なぜ私は私なのか
Wikipediaには次のようにある。「なぜ私は私なのか」(英:Why am I me?)は哲学の一分野である形而上学、または心の哲学の領域で議論される問題のひとつ。この問題は様々な形で定式化されるが、最も一般的には次のような形で表される問題である。世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてき、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)この質問は、「なぜ私は生まれてきたのか」という質問と同様に、難問である。しかし、私は、このような質問は、理由などないところに理由を見出そうとするから難しいのではないかと思う。「なぜ私は私なのか」という問いには、この自分の意識とこの自分の肉体(脳)を分離し、この自分の意識は、他の肉体(脳)においても成り立ち得るものと考えている。しかし、そうであろうか。例えば、この瞬間に、肉体も精神も素粒子レベルまで全く同じ人間を複製することができたとしよう。コピーの私は私なのだろうか。私は違うと思う。この私はあくまでもこの肉体に宿っている私であり、私はコピーの私にはなり得ないし、コピーの私は私にはなり得ない。恐らく私のコピーは、私と似た意識を持っているだろう。しかし、それは、一卵性双生児が全く同じ遺伝子を備えていて、姿かたちも考え方もそっくりであっても、同一人物であり得ないのと同じである。もっとも簡単な証明は、もしコピーの私が怪我をしても、私は直接彼の痛みを感ずることはできないことである。人間が生まれれば成長し、自我に目覚めるが、その肉体(脳)に目覚めた意識が、その肉体の「私」なのであり、この私の意識が先にあって、たまたまこの肉体に宿ったのではない。いつどこでどのような人間が生まれても、それぞれが「私」という意識を持つことは必然である。私のこの肉体(脳)に生まれた「私」という意識がこの私なのである。したがって、私のこの肉体(脳)を離れた「私は」あり得ない。仮に脳が他の肉体に移植された場合に、私の脳と他人の身体に宿った私はあり得るかもしれないが、同じ私の意識が連続するにしても、今の私とは変わらざるを得ないであろう。