リベットの実験を唯物論的に考えるには、どのように考えればよいかと、ネットを探していたら、武田一博氏の「心の唯物論と自由意志」を見つけた。2006年の論文のようだが、読んでみてとても参考になったし、リベット批判もそのとおりだと思った。
ただし、「おわりに」を読んでいて、次のような記載が少し気になった。
「第六に、意識や自由意志が神経基盤の上で成立するにしても--それは大脳新皮質の可塑性の大きさに基づいている--、そして、そのことは、意識や意思は決定論の文脈で理解されることを含意する・・・。」
「最後に逆に、リベットのように、決定論やあらゆる還元主義を意識論において否定することは、結局、心を物質的世界から独立の存在とみなす二元論に陥るほかなくなり、それは結局のところ、非科学主義、神秘主義への転落をもたらさずにはおかないのである。」
しかし、唯物論では、「意識や意思は決定論の文脈で理解」しなければならないのであろうか。また、「決定論を意識論において否定することは、結局、心を物質的世界から独立の存在とみなす二元論に陥るほかない」のであろうか。
唯物論と決定論とを不可分のものと考えるところには、物質は自然法則に従うだけの主体性のないものとしてとらえているのではないだろうか。物質はE=mc2が示すように究極的には、エネルギーからなり、自ら運動する主体的なものである。人間の自由意志は、物質の持つ主体的側面が、高度に組織化されてなるものではないのだろうか。
私はエネルギーという概念を持ち出して、観念論と唯物論の区別を曖昧にしようとしているのではない。唯物論が心の存在とを当然認めるならば、心は自ら運動する物質が生み出した機能として存在するとともに、自由意志は、物質に制約されながらも精神から物質へと限定的に反作用するものと考えることが、唯物論の立場を貫くことになるではないだろうか。精神と物質は、上部構造と下部構造のような関係にあるのではないだろうか。両者は同じエネルギーの別の側面であるとともに、常に作用しあい、反作用しあうものである。精神は物質から制約されながらも、一定の独立性をもち、自由意志として機能し得るものであろう。