西洋文化は1(自己、自分)、日本文化は八百万(たくさん、ゼロ0、ワンネス)
乳酸菌の発酵温度を調べていて、ふと感じたこと。乳酸菌の発酵温度から思わぬ副産物・氣付きが得られた。笑あちこち話が飛んでるかもだけど、氣付いたことを書いていく。ーーー近年の西洋文化は、一神教だったり、西洋薬も薬効を持つひとつの成分だけだったり、1をものすごく大切にしている感覚。自立が大切という文化だったり、自分というものにすごくこだわったり。アイデンティティという文化。独自性を示したかったり、他とくっきりと区別した自己を表現することが美徳のようにしている、アメリカや西洋文化の社会。日本も戦後、アメリカGHQが入って来て、色々変えられたため、個の時代へと大転換していった。もちろん、個の時代は自分を楽しむ時代でもあり、自分というひとりの個をあらゆる感情を感じながら、思いっきり楽しめた貴重な素晴らしい時代でもあった。つらい、くるしいことが多かったのは、八百万の感覚が抜け切ってなかったからかも。でも、高度成長期のように、自分たちのチカラを存分に発揮してぐーーーんと伸びた自信も生まれたんじゃないのかな?そのあと氷河期もきたけど西洋と反対に、長いこと日本は、神は八百万、薬は何種類かを調合した漢方など、全体との和を意識していた感覚。戦国時代であっても、天下統一だったり、ひとつにまとめ上げたいという欲望があった。ある意味、ワンネスに戻ろうとするチカラが働いたのかな。漢方はどの成分がどのように効いているのかあまりまだ解明されていなかったりするけど、漢方薬は植物などの生薬の組み合わせによって、同じ生薬が入っていても、全然違う症状に使われたりする。組み合わされた生薬たちカラダの中に入って、カラダと交わって、カラダに効いてくる。カラダとの調和、ハーモニー。八百万は、数えきれないほどたくさん、ということ。8という数字は横にすると∞無限。やおよろず、八百万はワンネス感に通じてると感じる。ワンネスは、すべての存在がつながりあっていて、すべてが自分でもありほかでもあり。そして、ワンネスはゼロ0でもあると感じている。ゼロはまったく何もないこと、だと教えられるけど、そうじゃないと感じている。ゼロという座標の点からはすべての点にそのままいけて、そのものになれるから。例えば平面の話になるけど、x=1,y=2の座標点からx=2,y=5の座標点になろうとすると、xは➕1、yは➕3しないとその座標点になることができない。でも、0からx=2,y=5の座標点になるには、xは➕2、yは➕5すれば、その座標点になることができる。どんな座標点にでも、そのままなることができるのが、0ゼロである。ゆえに、ゼロは全部でもあるといえるのではないかな。ゼロでもあり、すべてでもあり。縄文時代(協奏・共創)も、弥生の仕組み(競争・狂騒)が広がってしまったけど、戦後も同じように1の仕組みが広がってしまった。だけど、弥生のときも、戦後の今も、陰があったから陽が生まれたこともあった。すべて陰陽あるから。わたしたちが1を極める必要があったんじゃないか。自分をトコトン味わい、トコトン愛する。これは究極の1であり、それが極まるとき、また転じて、ヤオヨロズ、ワンネスになっていく。コロコロと回転し、☯️は球体。極まるとグルンと転じる。ちょうど、このグルンの転換期のいま、真っ只中。それを目指して、みんな今を選んで生まれて来た。たすけるため?自分1を楽しむため?1を体感するため?1からの八百万を感じてみるため?競争を知るため?それぞれの魂・ヒカリがやりたいことは違うけれど、地球に肉体を用意してもらって、今こうして地球と存在している❗️それだけでどれだけ有り難いことなのか❗️だからこそ、今やりたいこと、やろう❗️ってみんな言うんだよね。大事な肉体を用意してもらって、そこに入って、現実というものを体験させていただいている。どんな体験も素晴らしいもの。嫌なことも、後になったら、笑い話になったりするように、宇宙に還っても、地球で味わった感情はしばらく残って、楽しめるらしい。だから。眠たかったら寝たらいい。小説読みたかったら読んだらいい。食べたかったら食べればいい。何かしたかったら、何かしたらいい。話したかったら話したらいい。そして、感じたことを味わう❗️そして噛み砕き、咀嚼。腑に落とす。そして消化、昇華、浄化。いまやりたいこと、なーにと、自分の胸に手を当てて聞いてみる。うーんと、わたしの今やりたいことは、、、はがれちゃったネイルを塗りなおすこと❗️だって笑確かにそうだ。笑塗りなおそう