アレクサンダー・テクニークからの学びで、四極性転移 と 両側性転移 というものがあります。
「四極性転移」という現象。両腕の良い使い方をしたいのなら、両足を無視することはできない。
両手・両足のどれを使っても、その他すべての手・足の使い方に影響を与える現象のことである。
このことに関して、大事な一つとして深く掘り下げて書いたお話が、
「伝わり」~「5mgの感触へ 3」の内容なのですが、
要するに、手足は繋がっている ということを、私の体感したことをもとに書いています。
そして、左手を使うことは常に右腕を使うことに影響され、逆もしかりである。これは「両側性転移」と呼ばれる現象である。
コーディネーションの悪い人は、片手に不具合があるとすると、反対側の手の使い方にも悪影響が表れる。
両側性転移が、全身全体の使い方に悪影響を及ぼすのである。
しかし、コーディネーションの良い人の場合は、片手が良い使い方をされて保っていれば、反対側の手にも それが反映する。そのため両手が調和して使われるようになり、両側性転移が全身全体の良い使い方をいっそう高める働きをする。
右手は右手、左手は左手、足は足 みたいな、それぞれに役割分担を強いるような、ずさんな感覚認識しかなかったこれまでの自分が悔やまれることを通り越して かわいそすぎる・・・。
何事も、あきらめた時に、見えてくるものはたくさんあります。
たとえば演奏時、私の場合、患部にこだわらなくなった時など。
フォーカル・ジストニアの私自身は、それが顕著に、
教師として日々ピアノを教えていても、ほとんどの生徒にさえ、それは現れるようです。
その「あきらめ方」が肝心なのですが、ともかく、心理身体的に全てをあきらめた時のみ のようです。
要するに、こだわることを止めてカラダ丸ごとあきらめる、何もコントロールしない、という感覚です。
今ある身体を持ってして 上手くいかないものは、いくら頭を使ってコントロールしようとしても無理な話なのです。無理が効いたとしても、それが音楽的かどうか、という話には到底たどり着けません。故に、それは知的な経験ではない、ということです。
私がレッスンで、生徒がその作品とピアノに向かいつつも、どのようにして 一旦 自我を捨て、コントロールしようとさせず、視点を逆転させるか。・・・という内容は十人十色・・・その時の心身のコンディションや、持っている主観客観の状態などで、まったく一人一人違った内容ではあります。曲に向かうべきテンションの位置があまりにも違えば、完全にピアノから離して、カラダと向き合う作業をします。
簡単に言うと(?)、
カラダの悲鳴が聞こえてくるので、
その声を理解し、ちゃんと応えてあげることの時間を、生徒と一緒に惜しみなく過ごします。
前回、
健全な魂は、健全な肉体に宿る
ということを書きましたが、
心が先か、身体が先か。
卵が先か、鶏が先か。なんていうのがあるけども、まぁ、こちらは進化論的な話で苦手なので、、あえて繋げませんが。しかし哲学的な方面とも関わりが無いとは言えないものなので、最終的に同じ話になる気もしますけども・・・結局、一般の考えからいったら、パラドックスな訳です。
最近のニューロバイオロジーの研究では、
「感情と気分は、人間の魂のつかの間の反映ではなく」、むしろ、「一般の世界に対する本能的な反応を 脳が解釈したものである」としている。
あらゆる感覚と身体的な兆候を意識的に総動員したとしても、そこには何もない。感情からは「心の破片」の一片すら取り出せないのだ。
だから・・という訳でもないけれど、もしも脳にこだわるのであれば、神経生物学研究からの視点も、自分なりに考慮していくことは大事だと思うし、それを肝に銘じていれば、肝に通じる!
ということで、
明らかに身体が先行して心に影響を及ぼすように、(そう感じられるようになって初めて、自己という、丸ごと統一された自分 というものの自覚が芽生えるのですが。)
カラダが解き放たれている時こそが、本当に精神が穏やかであり、尚且つ、それは、新しい扉(感覚)をどんどん開いていく準備というものが整えられる時でもあります。
レッスンをしていて生徒がこれを掴んだ瞬間
もしくは、
すでにフォーカル・ジストニアである私自身がこれを掴んだ瞬間
弾けない手・指(私は、動かない手・指)とは
反対側の手の使い方を
実は!
変えられるようになる!!のです。
端的に言うと、弾けないことにこだわり、コントロールしようとすることを 全身全霊あきらめた所から見えてきたものは、
違う方の手に、実はたくさんのヒントが秘められていているということ。それを見つけ出すことができるのです。
そしてここから凄いことは、「両側性転移」のごとく、弾けないほうの手が、あれよあれよという間に、明らかに良い現象が、反応として表れている!
それは・・・一般の世界に対する反応ではなく、自分の中にある本能的な反応であるということを納得せざる終えません。
それをやっと、やっと、ここで 味わい喜びを感じることができるわけです。
こだわらない
コントロールしようとしない
あきらめる
これは、
脳が間違って解釈していることに、気づくこと。
そこに気づけば、自然 かつ冷静で、統一感に満ちた自己がここに在り、作品そのものが自ら歩み寄って、語りかけるかのように教えを導いてくれるのです。
音楽・芸術一般に限ったことではないな、と思うところもあるんですよね。
たとえば、赤ちゃんが欲しいと願って、食事や体温・排卵日チェックや、いろいろなことにこだわってみて、たくさん気を使って生活していても、いっこうに恵まれる気配がなく、
疲れたわ~。と、ふとあきらめた時に、授かった!という人の話をよく耳にします。
アイディアなんかも、必死に考えている時は、実は冴えなくて、ほんとは苦しくて、
ま、いっか~。とお風呂入ったり、ひと眠りした時に、ふと 名案が浮かんだりするしね。
音楽の場合はそれが究極である訳だけども、本質的に素晴らしい演奏家・指揮者は、脳をもってして自身のカラダを追い込んだりは、決してしない。
そうやって生み出されたものに真実はない、ということを知っているのだと思うし、神聖なる精神の出所が、すでに体内に存在していて、ある種のインスピレーションを通じて、降り注がれている感じがする。
赤ちゃんも、芸術もの♡ 音楽も、授かりもの♡
とにかく、
脳に勘違いされたカラダっていうのは、分断されちゃってかわいそうだな。と、自他共に、思い気づくようになれました。
カラダに帰還することは、本当に、大事大事。。。