月蝕満月と、恋のゆくえ  | かんながら

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旅の記録です

 
ウエサクの満月。
鞍馬寺では5月の満月の夜、ウエサク祭が行われる。
 
 
何度かしろくまさんと行った。
蝋燭に火を灯して祈り、最後には六芒星が描かれた。
 
前回の記事(Heal the World  〜ウエサクの満月の前に)で書いたけど、あの ”Heal the World”のルルドの夜、も地上に星をうつした、って思った。
星に願いを、って空のことじゃなくて、地上のことをいうのかもしれないな。
 
 
しかし。そもそも5月の満月だからって特別なことはそれまではなかった。
あの祭にでてからである。
いわゆるスピ系になった最初の年は恐ろしく具合が悪くなった。
意識するから影響を受ける。
そういう意味ではすべては思いがつくっている、というのは当たっていると思う。
仙台で会った友人に勧められた、池上永一の「テンペスト」を読んでいる。
琉球王朝を舞台にした物語。
今の日本が置かれている状況ととても似てるようにかんじるのが、気のせいであってほしい。
 
 
 
伊勢のダンスの先生からもらったヒントで、
前に白山のサルタヒコが言っていた「それは恋だよ」がやっと理解できた。
 
恋は、「欠乏感によっておきる」って思う。
自分にはない、と思うから憧れる。
 
 
わたしは彼にも言ったけど、人から見たら欠乏してるだろうけど、気持ちの方は充足している。
欠乏感がないから、特に何にも憧れない。
自分に手に入らないものは欲しいとすら思わない。
だから、叶えたい夢もなかった。思いつくことはすぐ叶えられた。
高望みしないから、というのもある。
 
今、欲しいと思っても手にしていないものは、自分に相応しくないから与えられていないのだ。
それを「波動の法則」っていう人もいるけど、「自然なこと」なのだと思う。
 
「欲しくない」のに与えられるものも同じことだ。
病気も、死も、別れも、不合格も。
「自然なこと」に挑むと苦しい。
 
わたしは「自然」に逆らわない。それが心の平安だと気づいたから。
 
 
 
伊勢平氏おじさんとはことごとく噛み合わない。
ある日突然「会いたかった」と外国人みたいに抱きついてきたが、そんなことはすっからかんと忘れていて、わたしを拒絶する。
 
だけど、一定の期間があくと自分から連絡してきたり、ばったり会ったりする。
それを彼は「気持ちはないけど」、「縁がある」っていうようになった。
わたしにとっての「自然」なことだ。
 
 
わたしだって、「気持ち」はない。
 
わたしのいうことはことごとく否定するし、
願いは全部却下、
なにより、社会的な弱者に対して思いやりがない。
あれだけの知性と影響力があるのに。
 
 
絶対に好きになれない相手である。
わたしはわたしの世界を平和にしたいから、理解しようとしているだけだ。
と、思ってた。
 
 
でも、おじさんが持っていて、わたしにないもの。
それが、知性と影響力。
結局わたしは自分にないものを彼に投影して憧れていたのか。
だったら、恋じゃん。
 
でも、熱い気持ちになれない。それじゃだめじゃん。
理性では恋はできない。きっと。
 
伊勢平氏おじさんに、告白した。
この世の中をひっくり返すくらいの熱量を(自分では)持って。
 
でも、断られた。
 
 
わたしにもほんとの恋とかできるような日がくるんだろうか。
 
おじさんのよごれちまったかなしみの革裘(かわごろも)(菊理媛神さまうごく)は鎧より硬い。
 
 
もともとわたしはあんまり感情を持ってない。
ヨギの治療師は「本当に感情ないの?」っていう。
感情に振り回されてたら、とてもじゃないけどこんな波乱万丈な人生に耐えられない。
だから、それを律する努力をしてきたのである。
 
 
でも泣いた。
革裘を脱がせることができなかったからではなくて、
ある予感を共有していたことに対して。
 
去年の夏、その話をしたんだった。
ちょうど、「次の人生があるんだったら」って考えていた新しい人たちとの関係が始まった頃。
 
おじさんは山で話すと言っていた、わたしのあるイメージを話した。
 
 
おじさんがわたしの目をまっすぐに見ていった。
「寂しいね」
 
あのとき(わたしの中のせめぎあい)、と同じように。
 

そうだった、「何かが始まるってことは、終わりを受け入れる」ってことだった。
わたしたちは、ようやく、「On Your Mark ””顔のない人””)」=「位置についた」 のかもしれない。
 
でも、わたしたちは、まだなにかを起こすだけの情熱が足りない気がする。
 
 
 
何気ない日常のなかにあるしあわせを重ねていくことがなんでできないんだろう。
日常を暮らす相手に、選んでもらえないもんな。
 
誰かと一緒に暮らしたい。
それだと、恋じゃないか。
だけど、好きな人と暮らすことができたら、きっとそれは恋だよな。
 
どちらにしても今のところ恋は成就していない。
 
 
月蝕満月。
 
日蝕は、月が日にさわる日。
月蝕は、日が月にさわる日。
 
昨年の日蝕のその日にいすみでもらったお札は、与那原のヒロさんの家に届けられ、わたしと沖縄の縁が復活した。
そして、今年、その与那原に縁のある友人と知り合って龍が籠に入ってるという龍宮城の宮城県を案内してもらったのだった(籠に入った龍・宮城へ〜琉球弧・島巫女ネットワーク)。
 
 
 
舞台は、うつりつつある。