無意識的行動に自由がなく、意識的行動にのみ自由があるのだろうか。例えば、車の運転中に前の車が急停止するのを見たときにとっさにブレーキを踏む。これは「意識的な行動」というよりは、反射的行動と思われるであろう。しかし、このような反射的行動に限らず、日常における我々の行動の大半は、時間の経過の中で次々に与えられる状況から、明確な意識的決意を経ることなく、そのまま行動が生まれている。
そして、生まれつきの反射的行動以外に、自分の出生から現在に至る人生のなかで、自ら培った無意識的行動もたくさんある。そのような無意識的行動も、自分の目的や理由に基づくものであり、自分の「意図」に沿った行動である点において異なるところはないのではなかろうか。
運動選手は、反復練習を通じて自分の技能を磨く。そこでは、自分の身体を無意識のうちに自由自在に操れるように努力をしているのである。つまり無意識的行動が、自分の意図に沿ったものとなるように努力している。すなわち無意識的行動を通じてより自由になろうとしているのである。
このことはスポーツなどの運動に限らない。音楽や茶道その他、あらゆる技能、芸術につながるもの、人生における鍛錬、修練といわれるものも全てに通じる。日常の行動の大半を占める無意識的行動にも、その人の過去の人生におけるすべての鍛錬や修練が反映しているのである。このような無意識的行動を、その人の意図的行動から除外して考えるのは、片手落ちであろう。また、これらの行動を含めた「自由」の概念でなければ現実的な自由とは言えないであろう。