昨日の記事(安曇の庭に誘われて〜海なし県の海の神)を書いて、一晩眠って、ふと気づいた。
前回安曇野に来たときは、帰りのバスの予約を間違えていて、そのまま京都に行ったんだった。
そして、読み返して驚いた。
なんと、京都で、秦氏の本拠地?と言われる太秦に行き、「亀」がキーワードの松尾大社に行っている。
それどころか、そのまま丹後に行っているではないか。
そして、浦島神社で宮司さんに聞いた話は、すごく重要だと思ったが、なぜかすっかり消えている(月の光に誘われて 安曇野から京都へ 〜その4 浦島太郎と月読命の秘密)。
しかも、この後に亀好きの元ダンナに、自然農の川口由一さんを紹介してもらって会っている(飛鳥と卑弥呼と自然農 〜その2 大好きな場所と時代をかんじて)。
川口さんとのやり取りは、最近やり直しがあった(I Love You のお返事は 〜1111の日・I Love You 〜くくりの旅の前に)
しかも、一緒に旅する方から送られてきた旅程は、同じところを巡ることになっている。
「行ったことあるとこばかりだなぁ」って思ってたが、そのままじゃん?
なんなのこれは?
やり直しの旅?
昨年と同じところで、別の気づきを促されることは、山でもあった(やり直しの旅 〜伊勢平氏おじさんと白山ひめ)。
やはりやり直しか。
たしかにわたしは、伊勢平氏おじさん(やり直しの旅 〜伊勢平氏おじさんと白山ひめ)の言っていたことも、川口さん (I Love You 〜くくりの旅の前に・Love You のお返事は 〜1111の日)の語る世界も、当時はちっともわかっていなかった。
今回安曇野で、「座禅ヲ、座禅スル、座禅」という言葉をもらって、
「山から降りてきなよ」
と、飲みながら十牛図を話題にするヨギの治療師(わたしの中のせめぎあい)がしつこく言う、
「山から降りた自分」
は、わたしがまったくイメージしたことのなかったものであることに、ようやく気づいたのである。
伊勢平氏おじさんのいう、「投影の反対」(夏を終える旅(八ヶ岳) 〜菊理媛神から国常立尊へ)も、
川口由一さんを怒らせる原因になった「個々別々のいのちを生きる」(都をつなぐ旅 2(番外編・熊野の神ふたたび) 〜平維盛の子孫だから、あなたとは他人じゃない!?)ってことも、
ちっともわかっていなかったのだ。
今も、わかったかどうかはわからないが、少なくとも、今回安曇野にくるまでの自分がイメージしていなかった景色が見えたことは間違いない。
亀好きの元ダンナにも、ヨギの治療師にも、伊勢平氏おじさんにも、川口さんにも感謝しかない。
結局縁するすべての人がわたしの人生を全力で支えてくれているのだ。
すべての人が悟らせ人(苦手な人は、悟らせ人)と、思ってきたが、最近現れる「悟らせ人」は、「素敵な人」である。
さて、何が起こるんだろう?
あのとき行けなかったのは、丹後國二之宮 大宮賣(おおみやめ)神社だ。
「あそこが大事やった」
って帰ってからなにわの審神者(さにわ)に言われたんだった。
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