弱ってるから、記録が滞ってる。
この間にもいろいろあった。
わたしが弱ると、優しさが向けられる。
だから、ずっと泣沢女神(なきさわめ)になっている。
伊勢平氏おじさんとはあのあと2回会った。
「瀬織津姫のしあわせは?」から悲しみのダムが崩壊して、ヨギの治療師がわたしの悲しみを被ってしまって、胸が痛いといいはじめた(お江戸のお水送り その1 〜田無神社は風の神?)。
これでは、ヨギの治療師が倒れてしまうと思った。
過去のものはともかく、現在わたしに罪穢れを流してくるのは、間違いなく伊勢平氏おじさんである。
なんといっても「キミを通してくる障り」をなんとかしろ、と言われている。
彼の根底に流れるものは(過去のわたしも、そして母もそうであるが)
「自分は悪くない」。
六根清浄大祓は、そうだと言っている。
わがたましいをいたましることなかれ このゆえに
「目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず」
わたしは、外に見える汚れは、わたしの心の汚れで、そのくもりを取ればいいんだって思うんだけど、伊勢平氏おじさんは逆なのだ。
だから、その不浄を海に持ち出して清めてくれる瀬織津姫が必要なのだ。
伊勢平氏おじさんの故郷には、瀬織津姫の社があったといっていたが、先祖代々お世話になってきたのだ。
「自分は悪くない」を支える存在として。
でも。
わたしはもう瀬織津姫係はおりなければならない。
うっかり「一緒に引き受ける」といってしまったお人好しのヨギの治療師が潰れてしまう。
あまりにもしつこく伊勢平氏おじさんに「周りのちゃんとした人」に聞けと言われるから、「どうしたら、おじさんの障りが消えるの」となにわの審神者(さにわ)に聞いとき、
「わたしの胸に飛び込んだら、障りは全部消えますよ」っていえばいいやろ、って言ってたな。
だから、伊勢平氏おじさんに電話した。
プロポーズは、すでに
「わたしのこと好きなんでしょ」とか、
「5人目の夫にしてあげる」とか、
いろんなやり方で何回かしたけど、スルーされ続けてるからもう一度いうか。
そういえば、最近母に年始の挨拶のメールを送ったときに、少し母との関係に変化の兆しがあったし、なにか変わるかも。
おじさんは娘がいるときに電話してきたことを怒って、すごく不機嫌だったが翌日だったか電話して出てきてくれた。
「何が言いたいんだ」
「わたしの中の他人の瀬織津姫が泣いてます」
「意味のわからないことをいうな!!」
そして用意しておいた言葉を伝えたが一蹴された。
「お母さんになってあげる」ってことなんだけどな。
拒絶はしたが、彼の母親の話をしたから、なにかは伝わったのか。
別れ際は多少やわらいで、「次の週末とその翌日のいずれかに連絡する」と言った。
それをヨギの治療師に報告すると、
「え、そこまで言われても拒絶するの!?」と哀れんでくれたが、
「でも、1、2ヶ月で何かが変わる気がする」と言った。
「そこまでして彼となぜ関わるのか」と白山のサルタヒコは呆れるを通り越して怒っている。
もちろん、伊勢平氏おじさんとの関係は、「対極と睦み合う」っていうことをテーマにしてる。
それはずっと。
トランプさんVSバイデンさんじゃないが、この対立を埋めるのには、支持者同士で話し合っても、きっと溝は広がるばかりだ。
敵対する人が、「なぜ敵対するのか」。
そちらを解決しなければ溝は埋まらないではないか。
でも、そんなの「後付けだ」ってサルタヒコはいう。
「男と女なんだから」
このフレーズは、伊勢平氏おじさん自身もよく口にしていたがわたしには理解できないセンテンスである。
もう一度は、満月の2日くらい前だったか、「予定してた日」の1日に新宿御苑で会った。
彼はわかっているのかいないのか、よくわからないが、わたしにはあの場所で伊勢平氏おじさんと会うのは意味があると思っている。おじさんのわずかな行きつけの店のひとつもここである。
内藤新宿。
あの場所に宿場を作ったのは、高遠(長野県)のお殿様。
多武峰(とうのみね)内藤神社があるところ。
飯盛女と呼ばれた遊女がいたところ。
そういえば、玉川上水の終着点、四谷大木戸もすぐそこだ。
その日は機嫌よく帰って行ったが、次の約束(といえないくらい大雑把なそれ)はしなかった。
もう会わないつもりか、それとも、また連絡してくるのか。
見えない世界のなにかが動いて、あの場所に呼ばれる。
何度行ったかは忘れたが、毎回少しずつ明らかになることがある。
ヨギの治療師と再会した最初の日、伊勢平氏おじさんとの約束に遅刻して、彼のクルマでまわった場所(そして、七夕 〜旧暦七夕の1週間(旧盆)に起きたこと)でもある。
今にして思えば、やっぱり全部つながってた。
おじさんとの約束に遅刻した原因の深酒の相手がヨギの治療師だったし、しかも今年に入って安曇野の元カレが絶妙なタイミングで1行だけのショートメールを送ってくるし。
わたしは最初の離婚をするまでは、完璧に母の希望通りに生きた。
習い事から、高校、大学、職業すら、なにひとつ、自分で選ぶ自由はなかった。
誰よりも尊敬する友人であったが、結婚相手も母の希望どおりだった。
母自身がいっている。離婚するまでは、完璧だったと。
伊勢平氏おじさんが「10分後」って言われて全力疾走したり、「こちらから連絡するまで電話するな」ってただひたすら連絡をまったり。
まるで犬じゃん。
わたしは最初の離婚をしてから、自分は自由に生きていると思っていたが、
それは、アフリカを放浪したり、仕事の結果だけに集中したり、
人とぶつからない場所を選んで生きていただけだった。
わたしははじめから、「自分」を生きてはいなかったのだ。
纒向の仙人にも、「個々別々のいのち」って言葉をわたしが理解できなかったことがきっかけで怒らせた(安曇の庭に誘われて(安曇野から丹後へ 番外編) 〜 山から降りた自分は)。
そして、ここにも書いている。
「山から降りた自分」というのは、わたしがまったくイメージしたことのなかったものであることに、ようやく気づいたって。
わたしは、まだ、生まれていなかった。
ってことなのかも。
そして、満月の前日。
どんなにこちらから挨拶しても、反応がなかった人たちがあちらから挨拶してくれるようになった。
3月にこの街にもどってきてからだから10ヶ月。
人は、変わる。それが、道理であれば、そのように。それを阻むのは、「きめつけ」である。
纒向の仙人も電話をくれた。
やさしい声だった。
でも会話の内容には寂しさが残った。
わたしの中に解決しなければならない問題がまだ、ある。
浮き輪を投げるのが上手な大阪の兄さん(私は孤独)からも電話があって、「生きてるか」から始まって「じゃ今から山に登ってくる」で終えた。
わたしの居場所は、人の自由な時間なんだな、って思った。
でも。たぶんそれが、