現在では、機械的な決定論を唱える人々は少ないであろう。しかし、すべての出来事が、意志とは無関係に決まっているという意味で自由意志を否定する人々は多い。このような考えは、すべての出来事が不確定ではあるが、自由意志とは無関係に決定されるとする意味で、決定論の亜流であり、「不確定的決定論」と呼ぶのがふさわしいように思われる。
不確定的決定論に対して、大きな科学的根拠を与えたものは、リベット(Benjamin Libet)の実験である。リベットは、被験者の脳の活動が、意識的に動作を決定するおおよそ1/3秒前に開始されることを発見したとされる。これは、実際の決定がまず潜在意識でなされ、それから意識的決定として意識されていることを意味するかのように思われる。しかし、リベットの実験は、自由意志の否定の根拠となるのだろうか。リベットの実験は、「自由意志」とは何かについて、さらに検討が必要であるとの問題提起となるものではあっても、自由意志の否定の根拠にはならないように、私には思われる。
無意識的行動に自由がなく、意識的行動にのみ自由があるのだろうか。例えば、前の車が急停止するのを見たときにとっさにブレーキを踏む。これは「意識的な行動」というよりは、無意識の反射的行動と思われるであろう。しかし、このような反射的行動に限らず、日常における我々の行動の大半は、時間の経過の中で次々に与えられる状況から、明確な意識的決意を経ることなく、そのまま行動が生まれている。
そして、生まれつきの反射的行動以外に、自分の出生から現在に至る人生のなかで、自ら培った無意識的行動もたくさんある。そのような無意識的行動も、自分の理性や目的に従うものであり、自分の「意図」に沿った行動である点において、同様ではないだろうか。反復練習を通じて磨かれた運動選手の技能も、そのようなものである。人生における鍛錬、修練といわれるものも全て、無意識的行動が、自分の意図に沿ったものとなるように努力しているのではないだろうか。日常の行動の大半を占めるこのような無意識的行動に関して、自分の意図から除外して考えるのは、片手落ちであるように思われる。また、これらの行動を含めた「自由」でなければ現実的な自由とは言えないであろう。
自由意志の発現は、ある行為を意識的に発意することによって始めるものとすることはできない。もしそのように考えると、もしその意識的発意が無意識から発生してきたものであれば、真の自由意志の発現とは言えない。すなわち、その意識的発意も意識的に発意されなければならず、さらに意識的発意の意識的発意も意識的に発意されなければならないことになり、いつまでもきりがない。すなわち、自由意志の発現は、ある行為を意識的に発意することによって始めるものとする理論は成り立ち得ない。
自由意志が発現するには、「何もしない」を含めて、2以上の選択肢があることが前提であり、最も単純な形では、ある行為をするかしないか、いずれでも選択できることが自由ための必要条件である。いずれでも選択できる状況において、自分の目的意識に基づいて、いずれかを選択することにより、自由が実現される。「選びたくない選択肢ばかりの時に自由はあるのか」との疑問もあるかもしれないが、そのような場合も、目的意識に基づいて選びたくない度合いの低いものを選択するという自由はあると思う。
自由意思があるかどうかの問題において、行為が意識的に発意されるかどうかは問題ではない。また、行為をするかしないかが、意識的に選択されるか、無意識的に選択されるかさえも問題ではない。その選択が殆ど無意識に行われたとしても、その行為が明らかに自分の意に反するものでない限り、そこには自由がある。その無意識の選択でさえ、自由意志に基づくものということができる。
日常の行動を考えてもわかるように、どこまで意識的行動で、どこからが無意識的行動かを区別することは難しい。意識的行動か無意識的行動かは、程度の問題である。そして日常の行動の殆どは、明確な意識的決定を伴わずに行われているのである。無意識的行動に自由がなく、意識的行動にのみ自由があるとするようにとらえることはできない。「自由意志」は「意識的行動」とは全く別の概念として考えるべきであり、「自由意志」は意識的行動及び無意識的行動により実現されるものであろう。また、そのような、「自由意志」を実現する意識的行動及び無意識的行動を包括して「意図的行動」としてとらえてはどうだろう。