帰りに「デザート買って欲しい!」
って頼んで近くのコンビニでデザートを買ってもらう。
そして、
「ラーメン入れる袋は?」
と聞かれて、「ないよ」と言ったら、一枚400円(税別)もする紙袋を買おうとする。
「袋いらないから牛乳買って!」
と頼み、
ついでに「ピザもあるとうれしいー」と言ってレンチンで食べられるピザを買ってもらった。
あー幸せ。
わたしは家族はいないけど、たくさんの人に支えられていかされている。
こうしてネットの世界にもリアルなつながりがある。
今の形のインターネットが普及するまえ、パソコン通信ってのがあって、昔はみんながハンドルネームと言ってニックネームを使っていたが、狭い世界で、相手がどこで何をしている人なのか、なんとなく知っていた。
だから、ネットの世界に隠しごとはないって感覚的に知っている。
そして、このつながりのなかにあるリアルな人間関係から豊かな恵みをもらっている。
でも、今の時代のテレワークとかネットのつながりとか、すごく胡散臭いって感じる。
zoomでオンライン授業とか、リアルなそれと、同じじゃない。
人はエネルギーで交流してる。
体験しなければ知り得ないことがある。
その場所でなければ得られないなにか。
ネットでやりとりできるのは、知覚できることだけだ。
「奇跡のコース(A course in Miracles)」には、「知覚できるものは、すべて幻想」って書いてあるよ。
わたしは阪神淡路大震災でおかしくなって、精神世界の旅をずっとしてきたけど、今やっぱりそうだと思う。
ネットの世界は幻想だと思う。
もし、SNSのやり取りで完結するなら、人間は要らないじゃない。
わたしは仕事でチャット相談もしているけど、わたしのやり取りは、きっとAIが学習しててある程度蓄積したら、完璧にわたしになりすましたAIがわたしの代わりに相談を聞くようになるだろうなって思ってる。
わたしは、いずれ、私たちを管理することになるであろうAIを教育している自覚を持ちながら日々仕事をしている。
そしてお客さまには、交わされる文字以外のものを受け取って欲しい、って思いながら、仕事してる。
多くの人は、それに気づいていないからそれを受け取っているのは、ほんの一部の人たちだけだ。
気づけないと受け取れないのだ。
コロナはたくさんの恩寵とアフターコロナの可能性を示してくれた。
私たちは、ここから私たちの明日を創っていくことになる。
ネットで交わされるオンライン授業の内容は、とうぜん記録される可能性があって、それはコピーされる可能性がある。
今日配信された内容は、大量にコピーができて未来永劫ばら撒かれる可能性がある。
そうすると「特別な情報の価値」など無くなってしまう。秘密にしておけることなど何ひとつない。
インターネットができた頃、そこは豊かな知識を分かち合う場だった。
しかも無料で。
わたしはまだ20代で社会的な地位もなく、社会では偉い人と話せる機会自体がなかったが、リアルな社会では絶対に話せないような人が拙い質問にこたえてくれたり、メッセージをくれたりして驚いたし楽しかった。
そしてその頃からの付き合いは、なんとなく今もいろんな形で続いている。
新しい時代は、きっと再びそうなる。
もうお金のために〜する、っていう考えは古い時代の考えになる。
だって10万円って大金が振り込まれるんだから。日本ってすごいね。
ベーシックインカム、やればできるんじゃん?
多額の借金ができて、未来が大変っていうけど、わたし国家の赤字を解消する規模の借金を返済できるような仕事に今まで一度だってついたことがない。わたしはつっぱって必死で働いてきたつもりだったけど、完全に世話されてた側だった。
きっとこの先も、今までこの規模の予算を動かしてきた力のある人たちが、そのことは考えることになる。
わたしのちっぽけな稼ぎでは、国家運営は到底無理なのである。仮に3倍の時間働いたってたかが知れている。
経済って、「経世済民」って言葉からできた言葉なのだそうだ。
お金のために、
家族との生活を犠牲にするとか、
したくないことをして、ストレスを溜めて健康や人間性を損なうとか、
変でしょ。
そんなおかしくなった私たちの世界に、コロナはやってきた。
働かなくても必要最低限のお金がもらえる
通勤しなくてもいい
人との過剰な接触を避けていい
壮大な社会実験の機会が訪れたのだ。
神の世界の目で見たら、コロナは恩寵。
コロナは苦しい病なのかも知れないが、死はすべての人に等しく訪れる。
わたしには、死は抱える苦しみがいずれ必ず終わると知らせてくれる福音でもある。
コロナ後の社会がどうなるのか、それは私たちの意識にかかっている。