冥王星移住計画 -7ページ目

Hooverphonic "The Last Thing I Need Is You"

ここ数ヶ月で知った曲のなかでは、五本の指に入る。
なにより曲が素晴らしい。だいぶ凝った編曲で、原曲のよさが引き立てられてる。声と唄いかたもいい。くわえて歌詞もいい。
有り体な表現だけれど、日々の憂鬱をドラマチックに唄いあげてる。

Bee Gees

彼らの曲というと、なにはさておき、"Saturday Night Fever"の主題歌になった"Stayin' Alive"が有名。甲高い声でむりして唄ってるってイメージがあるかもしれない。けれど、そういうのばかりじゃない。
'90年代初頭の曲、"Secret Love"はごくふつうの(いわば)オジサマポップスで、なかなかいい。きれいにまとまっていて、退屈させない。メロディアスというかキャッチーで、爆発的なヒット曲をもつという実績が伊達ではないというのがわかる気がする。

Aselin Debison

つづりをまちがえているんじゃないかと不安になりそうな名前。実際、不安になってググった。その結果、それまで知らなかった事実を知った。
まだ十四才らしい。そういわれてよくよく聴いてみれば、たしかに少女っぽい。サビのあたりはいかにも少女めいた投げやりな感じがある。洗練されきっていないがさつさが感じられる。

そんな背景を知って、聴きかたがちょっと変わり、以前ほど好きじゃなくなった。音楽にかぎらず、小説や絵画などにもいえることだけど、作品の背景や作家の人物像を知ると、よかれあしかれ、見かたに影響が出てくる。より深く味わえるようになるのかもしれないけど、あまりそういう裏面の事情を知るのは好きじゃない。基本的に作品は作品としてそれのみでながめたい。

タナトス

自分の行動をながめていると、ことあるごとにあえてわるい方向へと進もうとしているように思える。嫌われるようなこと、罵られるようなこと、叱られるようなことをあえて選択してる。
そこには一種のReverse Psychology(逆の心理学)的戦略を念頭に置いたある種の衝動があるように思える。いわばすねて強がっているこども。ほんとは欲しくてたまらないのに「そんなもの欲しくない」といっているこどものようなもの。

それでも愛されうるのだろうか」──それがその戦略/衝動の端的な表現だといえる。親や恋人との関係において、あえて嫌われるようなことをして、それでも自分が愛されるかどうかを試してる。あえて自分を虐げて、だれかが自分を守ってくれるかどうかを試してる。それはきっと幼児期に形成された根本的衝動というほかない。

ランボー

もう秋か
それにしても何故に永遠の太陽を惜むのか
俺たちはきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか
季節の上に死滅する人々から遠くはなれて

理想というものを詠った詩のなかではこれが最も胸に響く。
自分にいかほどの力があるのかっていう、無視しちゃいけない根本的な問題はあえて無視するとして、やはり働いたら負けだと思う。

ちょっとしたストレス

ドコモもプロバイダも、よってたかってぼくをいじめる
携帯電話なんてめったに使わないのに。きっとドコモなんかを使ってるのがまちがいなんだろう。
ちいさなまちがいが積もってる。ちいさなストレスの種に押しつぶされてる。

生活って難しい。ぼくは生活のしかたを知らない。知りたくもない。
ある意味、家事や雑事をよろこんでやるようになったら、負けだと思う。

借金

財布のなかに170円しかなかったので親から金を借りた。銀行のなかや金庫のなかに眠らせてる金があるわけじゃないので、財布の中身=全財産。ひもじい。
「いくら?」とぶっきらぼうに聞かれ、「五千円」と答えた。最近、チェーンスモーキング気味なので、たった五千円で何日やっていけるやら。
とりあえず金以前に、こういうときに躊躇せずに一万円といえる勇気(てゆか大胆さ・厚かましさ)が欲しい。

大塚愛

ある曲のなかの"yay(イェイ)"という合いの手が耳にこびりついてた。だれのなんていう曲かすぐには思い出せなかった。洋楽か邦楽かもわからなかった。で、五分くらい悶々としたすえ、大塚愛の「さくらんぼ」だとわかった。
ほかの曲は何度聴いても印象に残らないようなものばかりだけど、あの"yay"だけはとてもいい。たんにコケティッシュなだけじゃなくて滑稽味がある。

Tegan And Sara

シンプルすぎる。なのにいい。だからいい。
"Walking With A Ghost"って曲が彼女たちの特徴をよく表してる。とてもシンプルな構造をしてる。サビは16小節。4小節・4小節・2小節・2小節・2小節・2小節ってかたちになってる。おなじ旋律ばかり繰り返される。ちょっと長めのものが二回のあと、その半分の長さのものが四回つづく。
そんなサビとサビのあいだをつなぐ、いわゆるAメロは、8小節が二回だけ。ここでもおなじもの。おなじ8小節がたった二回。
まとめると、[4/4/2/2/2/2] [8/8]ってかたち。で、4小節群・2小節群・8小節群それぞれにおいて、ほとんどおなじものをずっと繰り返す感じ。曲だけじゃなく、歌詞もそんな感じ。

延々とそんな単調な反復をつづける。編曲もシンプルそのもの。特にギターは最初から最後までずっとおなじ四小節を刻みつづける。その四小節にしても「ギターはじめて二週間」というひとでも弾けそうなほど簡単なもの。コードを刻む練習にはいいかもって思う。
それでも退屈せずに聴けるのは、旋律そのもののよさと歌唱力の高さによる。前衛音楽とかならともかく、ポップス系でこんな単純なのを成立させてしまうのはすごい、と思った。

地球儀と鏡

昨日の夜、眠れずに「鏡では左右は逆に映るのに、なぜ上下は逆に映らないのか」っていう形而上学的命題について三十分くらい考えた。直観的にはごくあたりまえのことだけど、いざ説明しようとすると、なかなかうまい説明が思い浮かばなかった。

「現実世界のアリスにとっての右手」「鏡の国のアリスにとっての右手」「ヒラメとカレイの魚拓」「グリニッジ住民にとっての天地」「日付変更線住民にとっての天地」「北極点・南極点(北磁点・南磁点)の絶対性」「東西の相対性」「地球を映せる巨大な鏡」等々、いろいろな類比のもとで考えてみた。考えれば考えるほどわけがわからなくなり、頭が痛くなった。

「上下は絶対的なものであり、左右は相対的なものである」っていうのが結論。左右が逆転しているように見えるのは、わかりやすくいえば、鏡の中のアリスに現実世界のアリスとおなじ方向を向かせようとしたときに、鏡の中のアリスを水平に百八十度回転させるという操作が入り込むため(垂直に、上下に百八十度回転させてもおなじ方向を向かせることはでき、このときは天地が逆転する)。

「なんじが星宿を『われらの上なるもの』として感ずるかぎり、なんじにはなお認識する者の目が欠けている」──『善悪の彼岸』71
ニーチェのこの言葉は、頭上に輝く星々にみずからの内なる道徳律を重ね合わせた老いたるカントへの皮肉以外のなにものでもない。

今日、宇宙の中心(ビッグバンの開始点)はおよそわかってるらしい。どんなすごい望遠鏡でも見えないような遠すぎる星々もあるらしいけれど、星の分布はわかる(宇宙の中心に近いほど星が多い)っていっていいのだと思う。とすれば、「地球のどこに住んでいるひとの頭上にいちばん星が多いか」をだいたい言い当てることができるはず。
天地というものがそんなふうに相対的なものであるのはたしかだ。複数の主観のあいだでそれはたしかに相対的なものだ。けれど、ひとつの主観にとって、個人の主観にとって、それは絶対的なものだといえる。
たしかに日本とチリとでは天地が逆転するけれど、日本人一億数千万人にとっての天地はだいたい等しい。そこには絶対的な「ほぼ平面」があり、それをほぼ垂直に貫くY軸が存在する。視点を宇宙レヴェルに映しても、地球中心主義にもとづくかぎり、ポラリスは絶対的なものだといえる。赤道面は全宇宙をふたつに切る。

結局のところ、アリスにとって、地球の自転のようにくるくるとまわることのほうが逆立ちするよりもやさしかったことが、鏡の中のアリスが逆立ちしていない理由ってことでしょうか。