようである。)
人柄も素晴らしいと絶賛していた。
 
 
そして、「彼は、本物だった」と言った。
 
 
彼が売り出したのは、「天才だがひどいやつ」だったらしい(意思のチカラの使い方 〜ネガティブと、どうつきあうか)。
 
 
仕事の成功ってなんなんだろ。
売り上げの大きさ?
それは間違いなくそうなんだろうけど、わたし、どうもそこ、納得いかない。
 
 
お金にならないから、って消えていった伝統芸能や文化。
宮大工さんなんか食べていけないから継承する人がいない。
それを支えるパトロンもいない。
 
 
みんなのマインドが「恐れ」でいっぱいでため込むようになったから、経済は民を済(すく)わなくなっている(インターネットの社会の中のリアル 〜 経世済民・アフターコロナの世界のゆくえ )。
 
 
おじさんは、どこかに心をおいてきたのかなって思う。お金や成功と引き換えに。
中原中也が好きで、詩を書いてた頃の伊勢平氏おじさんとは、共感しあえたところがたくさんあったんじゃないかなって思うもん。
 
 
もうとりあえず成功して、リタイアしたんだから、お金も成功も必要ないのに。
だったら、何したいんだろ。
 
興味は、ゴルフと、テレビ、35歳の女(金環日食ふたご座新月・水星逆行の八ヶ岳 〜3度目の挑戦のゆくえ)って、ヨギの治療師が教えてくれた「愚民化の3S政策(Sports Screen Sex)」まんまじゃん。
 
 
あたしも、無為に暮らしてて、それをおじさんに投影してるのかもな。
気になってしょうがないもん。
わたしも変わりたいって思ってるんだな。
 
でもどんなふうに?
 
 
いや、このまま旅は続けたい。
それでもいつでも迎えてくれる人はいて欲しい。
地域ネコ的生き方?
 
 
まあ、すでにしてるって言えばしてる。
明日が保証されてないところは、ノラ猫と変わらない。
 
 
 
 
 
 
東京へ。
渋滞しちゃって、相撲の時間に間に合わないからとても機嫌が悪かった。
 
それでも(間に合う時間に)「ここで降りましょうか」って言ったら、
「(残り物の野菜がどっさり入ったリュックをさして)それを持たせて歩かせるわけにいかないだろう」って言われて驚いた。
 
どっちにしても1キロぐらいは歩くんだけど。
「コロナに気をつけろ」って言われてるから、「ラッシュの時間に電車で帰る」は想定されていなかったのだろうが。
 
それでも、おじさん、すごくやさしくなった、って思った。
 
 
 
もうすぐ明治天皇祭。
7月30日。
 
 
 
東京も夏の空になっていた。
 
 
 
で、気にになったのは、これ。
 
瓢太閤。
瓢箪?
海人族じゃん??
 
そういえば、豊臣秀吉の印は「千成ひょうたん」。
 
「ひょうたんは いつもぶらぶらしているが くびのまわりに しめくくりあり」
 
ヨギの治療師が教えてくれたそれ。
 
 
太閤さんは大阪のヒーロー。
日吉大社から出る千成瓢箪の印と徳川さまの葵の印。
 
 
 
グズグズしてたけど、靖国神社のみたままつり。
最終日になっちゃった。
 
しかも、行ってから気がついた。緊急事態宣言のために閉門時間が繰り上げになってた。
 
 
とりあえず中庭特別参拝は間に合った。
 
しろくまさんの前世だって、信じられていた「形見の万年筆」の特攻隊員さん。
そして、わたしのもうひとりの祖父。
 
しあわせに暮らします。
 
 
 
 
 
 
 
 
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