感情と出来事は別ものだ、という話を教えてもらったときにすんなり腑に落ちなかったので、ちょっと感じてみたことをアウトプット
「何か起きたこと・現象・出来事」というのは独立していて、それを見た「わたし」がどう感じたかということは別々のもの。
ふと思い浮かんだ例え話
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クリスマス特集のテレビを見ている3人の人の感情をみてみる。
悲. 寂. 嬉
若者は一緒に過ごす人がいないと悲しんでいた。
あるおじさんは、今まで一緒にクリスマスをお祝いしていた奥さんに先立たれて、寂しがっていた。
ある子どもは、クリスマスで食べるであろうたくさんの美味しい料理とプレゼント
に嬉しい氣持ちでいっぱいだった。
クリスマス特集のテレビ番組を見ていた、という現象・出来事は同じでも、感じることは人によってさまざまであり、現象・出来事と感情はやはり別々のものである。
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空を見上げると虹が出ているという現実・現象
目で見て発見
うわーすごい!
感情:嬉しい
現実に起きていること・「現象」を「観測した者(わたし)」が、どう感じたかどうかが「感情」
自分が嬉しいからといって、その現象が素晴らしい側面(陽・ポジティブな側面)だけを持つとは限らない。その逆もしかり。
あ、今ふと思ったけど、現実に振り回されないってこういうことでもあるのか。
自分の目の前で起きている「現象」(=会社や学校でのこと、家族内でのこと、友人同士でのこと、社会で起きていることなど)を観測している「わたし」👀💬は色んなこと(喜び、不安、怒り、悲しみなどの感情)を感じるけれど、「わたし」の「感情」と「現実」は別のものならば、「わたし」は「現実」をどのように捉えても良いということでもある。
どんな出来事・どんな現実が目の前で繰り広げられても、「すべて心地よい感情へとつながっている」と設定しておけば、あとはいつもそこに着地できる。
設定はなんだってOK。
例えば、人生の設定を「どんなことが起きても、誰かからどんなことを言われても、穏やかで心地よい魂の人生を楽しみながら歩むことができている」という設定にする。
最初は半信半疑でも、その設定を繰り返し唱える(=設定の確認。不安に思う傾向が強いと、不安に思った設定に引っ張られて、せっかく行った設定が忘れ去られていることがあるため。記憶を定着させることと同じ。)と、自分の中での設定「どんなことが起きても、誰かからどんなことを言われても、穏やかで心地よい魂の人生を楽しみながら歩むことができている」ことに繋がることになる。
ひと昔の自分は、現実に振り回されていたけど、最近はどんなことが起きても、フラットな自分(ゼロポイントの自分、ハイヤーセルフ視点の自分、魂の自分)へと一旦還るようにしている。フラットな視点で、高次元の視点から現実を見るようにする、というか。
だから、ハァ〜と思うようなこととか色んなことが起きても、とりあえず感情が収まったら、無理やりでもいいので、ニコッと笑顔を作る。そして「いや、大丈夫。わたしは、どんなことが起きても、どんな時でも、この瞬間を楽しめている。魂の人生を心地よく穏やかに笑顔で歩むんだ。大丈夫。笑顔笑顔〜」などと唱える。笑
その昔、天然だよね〜とか言われたり、もっとしっかりしないと!社会人としてしっかり周りに合わせなきゃ!とか思って頑張ってた時もあったけど、「天然」て、「天のとおり・天のまま・ありのまま・魂のまま」ってことなのかなとか最近思ったから、また天然のまま生きようって思った。
でも、なんかみんながいう普通(普通も一人一人違うから合わせるのが大変だった)に合わせてたら、自分がわからなくなって、えーっとどうしてたんだっけ?ってなったけど、自分の好きな植物や海に触れたり、ティーパーティーしたり、魔法世界の小説読んだり、寝たり、わんこと戯れたり、好きなことをしていたら、少しずつ、本当の自分が満たされていって、今を生きている感覚が増えていく。
満たされていく。満たされている。いつだって、本当は満たされていた。
月はいつだってまん丸だけど、太陽によって、新月🌑になったり、満月🌕になったり、🌓半分になったりして見える。
わたしたちも、本当はいつだってまん丸で満たされているけど、まるで自分には何もないように感じたり、しあわせすぎる〜って感じて満たされているように感じたり、何かが欠けているように感じたり。
ただ、それだけのこと。
自然から天然へ。
「自分のまま」(3・4次元)から「天のまま」(5次元以上)へ。