自然法則は必然性を持っている。自然法則に支配されているならば自由とは言えないだろう。必然の反対語は偶然である。それでは偶然性があれば自由と言えるのだろうか。自由は偶然とも異なるし、必然と偶然をミックスしても自由が出てくるようには思えない。

そもそも自由とは何なのか。Wikipediaでは「他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう」とある。「自己自身の本性」というのがよくわからない。広辞苑ではいろいろと定義があるが、広義では「こころのままであること。思う通り」というのでかまわないであろう。「責任をもって何かをすることに障害がないこと」というのもあるが、「責任をもって」というのは社会性の観点が含められている。

自由意志について考える場合、「こころのままであること。思う通り」に行動していると思っていても、それが自然法則の必然的結果なのかもしれない。ここでの「こころ」は果たして主体性を持ったものなのかどうかが問題なのである。

人間の肉体は物質からできており、肉体は自然法則に支配されている。動物は自分自身が生存し、種を保存するように本能的に行動している。このような本能的行動は、単純な自然法則ではないが、自然にプログラムされた行動であり、自由な行動と言えるものではないだろう。

人間も動物であり、自然にプログラムされた本能的行動から完全に自由ではない。また、行動の根底にある願望や欲求などは、本能と無関係とは言えない。このように考えると、我々の意識も必然性に支配されていないとは言えないであろう。

それでは自由意志はないのかと言うと、私は、やはり自由意志はあると思う。我々は自然法則から自由ではないし、本能からも自由ではない。また、社会的な状況からも自由ではない。しかし、我々の行動は全て必然的なもので、我々の意志が介在する余地がなく決まっているわけではない。例えば、「ソーダを飲みたいけれど、糖分をとり過ぎるから、今回は我慢しよう」というように、欲求とは反する理性的行動をとることができる。そこでは「糖尿病になりたくない」「糖尿病を悪化させたくない」などの願望があることは確かであり、自己保存本能と無関係とは言えないかも知れない。それでも、ソーダを飲むかどうかが、自分の意志と無関係に必然的に決まっているわけではない。誰が決めるのかというと、他でもない自分が決めるのである。

「自分が知らないだけで、本当は、ソーダを飲むかどうかが、必然的に決まっているのではないのか」と言う人もいるだろう。しかし、決まっているとしても、それが分からない限り、決まっていると言っても意味はない。また、仮に私がソーダを飲まないことが予め分かったなら、私は反対にソーダを飲むので、予め分かったこと自体の意味がなくなる。したがって、「必然的に決まってはいない」と考えて何ら不都合はないのである。

永遠に分からないけれど、本当は決まっているなどというのは、架空の議論に過ぎない。架空の議論など好きなだけ作れる。例えば、「あなたには、誰にも見えず、何もしない霊が取り付いている」ことを否定する証明はあるだろうか。「世界はビッグバンで始まったのではなく、ビッグバンの兆候も、あなたの記憶も含めて、世界の全てが、5分前のそのままの状態で、5分前に突然始まった」とする『5分前天地創造説」を否定する証明はあるだろうか。それが、5分前ではなく10分前または15分前であることを否定する証明はあるだろうか。そのような議論は、妄想好きのヒマ人に任せておけばよい。

マルクスは「哲学者は世界をさまざまに解釈してきた。しかし重要なのは世界を変革することだ」と言った。哲学は人生を切り拓くためのものであり、ヒマ人のたわごとであってはならない。