お江戸のお水送り その1 〜田無神社は風の神? | かんながら

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旅の記録です

 
 

引き続きメモ的に。

ろくな文章書けない。
 
でもたぶん今記録しとかないと。
 
 
伊勢平氏おじさんには正月明けずいぶん放置されめいたが、茅ヶ崎に行く前日だったか、
いつもの「今から15分後」にと公衆電話から電話してきた。
 
仕事道具一式と財布やらをリュックに入れて身支度して部屋を出るまで5分、表参道の雑踏を人にぶつからないように走って待ち合わせの場所まで駆け足で10分。
 
 
おじさんはまだ来てない。
待たせたら不機嫌になるから待つ方が気楽。
 
 
この日は飲んできたのかと思うようにご機嫌だった。ようやく沖縄まで運ばれて調ったのかと思った。
 
 
 
コゥ・パピィ(寺パパ)んちにあった寒川神社のお札。
 
 
日月星。
 
 
 
そしてこの桃の実みたいな不思議なマークに収まってるこれ。
 
この外側の絵は鹿島神社で昔女性神職が出していたというお札で似たのをみたことがあるような?
 
 
 
 
ヨギの治療師は、わたしの悲しみが流れ込んでしまって胸が痛いと言い始めた。
それはそうだろう、50余年蓄積させてきた悲しみのダムが決壊したのである。
近くにいたのだからそれなりの被害は致し方あるまい。
 
 
とはいえ、あまりに弱っているので気になって訪ねようと考えた。
 


そうだ、桜街道。
気になっていた。その下には何かが埋まってるような気がする。
 
 
 
 
今日は田無神社に寄ろうと思った。
昨夜ふと目を覚ましたら、昔からのWeb日記仲間のヒロさんからすごく久しぶりのメールがあって、
 
「ご主人を亡くした友人に連絡して」と書いてあった。
 
 
 
以前の記事に書いたように、彼女からは「夫を亡くした日を思い出すから、連絡しないでほしい」と言われていたから、遠慮していた。
 
 
なにわの審神者(さにわ)にはずいぶん前に、連絡しろと言われていたが、嫌がることをしたくないと拒否していたのだ。
 
 
が、しかし。
それって正しいのか。
 
 
「人が嫌がることをしてはいけません」
 
 
一見正しく聞こえるそれは、本当に愛あることなのか。
 
 
わたしは「人の顔をみないで、神の顔をみる」ことをよしとしてきたのではなかったか。
 
 
 
わたしはしろくまさんに死なれたとき、誰にも会いたくないと思った。
でももし、わたしの気持ちを汲んでそっと捨て置かれていたら餓死していた。
 
 
それに。
こうやって複数から促しがくるのはサインだ。
亡くなったご主人は、わざわざわたしをあのタイミングに呼んだのだ。
 
 
「思い出すから」っていったって、
いつまでだって思い出す。
 
 
 
忘れることなんてできない。
思い出すことが少なくなり、痛みが薄れていくだけだ。
 
 
思い切って、
「近くに来たんです」
と電話した。
 
 
出てくれないかと思ったが、電話に出てくれ、
「少し落ち着いたけどもう少し時間を欲しい」
 
と言われた。
 
 
そして、
 
「自分を大切にして」
 
 
と5回くらい告げられた。
 
「自分を大切にして」か。
 
 
 
大切にしてないかな。
 
そんな風に思ったことなかったな。
わたしは不足もないし、しあわせだもん。
 
 
でも、元ヤンのIT社長にもしろくまさんが亡くなる前に言われたな。
「自己犠牲やめたほうがいいっすよ!!」って。
 
 
伊勢平氏おじさんにも、
ヨギの治療師にも、
白山のサルタヒコにもそういえば言われてる。
 
 
そうかな。
みんなに言われるってそういうことなのかな。
 
 
人間は嘘やごまかしで多層の人格のバランスをとっているようだが、わたしは嘘やごまかしが苦手だから、それは心の澱となっていた。
 
たしかに、「瀬織津姫のしあわせは?」以来、わたしのこころの中のダムは決壊して、いままでのようにはいかなくなった。
 
 
 
でも。それって自己犠牲なんだろうか。
 
 
田無神社のそばには、なんと、総持寺がある。
総持寺といえば、永平寺で有名な曹洞宗の総本山と同じ名前。
明治時代に、火事にあい、能登から、鶴見へ本山が移動している。
 
白山のサルタヒコの解説によれば、曹洞宗が門徒を増やす過程において、4代目だかの「蛍山」が開いた。
門徒を増やすため。つまりは経済。誤解を恐れずはっきりいっちゃうと「お金のため」。
wikiによれば、能登の總持寺祖院 は真言宗だったという噂もある、と書かれている。
 
こちらは真言宗智山派。
 
 
 
「悟りたい」っていうのもエゴ。
「よくなりたい」っていうのもエゴ。
 
 
 
それを叶えるために宗教はある。
それが経済に結びつくことは自然なことである。
 
 
 
経済は、悪いことじゃない。
世を治め、民をすくう、「経世済民」が語源と聞いて納得した(インターネットの社会の中のリアル 〜 経世済民・アフターコロナの世界のゆくえ )。
 
 
ただ、今の世は、私たちの意識の未熟さゆえ、「済民」がお金の流通の中になくなってしまっているから、本来経済がもたらす豊かさがなくなってしまっているようにかんじる。
 
 
 
ケヤキの木。
ケヤキは、槻(けやき・ツキ)。
わたし調べでは、浦和の調(つき)の宮(関東平野に誘われて 〜海なし県の水の神浦和の波うさぎのゆくえ)も含めてケヤキは、月である。
 
 
桔梗紋。
桔梗っていろんな意味があるみたい。
桔梗の紋って明智光秀とか特徴的な人に使われることが多いみたいだ。
 
 
 
尉殿大権現。
どうも田無神社の由緒は尉殿大権現からきてるってことみたいだ。
 
行雲流水で、いっか。さんの記事には
 

尉殿大権現は級長津彦命と級長戸辺命(男女二座の風の神)を垂迹神としている。

さらに本地仏は倶利伽羅不動で、それをもって田無神社ではこの神が顕現する際には金龍の姿をとると伝えている。

 
 
 とある。
 
 
 
八ヶ岳で伊勢平氏おじさんが毎朝呼んでた「シナツヒコの神、シナツヒメの神」だ。
 
 
諏訪の神様で、
 
初めて八ヶ岳に伊勢平氏おじさんに連れられて行ったとき、わたしに
 
ちはやふる かみよもきかず たつたがわ
からくれないに みずくくるとは
 
 
の歌を運んできたそれじゃない(鎮魂祭 〜龍田の神と聖徳太子とともに石上神宮へ)。
 
 
 
しかも、顕現するときは、金龍になる?!
 
 
 
伊勢平氏おじさんは、わたしに出会う前の夏、媼(おうな)から金龍の赤ちゃんを託されて、八ヶ岳の谷川に放したって言ってたよ(浦和の波うさぎのゆくえ)?
 
 
そして、2億円入ってくる、らしい。
 
 
 
そういえば、2度目の八ヶ岳の夏に、大きく育った金龍が山を上がっていくのを目撃したあと、
 
 
 
「託された金龍はわたしかもよ」
 
 
っておじさんに言ったんだった。
もちろんおじさんは完全にスルーしていたが。
 
 
なんだろうな、ここ、読み返してみると面白いことがたくさん書いてある。
 
 
調(つき)神社。
金龍山(浅草)。
 
そして、伊勢平氏おじさんが夢の中で媼に出会った場所は、埼玉のとある場所。
 
 
これ、なんていうんだっけ。
このところしょっちゅうみてる。
どこでだか記憶にない。大事なんだよね、記録は。
 
 
次。田無神社。
五色の龍がいるところ。
五色の龍は、熊本の青井阿蘇神社にもいたよな。
 
 
あちらは国宝。
 
 
水害で大変なことになったはず。
 
 
熊本は要だと思ってる。
八代があり、青井阿蘇神社がある。
 
 
 
 
なんか、この色とりどりの鳥居の感じ、雰囲気が名田庄((追記あり)恋しくて 〜葛の葉をたどる旅 若狭への旅)。
 
 
なぜか、楠木正成公の像。
 
 
掲げられた看板には、
 
「楠木正成公の子孫はその後、武蔵の国保谷に移り住み、尉殿神社をお守りしたと伝えられております。」
 
 
と、ある。
 
 
さっき、総持寺でみたこととあわせると、
尉殿大権現の垂迹神は、シナツヒコの神、シナツヒメの神だ。
楠木正成公はシナツヒコ、シナツヒメと関係があるのか。
それは、諏訪と関係がある?
 
たしかに皇居のそばにいらっしゃる楠木正成は、馬に乗ってるけど。
 
 
わたしにとっては、諏訪というと馬。


馬。
馬頭観音。
高遠。
遠野で多武峰。
御牧(みまき)= 勅旨牧(ちょくしまき)

 
五色の龍は、なにかを封印してるのか?

(このあとわかるのだが、この近くに玉川上水なる水路が作られており、お江戸とつながっていた)
(つづく)


 
 
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