身体を使って表現する者にとっては、普段から身体を使うことに興味を持って、惜しみなく、躊躇なく、アンバランスな自分を楽しむべくトライする、言わば身体主導でいれば良い・・・と私は思います。
多少理論的でなくても準備不足であっても、その都度の適応力・想像力と、いわゆる『感』を優先した物の捉え方。
身体が受け取ることへの関心を深めると、 " 今のここ " からが常にスタートである状態になり、不安やネガティヴな感情が激減する。過去の失敗はただの教訓でしかなくなるのです。
そしてはじめて、人との関係・関わり方が見えてくる。
日本という都会に暮らしているのなら尚更なこと、というか、だからこそ、これぐらいの感じであっても、別段いいではないでしょうか。

鬱傾向は都会特有のものであると私は感じますが、「私の身体は"自然"である」と訴えている証しであるかもしれません。長い人生、世の中に通用しなくたっていい時期があっても構わない。世間には適応していない、一見漠然とした泡のような、だけど " 今 " 必要だと感じとったその目的が自分の中にだけこっそりあればいい。そんな許しの気持ちである時ならば、自然界に身を置いて、ちょっとした不憫を経験してみるのもひとつ。そのちょっとした不憫さえも排除されてしまっているのが都会だからです。
大都市を多数抱える日本と言えど、自然の豊かさ、自然の力の色濃さ、自然とともに暮らしてきた人の深さは僅かなりとも残っていて、必要とする人に必要な分を与えてくれるくらい、まだまだ寛容であると思うのですよね。


仙台はお隣の山形に、通称「山寺」で知られる「立石寺」(りっしゃくじ)というお寺があります。
そびえ立つ1015段の石段を登ると奥の院までたどり着きます。

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ネット画像拝借

閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」の名句を詠んだ松尾芭蕉が訪れた地でも有名です。

小学生の頃から、この石段を何度も経験してきましたが、初めは、何故こんな高い所にお寺を建てたのか?何故こんな山を選んだのか?僧侶が1015段をも毎朝掃き掃除?雪かきとな??
修行の身でもない観光で、何故皆上を目指して登っていくのか?
松尾芭蕉はホントに上まで登りきったのだろうか?  いや、道中半ばでこの句を詠んだかもよ・・?!

あまりの辛さゆえに、訳が分からない身勝手な疑問で頭がいっぱいになり、

二度と登らん!!


・・・やはり・・・その二度目が・・・今思えば一番苦しかったように思います。二度と来ないって決めたのに!!って。笑。
修行僧で言ったら下の下、落第。
やはり自然界というものは、頭で入っていくほど受け入れてもらえないらしい。
無意識に起こる身体の不安を無理矢理意識的なもので解決させようとするから。
すでに子どもの時点で知らず識らずのうちにそんなクセがついてしまっていた、ということです。

その後今日まで何度訪れたか数えきれませんが、今では、

街の中にある神社やお寺は、
「神社やお寺に見えない」

と感じるほどになりました。
成長しました。。。

街中にある、というのは、都会に交わろうとする神社やお寺なわけで、由緒正しいものはもちろんたくさんありますし、有り難い気持ちにももちろんなるのですが、なんだかあるがままのお姿というより、意識的な小綺麗さ みたいなものが先立って、妙によそよそしく感じてしまうのです。簡単に言ってしまえば、自然と共存していない(街中だから当たり前だけど)ところに物寂しさや違和感を覚えます。これはあくまでも私の体験からですが。でもよくよく記憶をたどると、その神社やお寺への興味がある無しに関わらず、昔から居心地の悪さは何となくあったようで(素直な良い子じゃなかったから?)、今思えば、その空気感を期待外れっぽく感じていたのは確かです。パワースポット的なものを感じたかったのかな。そういう意味では成長したというか、はっきりしたみたいです。


山に登り、大自然なり小自然なり私の身に迫ってくると、徐々に自分の中に残ってくるものは、「信じられるのは自分の身体」ということのみ。そしてその時に必ず、ふとおもい想像することがあるのです。

ステージで演奏する自分。

舞台とは、都会そのもの。はっきりとした意識と目的のある場所です。

しかし、演奏というのは無意識的な感覚の中で でこそ、自分が培ってきた真の表現ができる。

それを、意識化・目的化された場に対応させよう、なんとか現実に折り合いをつけようとすることなど、それ自体無理な話です。

信じてきたこの身体をもって、そのまま、都会に舞い降りればいいんだ、と。

日々の練習が修行の道。

一歩一歩、一段一段。

" 今のここ " にある音楽という自然と 自分という身体の自然しか、舞台には存在しない。予測不可能な、一点もの。






ステージ上の演奏者としての姿を想像すると、
目的に合った場・現実に合った場に折り合いをつけてもらうのは、まぁ、" 化粧と衣装 " で十分かと。


「閑さや 巌にしみ入る 蝉の声」

ちょっと調べてみたら、俳人・長谷川櫂氏の解説が素晴らしかったので、読ませて頂いたものを自分なりにまとめてみる。そして、さらに想像してみた。

何たる閑かさや
蝉が岩に
しみ入るやうに鳴いてゐる

蝉が岩にしみ入るように鳴いているのなら、「何たる閑かさ」どころか、「何たるやかましさ」ではないか。

やかましいのにもかかわらず芭蕉が「閑さや」とおいたのは、蝉の鳴きしきる現実の世界とは別の次元の「閑さ」だからです。本文に目を戻すと、「佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ」とあって、「閑さ」は心の中の「閑さ」であることがわかります。

芭蕉は山寺の山上に立ち、眼下にうねる緑の大地を見わたした。頭上には梅雨明けの大空がはてしなくつづいている。
蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる「閑さ」を感じとった。
本文の「佳景寂寞として」(あたりの景色はただひっそりと静まりかえって)、とはそういう意味です。
「閑さ」とは現実の静けさではなく、現実のかなたに広がる天地の、いいかえると「宇宙」の閑さなのです。
突然、蝉の鳴きしきる現実の向こうから、深閑と静まりかえる「宇宙」が姿を現したということです。

           NHKテキスト Viewより

あくまでも比喩ですが、
現実とは、蝉の鳴き声とは、
都会のことであり、世間のこと であるように思う。
巌とは、まさに自然界のこと。
自然は、現実世界である都会をすいとったり、のみこんだりする。
そこに残されるものは、宇宙だ。

演奏者に吸い込まれる聴衆。
ステージ上は奏者の宇宙になる。身体まるごとの、宇宙。


「佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ」

フォーカルジストニアとしてみると、経験を重ねていく過程で常に忘れてはいけない大切な意味を持っている一文と感じる。
そして、「感覚の世界が身体の隅々まで行き渡っている、普遍的なもの」という想像を駆られるほどの、この言葉。表現することの真実を説いているとまでも思う。




ところで、
やっぱり芭蕉は山上まで登ったのね。笑。
だからこその素晴らしい句。

それにしても浅薄だった私。。。
山寺の話はちょっと大き過ぎたけど、それでも普段から予測がつかない不憫さには、面白く食いついていこうと思う。






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東京都福生市の拙宅(マンション 一室)でピアノ・レッスンとピアノ・レンタルを始めております。

ヤマハグランドピアノ C3A・ヤマハアップライトピアノ U1H
1台ずつ入っているお部屋です。

今のところ暫くは仙台の教室がメインであるため、月に一度の上京の際 となりますが、
ご都合が合って希望される方がいらっしゃれば、ご予約いただきレッスンを行なっています。

また、個人での練習や お友達同士での弾き合い会(2〜4名ほど)、レッスン場をお探しの先生、受験のためや 発表会・コンサート・コンクール等のための練習ピアノが必要な方など、
私の限られた日程と時間帯ではありますが、
レッスンの空き時間・音出し可能時間内であれば、こちらも予めご予約いただき、お部屋をお貸ししております。





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