わたしたちが、願う通りに。 | かんながら

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旅の記録です

 
このところ、気持ちが落ちている。
だって、世界が止まっているように感じるんだもの。
そして、人間だけがせわしなく動いてて、なんかそれをわたしは遠くから眺めているかんじ。
 
この数日間、まるで、夢の中で走るような、水の中を歩くような、思いどおりに動けない不思議な感覚のなかにいた。
 
 
以前、白山のサルタヒコはわたしの交友関係をみて、
 
「伊勢平氏おじさんも、ヨギの治療師も、あなたの心が欲しいんだよ」
 
 
 
でも、わたしはまったくスルーしていた。
ありえない、と思っていたから。
 
彼らがそう思うかどうかは別として、自分は絶対にそんな彼らと恋愛しない。
 
 
わたしを選ばないと分かっている相手と恋愛することは、わたしにはできない。
ただ、愛することはできたとしても。
 
「愛する」ことと、「恋愛」は違うのだ。
 
 
ヨギの治療師が言っていたけど、
 
「愛」という字は、心が真ん中にあるから、真心(損得勘定がない)だけど、
「恋」という字は、下に心があるから、下心(損得勘定がある)らしい。
 
損得勘定は、損得感情だ。
感情というのは、エネルギーだから、現実を動かせる力がある。
 
 
怒りが吹き出しちゃうじゃないか。
わたし自身が、その怒りが手に負えないことは想像に難くない。
 
わたしが「感情」を発動したら、世界が吹っ飛ぶくらいの破壊力を持っている。
 
 
わたしの感情とは、最近あらわれた伊勢のダンスの先生がなぜかわざわざ告げてきたように(月蝕満月と、恋のゆくえ )、それくらいの熱量なのだ。
だから、あらゆるメソッドを駆使して、自分を律して感情を持たないことを選択するようになったのだ。
 
 

でも、このところ何かが大きく変わって、
「現実を変えるには、感情のエネルギーが必要」って分かった。
 
だから、伊勢平氏おじさんには、感情をのせて告白してみた(あなたに、愛されたい)。
結果は、(今のところ)失敗に終わってるけど(わたしは負けない)。
 
 
でも、アマビエがお知らせにきて(アマビエのお告げと大祓詞のほんとうの意味)、
 
瀬織津姫や橋姫や、磐長姫や、五十鈴川のほとりに祀られている天照大神の荒御魂って呼ばれている女神様のように、今まで自分は犠牲になって、ただ皆の欲望を叶え続けてきた神様方は、もうその役を降りた(籠に入った龍・宮城へ〜琉球弧・島巫女ネットワーク)。
 
そして、今現実の世の中でも、同じことが起きている。
 
 
しろくまさんが亡くなってこの2年ほど、島巫女仲間にたくさん会った。
なぜか彼女たちの多くが遊女でいた記憶を持っていた。
 
 
今もパートナーシップで苦労していたりもする。
社会のひずみの犠牲になっていたりもする。
 
理不尽を飲み込んで生きていく人たち。
現代の瀬織津姫である。
 
 

 

「(みなの幸せのためなら)わたしは、いいの」

 
って言って、涙をのんでいた存在たちが、
現実世界の悲惨さをみて、「そのやり方はちがう」と思い始めた。
 
 
だって、
 
「みなの幸せになっていない」
 
のだから。
 
 
そんなタイミングで、お友達が誘ってくれた「古代エジプト展」。
この方も「わたしは何も見えない」っていうけど、なぜかいつも、最底辺で死にそうなときに神様から遣わされてくる天使である。
 
 
わたしのエジプトは「ルクソール」。
 
伊勢平氏おじさんとは、ルクソールの夕暮れに並んで立っているという記憶がある(満月と酒と、アワとスワ)。それが、未来の映像なのか、過去のものなのかはわたしはわからない。でも、おじさんは「ルクソールはテーベだ」っていうから、おじさんにとっては過去のものらしい。
 
同じように、ヨギの治療師とは「ラーお父さん」って言葉が浮かぶから、それもどうも同じルクソールで繰り広げられた、新王朝(ってこの展示で知った)の記憶が重なるようだ。
 
 
 
青い色とか、妙に懐かしかった。
丹後でみた青いガラス玉と、同じ何かを感じたりとか。
 
あと、どう見ても、「熊野の牛頭天王の護符と同じじゃん!?」っていう象形文字?とか。
 
うちの先祖は、「アメンの神」って聞いてきたけど、「アメンホップ」とかいう言葉がたくさんでてきたりとか。
 
 
エジプト展でなにかが降りてきたのか、部屋に帰ったら、
「スタフィサグリア(のホメオパシーレメディ)が欲しい」ってヨギの治療師にメールした。
屈辱のレメディ。今のモヤモヤは間違いなくあれだ、って思ったから。
 
 
すぐ電話がきて、
「ちょうど近くにいて、レメディキットを持ってるからあげるよ」
って言われて、もらった。
 
原因はわかっている。
 
数日前に彼は
「(わたしとのことがバレて)妻に離婚するって言われたら困る」って言ったのだ。
 
「妻から離婚してって言われても離婚したくない」くらいなら、
そちらを大事にした方が絶対にいい。
 
 
しかも彼は「自分が愛されてないのは知っている」とも言った。
 
白山のサルタヒコは、彼自身のことを「便所の便所」と言ったが、わたしは不自然な結婚生活の不満の吐口になって、その継続に協力したくないのである。
 
 
不自然な結婚生活の維持は、「離婚はいけないこと」という世間(という幻想)を守る以外、誰のためにもならない。
 
 
だいたい、その古い価値観のせいで、どれだけの人たちが犠牲になっていると思ってるんだ。
わたしはこの人生を、人を苦しめる幻想から自由にすることに、命を賭けているというのに。
 
 
おそらく満月のせいだったり、水星逆行の影響のせいと思われるが、この数日伊勢平氏おじさんのわたしへの対応とか、とにかく自分がすごく侮辱されているような気がしてもやもやしていた。
 
で、「(屈辱・抑圧のレメディ)スタフィサグリア」だって思ったのだ。
 
で、言った。
「中途半端な恋愛ごっこにつきあわされて、みくびられてるようで、気分が悪いんだけど」
 
 
このところ、サマリーさんや、島巫女仲間がいう。
「しあわせになって」
 
最初に言われたのはいつだったかな。
秋ごろ、ご主人を亡くした年長の友人にだったか(これからの、千年へ 〜明治神宮鎮座百年大祭にむけて)。
読み返していて気がついたが、しあわせになるのは嫌だと言っている。
 
半年経ってまだ同じところにいるってことか。
 
 
巫女仲間にどんなに言われても、
「人にいうことは自分に言ってること」
 
ってどこか自分を誤魔化していて、ちゃんと向き合えていなかったが、
つまり、わたしがヨギの治療師に言っていることは、わたしが自分自身に言っていることである。
 
 
彼に投影している「うまくいっていないけど、継続しているパートナーシップ」は
「わたしに冷たいけど、先祖の因縁を解決したいから置いてある伊勢平氏おじさん」である。
 
 
結局人を通してしか、自分を観察することなんてできないのだ。
 
自分の世界は、自分の思いのあらわれ。
 
 
自分が何を思っているかは、瞑想によって到達するより、自分の世界を点検した方がずっと正確に確認できる。
 
「しあわせでいられない現実」があるのなら、その現実を生み出す思いをリセットしよう。
今ある現実が崩れたってもう構わない。
今までは、今ある現実に「Yes」と言い、自分の思いの方を変えてきたが、それは望まない現実にエネルギーを与えて継続させてきただけだった。
 
 
今、この世はおかしい。
 
 
でも、コロナの問題、オリンピックの問題、社会の問題、弱肉強食・エゴ丸出しのこの世の中は、わたしたち自身のあきらめと、ごまかしによって生まれたのだ。
 
 
本気でしあわせと思えない現実には、ノーでいいのだ。
 
「そっとしておいたらいつか消える」
「エネルギーを向けなければ消える」
 
と思っていたけど、消えないじゃん。
 
 
「あきらめもエネルギー」だということに気づいていなかった。
 
誰かが、わたしの発揮すべきエネルギーを奪って、自分のエネルギーに変えていたのである。
つまり、わたしが影響力を発揮していなければ、誰かが影響力を持つのである。
 
 
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愛のない社会を作ったのは、残念ながらわたしたちの思いだ。
わたしたちは、うっかり利用されていたのだ。
 
 
男性が神事に進出してきて、神女はたくさん遊女になったらしい。
まぐわいを通して、男性に現実を生み出す霊力を授けた。
もしかしたら、男性もそうだったのかもしれない。
祓い清めを司る神様たち、なんだか同じ匂いがするから。
 
そのようなしくみができた、のだと思う。
誰かに罪穢れを引き受けてもらう。そして自分が力をもつ。
 
わたしたちの「あきらめ」と「他力本願な願い」が、結局望まぬ現実を生み出してしまった。
 
 
だから、もう、わたしは、わたしの思いを放棄しない。
 
 
わたしたちの「あきらめ」のすきまに、なにものかの生み出す、わたしたちが望まない現実が入り込まないように、
わたしたちひとりひとりが、思いの力を自分のうちに取り戻すために。
 
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伊勢の踊りの先生は、そういえば面白いことを教えてくれた。
 
「男というのは、”ダボハゼ” なんです。」
「!?」
「ハゼって、隣にあるものに食いつく習性があるから」
「・・・。それじゃ、わたしじゃなくても女性は激怒しますよ」
 
 
わたしは、ハゼのエサになんかならない。
わたしはハゼをエサにして大空高く羽ばたいてやるのだ。
 
 
それにしても「ダボハゼ」というのは、別名は「チチブ」というらしい。
秩父といえば、物部の地。三峰山。
 
何か徴のような気がしてならないのだけれど。