意思のチカラの使い方 〜ネガティブと、どうつきあうか | かんながら

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旅の記録です

 
山で特別ないいことがあったわけではなかったが、ほんのわずかでも、ようやくわたしの「場」で伊勢平氏おじさんと過ごせたことで、わたしは(おじさんとの関係では)とてもめずらしく充足していた。
 
一方、おじさんの方は、ぐったりしてしまったらしく1日起き上がれなかったらしい。それは一緒に旅したとき白山のサルタヒコからも聞いたことがある。シャクティパットとやらを気軽にお試ししたからかもしれないが、1週間起き上がれなかったと言っていたから。
わたしの方には何も起こらず、サルタヒコがかざした手のほうから青い光がみえたくらい。
 
 
しかしながら、因縁の関係がそれで昇華することはやっぱりなく、
「東京がパンデミックになったら(危険な東京にわたしは残して)自分は娘と山に行く」
などとわざわざ告げてきた。
 
 
わたしが彼にとってそんな位置づけなのは知っている。
だからそれは、さほどショックではない。
 
けど、この利己的遺伝子が暴走しているとしか思えないおじさんと世界をどう共有すればしあわせに生きられるんだろう。
 
別々の世界で暮らす?
本当にそれしかないのか。解は。
 
いや、それではダメだ。
まいた種は刈り取るのだ。
 
 
 
山でおじさんとホロコーストの話をしたけど、ヒトラーは、みなの思いの投影だったと思う、というところで合意したんだけどな。
障害者の施設でたくさんの人が殺された事件も。
 
 
世相は、わたしたちの意識のあらわれ。
わたしたちは、わたしたちの置かれている現実に責任があるし、同時に理想に変えていく力があるはずである。
おためしか?これも。
 
 
やっぱりわたしは、わたしの生み出した世界に責任を持たねばなるまい。
この思いやりのかけらもない伊勢平氏おじさんは、認めたくはないが、やはり自分自身の投影なんだろうなって思う。
 
 
都をつなぐ旅 〜オーサカからトーキョーへ 護国寺から靖国神社へ(その2)で書いたけど、わたしには歩道橋で物乞いをしていた軍服姿の足を失ったおじさんとか、戦争ですべてを失って苦労してきた人たちの記憶がある。過去世のような遠い記憶だが間違いなく今世の体験である。
 
 
わたしが人生の半分を過ごした大阪には、日雇い労働者が路上生活をしているのがあたりまえの「あいりん地区」があった。高度成長期の全国のダムや道路、橋は、そこに名を刻まれる大企業に働く高学歴高所得のサラリーマンによってではなく、彼らの労働によってつくられた。
 
それどころか、エアコンの効いたオフィスにいるサラリーマンたちは、炎天下で汗水流して身体を張っている彼らに養われていたのだ。
 
 
でもわたしは彼らの貧困から目をそらして生きてきた。
 
だからわたしの無関心が、このひどい世界を創ったっていう自覚がある。
わたしはそこに、よい種がまかれていないことを知りながら、自らの手でよい種をまこうとはしなかった。
 
 
昨年山で、コロナ禍に政府からもれなく10万円支給されて喜んでいるわたしが、
 
「みんながもうお金はいりません、だから働きません!って言ったら金持ちも困るのに」って言ったとき、
 
おじさんは
「そうは絶対にならない。必ず働くやつはいるから」と言った。
 
そのときは、「そうかもな」って思ったけど、今はちょっと違う。
 
 
 

人が笑って、幸せそうにしているのをみていたい。

人が幸せでいられるのなら、神は、いなくても別にいい。

 

それって国常立尊さまを「沓島冠島の間に人と神様が共謀してしずめた」(続・答えあわせの東京散歩 〜その2 芝公園というお地場(聖徳太子がつなぐ不思議なご縁))」ってときと同じじゃないか。

 

って書いたけど、瀬織津姫が便所の係を降りてから、明らかに、何かが変わった。
たしかに、世界が逆転したりはしなかった。
 
 
でも、役を降りた瀬織津姫が「49対51」の「51」にになり、
今までただ理不尽に耐えていただけだった人たちが「51」になったことで何かが変わり始めた。
 
コロナや、そのワクチンの問題も、
オリンピックの問題も、
きっとこれからの経済や政治の問題も、
 
ほんのわずかなバランスが、世界を大きく変えていくような気がする。
 
 
伊勢平氏おじさんが昨年山で問うてきたことがある。
 
「民主主義のいい点は何か」
「体制を、一瞬で変えることができること」
 
 
「多数決」という名の不思議なパワーバランス。
某国のような絶対君主制の場合はクーデターしかない。
 
 
わたしが明治神宮の森を歩くようになって1年くらい経ったころだから、7、8年前になるのだろうか。
ある日、毎朝微妙に朝日が差す場所が揺らいでいるような気がして、地軸が揺れ始めた?と思ったが、気のせいと思っていた。
 
イヌイットの間でも同じころ騒ぎになり(彼らは普段から太陽をよくみていたので「おかしい」とわたしより強く思ったのであろう)、研究者が調べたら地軸が揺れている、と分かったらしい。
 
 
 
この地球も私たちの意識と連動しているとしたら、まさに今は、かつての北極星が他の星に変わったように、大変換の可能性を秘めた時期なのかもしれない。
 
だから、社会や人の価値観は変わると思う。
 
 
「望まない現実」に対して、「あきらめ」や「無関心」ではなくて、「本当に望む完璧な理想」の種をこの地上にまいたなら、きっとそれが成就する。
 
 
(龍体の)瀬織津姫は、長いあいだ、竹の「籠」に閉じ込められて、みなの罪穢れを引きうけてきたが、その呪詛が何らかの理由でとけて目覚めはじめ、この世界の実態に気づいたようだ。
瀬織津姫が実在するのか、実際にどうなのか証明はできないが、現代の瀬織津姫のような人たちは、今解き放たれつつある。
 
 
今まで黙って犠牲を引き受けてきた人たちが「ノー」をいいはじめた。
 
だって、彼らの献身と忍耐によって、世界は良くなるどころか、無関心と諦めが蔓延して横暴と搾取が増長されただけだったと、気がついたから。
 
 
前回の記事(金環日食ふたご座新月・水星逆行の八ヶ岳 〜3度目の挑戦のゆくえ)で書いたように、伊勢の踊りの先生に「めらめらと揺らめくすごい情念」を指摘されるまでもなく、私は自分自身のとてつもないエネルギーの大きさを自覚しているが、
 
伊勢平氏おじさんは、このエネルギーがわたしにある「スイッチ」によって、(悪意のある他人に)「利用される」って言う。
 
 
わたしだけでなく、人は、関わり合うとき、エネルギーを交換している。
 
人だけでなくこの世の神羅万象はそれぞれ交流しあって存在している。
 
エネルギーは混じり合う。そしてそれに応じた現象(現実)を生み出す。
人のエネルギーをわたしは「意識」と呼んでいる。
 
 
おじさんがいうように、わたしは「利用」されているのかもしれないが、そもそも人は自覚しているか否かにかかわらず、他人のエネルギーを「利用」している。「利用」というか、「影響」されているからである。
 
そのエネルギー(意識)の交流の結果が自分にとって望ましい場合もあるし、そうでないこともある。
 
わたしは、それは「自分の理想に添うかどうか」によって決まると思う。
 
 
伊勢平氏おじさんの言っている「キミの(嫉妬)のスイッチが入るとネガティブに振れる」っていうのはなんなのか。
 
自分のことはわからなくても、他人のことは客観的にみられるからわかりやすい。
 
伊勢平氏おじさんがわたしに言ってきた、というのは「自分がそうだ」ってことだとわたしは思う。
おじさんはものすごい勢いで否定するが、「他人に言うことは、自分に言っていること」=投影。
 
 
おじさんは世の中を変えるために、若いころ自己啓発の仕事をやってきたようだが、「世の中は(自分が思ったように)変わらなかった」と言っていた。
 
 
彼自身が「天才だがひどいやつ」という、彼の仕事で関わった人たちは、わたしが(友人としては)好きになれないタイプの人たちである。
わたしにとっては、伊勢平氏おじさんも、残念ながら友人としては好きになれない相手である(それでも最近は多少かわってきた)。
 
 
そんな人たちに、彼は様々なエネルギーを与えて、社会的な影響力を持たせた。
それが彼の仕事だったから。
 
 
彼らだけではそれほどなかったはずの影響力は、おじさんとおじさんに関わるエネルギーを得て大きくなった。
生み出したものはお金だけじゃない。
人の「よくなりたい」という欲望に火をつけて、一時、社会はよくなったようにみえたが、結局は一部の人を大金持ちにしただけで、社会はおじさん自身がいうようによくならなかった。
 
 
うちのしろくまさんは、自己啓発にかけた費用も時間も膨大である。遺品整理のとき、どれほどの本や教材を捨てたか思い出しただけで気持ち悪くなる。そして生きているときもそのことでモメたかしれない。
しろくまさんは、別の誰かになることが成功だと信じて苦しんで戦い続けた。
 
おじさんとの間でも、今まで何度か話題になったことがある。
洗脳された方が愚かなのかもしれないが、人を愚弄して金儲けしていた輩は罪だと思う。
私に、「人を惑わす霊能者は、成仏できない」というではないか。
 
 
 
おじさんは、なぜそんな人たちと関わったんだろう。
おじさんがわたしに言ったことが、彼自身のこと、と仮定するなら、
 
おじさんのとてつもない力は、おじさんの「嫉妬」のスイッチによって、ネガティブな(というか望ましくない)方向に利用されたんじゃないのかな。
 
彼の個人的なことだから書かないが、それは彼のことをそれなりに長い時間みてきて、はずれていないようにわたしには思える。
 
 
では、わたしは?
 
わたしのエネルギーが、「嫉妬」によってネガティブな影響を引き起こす。
とくに彼がいう「ネガティブな影響」は、「キミを通してくる障り」で、障りの向かう先は、彼と彼が偏愛する娘である。
 
わたしに嫉妬があるとすれば、以前の記事(あなたに、愛されたい)に書いた通りで「家族が特別」という観念に対してだ。
しかも、おじさんを「なんとかしたい」って思っているから(金環日食ふたご座新月・水星逆行の八ヶ岳 〜3度目の挑戦のゆくえ)、心ある友人たちに「止めろ」と言われてもまだつきあっている。
 
 
応援?してくれていたのは、なにわの審神者(さにわ)と白山のサルタヒコくらいだ。
 
彼らは、おじさんが「キミを通してくる障りをなんとかしろ!」と騒いでいるときも、「自分にないもの(障りも幸運も)はこない」と冷静だったし、
 
「障りがくる」というのは、「(わたしといると)ととのえが入るから」と教えてくれた。
 
 
そして、以前の記事(みんな、ありがとう)に書いたように、
 
「キミからくる障りをなんとかしろ!!って言われたら、どうしたらいいの?」って聞いたら、

「わたしの胸に飛び込んだら、障りは全部消えますよ」っていえばいいやろ、って言っていた。

 

 

「障りは私のせい」と信じて、自分のことは微塵も疑わない伊勢平氏おじさんが、わたしの胸に飛び込んでくることはなかった。

 

彼の先祖は、自分たちの起こした罪穢れを一手に引き受けてくれている瀬織津姫を祀って、瀬織津姫に引き受けてもらっていたのだろう。

だから、きっと今まで自分のしていることに気づかなかったのかもしれない。

 
 
つまり、わたしは、「自分は悪くない」というわたしの理想にそぐわない伊勢平氏おじさんにエネルギーを与えてて(彼は自分を開かないからさほど交流できないが)、そこで生み出されるネガティブななにかが「持ち主」の伊勢平氏おじさんのところに返ってしまう、ってことなんだろうか。
 
 
結局、今までは伊勢平氏おじさんはわたしの胸に素直にとびこむことはなかった。
でももう3年目の夏になり、そういえば、おじさんのいう「障り」も「ひどいことが起きた」という過去形になっている。
 
はっきり言おう、おじさんの娘はおじさんと一緒にいるからおじさんが受けるはずのあれこれを受けるのだ。おそらくおじさんにつけられている監視か邪魔のせいで身動きできなくなってるんだろう。おじさんがしがみついているのかもしれないが。
 
 
わたしは、自分の子どもを4人も捨てている。
「あなたの子どもは守られた」
それが正しいのか正しくないのか検証しようがないのでわからない。
でも、おじさんが認めている関係者から、おじさんと知り合うずっと前にその言葉をわたしは聞いた。
 
昨年すでに「ずっと同じことを繰り返してる」となにわの審神者(さにわ)に呆れられていたが、さすがのわたしも今回は「3度目の正直」と自覚する。
 
 
 
わたしは「嫉妬(執着?)」によって、(自分とは折り合わない)おじさんにエネルギーを与えている(おじさんにわたしのエネルギーを利用されている)。
 
おじさんは、(わたしからみて)監視か邪魔でも入ってるかのように「自分のやるべきこと(使命)=将門の御用」が果たせていない。
本人もしなければならないことができないといっているから自覚はあるようだ。
その邪魔は、間違った観念の鎖(利他ではなく利己的な考え)。
 
エネルギーの強まったことによって外れた鎖も、自分自身のうちなるありようが変わらなければ、また自分のところに戻ってくる。
 
わたしの審神者(さにわ)や友人たちは、「すべては自分」という考えを採用しているから、自分に降りかかる「障り」には、自分の内面を確認する。そして関係のないものはスルーする。
すると必ず消えていく。
 
おじさんも「自分に向かってくる障りはブーメランのように出したところに返る」と言っている。
だから「(わたしだというなら)どうぞ返してください」ってずいぶん前に言った。
おじさんは遠慮していたようだが、試してみたんだろうか。
 
そういえば、あるときから「キミから」ではなく、「キミを通して」に言われようが変わった。
 
 
今のおじさんの理想は完璧には共感できない。
だから今は協力したくない。
協力するならば、その利己的で身勝手な考えを改めてもらってからだ!!
 
 
いや、違う。協力するのは、おじさんの方だ。
 
 
結局、思いの方向性が、大事だってことか。
 
自分が関わる相手は、慎重に選ばなけば、自分は思いがけず自分のエネルギーを相手に渡して利用されてしまうだろう。
人間の意識は関わり合っているのだから、完全に「利用されないように」するのは無理である。
 
「嫉妬」があると変な執着で、関わるべき相手を見誤るってことなのかもな。
 
 
わたしの街のマリアさまは、蛇を踏んでいない。
 
蛇は、エネルギーだって、わたしは思う。マリアはもう蛇(エネルギー)を解き放ったのだ。
 
その使い方は、わたしたちひとりひとりに委ねられた。
ネガティブにもポジティブにも、わたしたちの意識次第でそのエネルギーは使われる。
 
 
なにわの審神者(さにわ)は、そういえば、昨年には
「楠が松に勝った」とか
「蛇がカエルをのみこんだ」とかあれこれカタシロをととのえてたな。
 
今年はもう同じところにとどまっていないで次にいく。
 
 
冬至に朝日が上る表参道は、夏至には、夕日が沈む場所。
 
 
 
代々木公園のオリンピックライブ会場の場所は7月中は、新型コロナワクチンの接種会場になるらしい。
 
 
オリンピックもコロナワクチンもあれこれ意見はあるけど、着実に何かが進んでいる。
 
 
公園を出ようとしたとき、後ろからなんだかすごいとんがったエネルギーが飛んできて、酔っ払いかと思うような大声とともに、薔薇を差し出したヤンキーっぽい若い子が立ちはだかった。
 
 
「あ、、、、っていうか、思ったより年齢高そうっていうか」
「ごめんね、おばちゃんで笑」
「いや、熟れてる人もいいから」
「ちゃんと歳相応のかわいい子にあげなさい、そのお花」
 
最後には「おねえさんちゃんとオレの話聞いてくれるんだね」って落ち着いて、街のどこかに消えていった。
 
新しいステージの登場人物は、若い子なんだろうか。
今まであんな荒っぽい人とは縁がなかったな。
 
 
伊勢平氏おじさんや尾鷲の大先生みたいに大声で怒鳴りつけるおじさんたちと、心を平らかにつきあえるようになったからきたのかな。
 
 
 
ひさしぶりにヨギの治療師のところに行った。
少し自分に近しい人との交流が欲しいと思ったから。
 
慰霊のつもりはなかったが、彼のいる場所にかつていた少年兵なのか、たくさんの腕がわたしの腕にぶら下がってくるような不思議な感じがした。
 
 
夜遅く、浮き輪を投げるのが上手な長年のネット仲間から
「おまえが必要なものは今何や?」ってLINEがきた。
 
「必要とされたい」って返事した。
「いっぱいおるで、よーまわりをみてみ」
 
 
本当に絶妙なタイミングで浮き輪は投げられる。
「お金貸して」から音信不通だった(サイババつながりの)ババ友もこのタイミングで電話してきた。
 
 
わたしは、ネガティブにならない。
わたしが、わたしの世界の創造主。
だから、わたしが、わたしの思い通りに、そのエネルギーを使うのだ。
 
 
ダボハゼを餌にして、空高く飛ぶ鳥になってやる。
 
 
 
An entire sea of water can't sink a ship unless it gets inside the ship. Similarly the negativity of the world can't put you down unless you allow it to get inside you.
 
船の中に水が入ってこない限り、海全体の水が船を沈めることはありません。おなじように世の中のネガティブも、あなたの中に入ってこなければ、あなたを貶めることはできません。
バーラ・サイババ
 
 
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