昨日の夜、眠れずに「鏡では左右は逆に映るのに、なぜ上下は逆に映らないのか」っていう形而上学的命題について三十分くらい考えた。直観的にはごくあたりまえのことだけど、いざ説明しようとすると、なかなかうまい説明が思い浮かばなかった。
「現実世界のアリスにとっての右手」「鏡の国のアリスにとっての右手」「ヒラメとカレイの魚拓」「グリニッジ住民にとっての天地」「日付変更線住民にとっての天地」「北極点・南極点(北磁点・南磁点)の絶対性」「東西の相対性」「地球を映せる巨大な鏡」等々、いろいろな類比のもとで考えてみた。考えれば考えるほどわけがわからなくなり、頭が痛くなった。
「上下は絶対的なものであり、左右は相対的なものである」っていうのが結論。左右が逆転しているように見えるのは、わかりやすくいえば、鏡の中のアリスに現実世界のアリスとおなじ方向を向かせようとしたときに、鏡の中のアリスを水平に百八十度回転させるという操作が入り込むため(垂直に、上下に百八十度回転させてもおなじ方向を向かせることはでき、このときは天地が逆転する)。
「なんじが星宿を『われらの上なるもの』として感ずるかぎり、なんじにはなお認識する者の目が欠けている」──『善悪の彼岸』71
ニーチェのこの言葉は、頭上に輝く星々にみずからの内なる道徳律を重ね合わせた老いたるカントへの皮肉以外のなにものでもない。
今日、宇宙の中心(ビッグバンの開始点)はおよそわかってるらしい。どんなすごい望遠鏡でも見えないような遠すぎる星々もあるらしいけれど、星の分布はわかる(宇宙の中心に近いほど星が多い)っていっていいのだと思う。とすれば、「地球のどこに住んでいるひとの頭上にいちばん星が多いか」をだいたい言い当てることができるはず。
天地というものがそんなふうに相対的なものであるのはたしかだ。複数の主観のあいだでそれはたしかに相対的なものだ。けれど、ひとつの主観にとって、個人の主観にとって、それは絶対的なものだといえる。
たしかに日本とチリとでは天地が逆転するけれど、日本人一億数千万人にとっての天地はだいたい等しい。そこには絶対的な「ほぼ平面」があり、それをほぼ垂直に貫くY軸が存在する。視点を宇宙レヴェルに映しても、地球中心主義にもとづくかぎり、ポラリスは絶対的なものだといえる。赤道面は全宇宙をふたつに切る。
結局のところ、アリスにとって、地球の自転のようにくるくるとまわることのほうが逆立ちするよりもやさしかったことが、鏡の中のアリスが逆立ちしていない理由ってことでしょうか。