小唄
今度の小唄の会で、市川三升作詞、吉田草紙庵作曲の芝居小唄「上野の鐘」を唄うことになった。芝居は、ご存知河竹黙阿弥作「天衣紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)又の名「天保六花撰」。稀代の悪坊主、河内山宗俊が登場する芝居で、小唄は、直侍と遊女・三千歳の濡場を唄ったもの。歌詞は、「上野の鐘の音も凍る 春未だ浅き畦道に 積もるも恋の淡雪を よすがに辿る入谷村 門の戸ぼそに橘の 忍ぶ姿の直次郎」。宗俊と組んで、強請り騙りの悪事を散々重ねてきた直次郎が、江戸を高飛びする前に、入谷の大口屋の寮に養生に来ている遊女・三千歳に一目逢いたいと、蕎麦屋で出会った按摩の丈賀に文を持たせてやり、まんまと忍び込む様を唄ったものである。直次郎は、十五世羽左衛門の当り役であった。
この唄を作詞した市川三升(みます)というのは、十代目市川団十郎その人である。彼は俳句をよくし、また、無類の小唄好きで、数多くの小唄を作詞した。昭和29年に彼が亡くなった時、親しかった伊東深水らが彼を偲んで「夜雨会」(《夜雨》というのは団十郎の俳号)という小唄の会を立ち上げて今日に至っている。今年は10月27日、三越劇場で公演の予定と聞いているが、もしかしたらこの会に出さしてもらえるかも知れない。
小唄「上野の鐘」が昭和13年5月、新富町の料亭で、草紙庵の糸、本木寿以の唄で開曲された時、聞役だった羽左衛門が、「よすがに辿る入谷村」という所まで唄がくると、やにわにすくと立ち上がり、三升の作詞に無かった直次郎の台詞、「思いがけなく丈賀に出会い 渡してやったさっきの手紙 もう三千歳へは届いた時分 門の締りは開けてあるか 角からそっと当って見ようか」を即席で挿入し、見得を切ったという。それ以来、この唄は台詞つきで唄う人が多い。だが折角の名台詞も、羽左衛門の声色でやらなきゃ格好がつかない。そこへゆくと上村幸以先生は堂に入ったもの。
頑張れ民主党
昨日の朝、フジテレビ7時半の「報道2001」に民主党・新党首小沢一郎氏が出演しているのを見ていたら、一つだけいいことを言った。アナウンサーから、民主党新党首として、小泉首相の靖国問題についてどう思うかという質問に対して、はっきりと、あれは小泉総理が間違っていると断言したことである。理由を聞かれて、「靖国神社は、戦場で命を捧げた人を祀る神社だから、A級戦犯を合祀したのは間違いだ。だからA級戦犯の霊を他所に遷し本来の靖国神社に戻したら堂々とお参りに行けばいい」と答えた。
私は、小沢一郎と言う人物は、余り好きではないが、民主党新党首として、党を再生することは勿論、自民党を向こうに回しての二大政党制実現への意気込みは、大いに評価したい。新しい民主党は、これまでの民主党のように小手先の議論をこね回すのではなく、またメール事件みたいにスキャンダルを突くような卑怯な攻撃ではなく、明確な歴史観、世界観に立って、日本人ばかりでなく、世界の人々が納得するような議論を正々堂々と展開して欲しい。
靖国問題も、現在、日本の外交上の大きな問題の一つとなっている。先日の予算国会での民主党の代表質問に対する小泉首相の答弁及びその後の記者会見でも同様、小泉首相の「靖国神社に参拝して何が悪い」という開き直った考えに対し、民主党新党首に期待したいのは、民間のテレビだけでなく、国会の場で、再生民主党の命運をかけて、はっきりと「小泉首相は間違っている」と発言して欲しいのである。
ただ、私に言わせると、「報道2001」における小沢氏の発言についても、一つ指摘したいのは、「靖国神社は戦場で命を捧げた人を祀る神社だから」と言うのは正しくないということである。正しくは、「戦場で《天皇のため》命を捧げた人を祀る神社だから」である。だから、幕末の戊辰戦争や明治10年の西南戦争で賊軍の汚名を着せられた戦死者は合祀されていない。これらの戦死者は、立場が違うだけで同じ日本人であることに変わりはない。今の天皇は平和的象徴天皇であるが、敗戦前は、軍閥に利用されたとはいえ、自ら神であり、中国から見れば侵略軍の統帥であり、軍国主義ナショナリズムのシンボルであった。
小泉首相が、自らの歴史認識の誤りを認め、靖国参拝を止めれば、日中国交は正常化するかもしれない。それも日本にとって大切なことであるが、それよりも、小沢新民主党々主が国会で堂々と小泉首相の歴史認識の誤りを正すことに成功すれば、民主党の存在感をアピールし、支持率が急上昇すること請け合いである。
青空の会
4月6日(木)、晴天に恵まれ、JR京浜東北線王子駅中央口集合。総勢約120名。飛鳥山公園から歩き始める。8割が熟年女性。厄介なものぐさ亭主は家で留守番。江戸時代から明治に掛けて桜の名所と言えば、一に上野、二が飛鳥山、三に向島と相場が決まっていた。小金井と御殿山がこれに次ぐ。それなのに青空の会の世話役の人は、東京の桜の名所は、上野、千鳥が縁、飛鳥山とおっしゃったが、千鳥が縁は、後から出来た名所である。
飛鳥山の由来は、鎌倉時代の末期、この辺の土地の支配者であった豊島氏が紀州熊野から飛鳥明神と若一王子社を遷したことから始まったと言う。江戸幕府八代将軍吉宗が、鷹狩りの場所だった飛鳥山に1270本の桜を植えさせて庶民に開放したことから桜の名所となった。古典小唄で賑やかな替手が入った名曲「仇な世界に仇くらべ 浮かれて遊ぶ飛鳥山 鐘は上野か浅草か 霞と雲につつまれて 傘へ散らすな花の真っ盛り」に唄われたように、霞か雲かと見まごうほど爛漫と咲き誇る桜の下で、重箱のご馳走をつつき、酒を飲みながら、上野や浅草の夕べの鐘が鳴るまで遊び呆けた花見の宴。昔は花見が江戸庶民の最大の娯楽であった。今の飛鳥山は訪れる人も少ない。
旧古河庭園の土地は、明治の元勲・陸奥宗光の別邸のあった処であるが、この屋敷(現存せず)は宗光の次男が古河財閥の養子になったため古河氏の所有となった。現在の洋館は、大正の初め、英国人建築家・コンドル(鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸などの設計者)の設計になるもので、平成18年1月26日、国の名勝に指定された。私達が訪れた時は、まだ桜が真っ盛りであった。今日の青空の会はここで解散、ここからJR山手線駒込駅まで歩き、電車で荻窪まで帰った。
小唄人生
信州の思い出話は、まだまだ続くのであるが、中断して小唄の話に戻る。実はこの前、小花で一杯飲んだ時、鶴村寿々紅師匠から、6月6日の江戸小唄社主催の小唄祭で「薄雲太夫」を唄って欲しいと言われ、簡単に引き受けたものの、20年位前に習った唄で殆ど忘れているので、新しく習うのと変わらないと言うことが分かった。そこでこれは大変と取り組み始めたと言う訳。この唄は、小野金次郎の作詞、佐々舟澄枝の作曲である。先ず、この唄の故事来歴から始める。
時は元禄(1688~1704)の頃、江戸は吉原、京町の三浦屋に薄雲太夫という花魁がいた。無類の猫好きで知られ、客は先ず猫のご機嫌を取らねばならなかったと言う。広重画く猫を抱いた薄雲太夫の絵が残っているところを見ると、まず間違いないことと思われる。玉という三毛猫を溺愛し、花魁道中する時はいつも玉を抱いていた。愛猫のために友禅の布団を作り、緋縮緬の首輪には金や銀の鈴を付けたと言う。ここまでは恐らくほんとの話であろう。
1775年に宝井基角が、「京町の猫通いけり揚屋町」という句っを作ったが、この句は、その頃の遊女が、みんな薄雲太夫にならって猫を飼った(猫を飼うと出世できる)という風情を詠ったものと思われる。京町という吉原の町名は、京の島原遊郭にならって付けた名前。猫は遊女の別名にも取れる。揚屋は遊女を置屋から呼んで遊ぶ処。仙台候が高尾太夫を身請けしようとした間際に病死してしまったので、代わりに薄雲太夫を身請けしたという話が残っている。三浦屋の花魁の中でのランクは、トップが高尾太夫で、次が薄雲、小紫の順だそうだ。
薄雲太夫の愛猫談には、その後色んな尾鰭が付く。殆どが作り話であるが、代表的なのは、「薄雲太夫が、日頃可愛がっている猫に魅入られたらしく、薄雲が厠へ行こうとすると、物凄い顔で裾を引っ張るので悲鳴をあげたら、三浦屋の主人が脇差を抜いて猫の首を切り落とした。すると、猫の首がロケットのように天井に飛び上がり、そこに潜んでいた毒蛇の首に噛み付いて薄雲太夫の命を救った。薄雲太夫は、死んで自分を救ってくれた猫を哀れんで、寺に猫塚を建てて弔った」というものである。また、薄雲太夫の猫が「招き猫」の元祖だという縁起話もある。
昭和40年に小野金次郎の作詞により小唄「薄雲太夫」を作曲した佐々舟澄枝(大正8年生)は、今日まで数々の新曲を発表しているが、昭和60年、佐々舟派の二世家元を襲名し、今日に至っている。
信州と私
蓼科は、私にとって最も懐かしい自然である。特に白樺湖を中心に霧が峰、車山辺りは思い出が深い。冬のスキー、春秋のハイキング、夏の登山など、三井山荘を根拠地にして、思う存分歩き回った。中でも多く訪れたのは、冬のスキーであろう。雪の便りを待ちかねてはよく出かけて行った。今みたいに宅急便の無い頃である。長いスキーを列車に持ち込み、それを担いで登った。その代わり帰りは、茅野の駅まで滑って降るのが快適でだった。山荘の裏山のゲレンデでよく滑った。偶には蓼科温泉から八子ケ峰(1832m)を越えるツアーをしたり、車山(1925m)を越えて、一気に白樺湖へ滑降したりすることもあった。
昭和24年の7月下旬、浅沼さんがガイドで、中村キミさん、田中敏子さん、山田裕子さん達と一緒に、上諏訪から和田峠へ向かって登り、初めて霧が峰へハイキングに行った時の思い出は、鮮烈である。上諏訪から和田峠越えの道は、未だ乗り物が無く、歩いて登るのに結構汗をかいた。和田峠へ着いて一休みし、そこから右霧が峰、左美ヶ原の道標に従って右折し、15分くらい歩いて霧が峰の稜線に出た時、眼の中に飛び込んで来たのがニッコウキスゲの大群落。あの時の感激は、忘れることが出来ない。しばし呆然とその感激に浸っていた。それからニッコウキスゲの黄色い海を踏み分けて白樺湖に辿りついた。あのとき一緒だった中村キミさんも去年あの世に旅立ってしまった。
あの頃の霧が峰高原や白樺湖畔には、未だ何も無く、ホテルやヒュッテが出来始めたのは、昭和27年頃からではないだろうか。三井山荘の対岸の万仁武小屋も息子の両角喜久治氏の代になってホテルに改築され、ニックネームをそのまま雷ホテルと名付けられた。三井山荘も、交野さんが本社に帰り、その後、元学校の校長先生だった方が管理人になった。その人は、山荘に若い人たちのグループが泊まりに来ると、必ず一列に並ばせて訓辞をするので、誰も名前を呼ばず校長先生と呼んでいた。私などは、交野さんや浅沼さんの友人ということで特別大事にされた。
蓼科山(2530m)へは、大河原峠を通って二度登った。一回は千葉さんと一緒だった。もう一度は三井化学山岳部のメンバーと登った。蓼科山は姿のいい山で、頂上付近は岩場だった。山頂からは、すぐ近くに八ヶ岳連峰、晴れた日には、美ヶ原の向こうに北アルプスの槍、穂高、北には浅間山、草津白根、南に甲斐駒、仙丈、北岳などの山々を見ることが出来た。私は、もう年で、山に登る力は全く無くなってしまったが、あんなに元気だった千葉さんもすっかり駄目になってしまった。今は、あれもこれも、みんな半世紀も前の昔の夢と化してしまった。それに昔の思い出を互いに語り合う友も少なくなった。
世の中が高度成長期を迎えて、霧が峰高原にもビーナスラインが敷かれ、車がどんどん入って来るようになった。昭和40年代になると、私も人並みにゴルフをやるようになった。同窓生で蓼科に別荘を建てた三井不動産の岩崎さんに誘われて、私と太田さんと印牧(かねまき)さんとで、毎年春、夏、秋、三井の森ゴルフクラブ及びフォレストカントリークラブでゴルフをするようになった。春は桜、夏は涼しく、秋は紅葉と、八ヶ岳連峰をバックにして、景色も空気も最高だった。そのゴルフも、岩崎さんが軽い脳梗塞、太田さんが緑内症、私が大腸癌で、すっかり足が遠のいてしまった。
信州と私
信州は私にとって、心の故郷とも言うべき地である。これから暫らくの間、蓼科、志賀高原、乗鞍、上高地、白馬など、私の青春の血を滾らせた信州の思い出について語りたいと思う。
私が社会人になって初めて、うら若き女性達と、夢と希望に胸を膨らませて訪れた地が、信州・蓼科であった。学校を出て就職。と思ったら兵隊。幸い戦争が早く終ったから戦地へは行かずに済んだが、もう半年戦争が続いたら、この世にはいなかったであろう。敗戦で会社に復帰し、仕事ばかりじゃつまらないと仲間に誘われて日本橋室町・三井ビルの中の合唱団に入ったのが昭和21年の春、私が23歳の時であった。
暫らくして素晴らしい友達が何人か出来て、何かというと一緒に集まったり、何処かへ出かけたりした。メンバーは、一番年上が浅沼尚(あさぬまひさし)さん、次が千葉重子さん(みんなは《おもこさん》と呼んだ)、中村キミさん、田中敏子さん、一番若いのが山田裕子さん、それに私の六人であった。勤め先はみんな同じビルの中だけど、浅沼さんは三井不動産、千葉さんは三井生命、田中さんが三井信託、中村さんと山田さんと私が三井化学だった。
蓼科の白樺湖の畔に三井不動産の施設があった。そこは戦時中綿羊を飼うため柏原部落の農家を買い取って移築したもので、交野(かたの)さんという三井不動産の課長クラスの方が管理していた。そこを厚生寮として三井各社に開放することになり、解放前に特別に私達だけ使わせて貰えることになったので出かけていった。午後3時頃、中央線を茅野駅で降りて、未だバスも通っていない三里ほどの道を白樺湖まで歩いて行った。私にとって初めての信州の旅であった。
蓼科の三井山荘には、その頃、交野さんご夫婦と喜太郎という十歳位の男の子の三人で住んでいた。周りに人家は無く、白樺湖の対岸、車山から降りてきたところに万仁武(まにむ)小屋という山小屋が一軒あるだけ。その小屋は、偶々迷い込んだハイカーや蓼科山の登山者を泊めてやる位の小さな小屋で、両角(もろずみ)という夫婦者と男の子が住んでいて、通称雷小屋と呼ばれていた。未だ電気が通ってなくて、夜はランプだった。客がマッチ一本つけ損なってムダにすると、マッチ一つでも三里も下の柏原まで買いに行くのだから無駄にするなと雷が落ちた。そこで雷小屋という名がついた。
初めて泊まった蓼科の夜は、春とはいえ肌寒く、空気が澄んで夜空に満天の星がキラキラ輝いていた。交野さん心づくしの信州ワインの香りが甘く漂い、薪ストーブを囲みながら皆んな青春に酔いしれていた。
千葉さんが空を眺めて、「あっ!星が流れた!」と叫んだ。その声は、夢と希望に満ちた若さの叫びのようでであった。
小泉首相の評価
中韓の指導者が日本の指導者・小泉首相に対して抱いている評価は、決して日本人にとって有難いものではない。先日、19年度予算が国会で承認された際の記者会見においても、中韓との外交関係改善に関する記者の質問に対し、小泉首相の答弁は、靖国神社に参拝して何が悪いか、個人の心の問題に他国の指導者が何で兎や角言うのかと、開き直ったものであった。 それも一国の首相として立派な答弁であろうが、中韓指導者を納得させるものではない。そこで両者の中間に立って、この問題について、歴史的、論理的な問題として捉えて見るのも面白いのではないかと思う。
中韓の指導者が日本の小泉首相に抱いている評価は、次の二つの三段論法で表現出来るとする。
その1:
(A)日本の小泉首相は、靖国神社に参拝することを止めない。
(B)靖国神社は、天皇のため戦争で命を捧げた者たちを祀った神社で、日本軍国主義ナショナリズム のシンボルである。
(C)故に小泉首相は、日本軍国主義のサポーターである。
その2:
(A)日本の小泉首相は、靖国神社に参拝することを止めない。
(B)靖国神社には、日本軍国主義ナショナリズムの指導者であったA級戦犯が祀られている。
(C)故に小泉首相は、日本軍国主義のサポーターである。
小泉首相が、中韓指導者の評価を改めさせようと思ったら、その1及びその2の(B)の誤謬を証明し、二つの三段論法を論破しなければならないであろう。
凡そ霊に対して参拝するとか祈るとかという行動は、宗教的なものと言える。個人の信教の自由は憲法で保証されている。しかし、一国の首相たるものが、寺院や教会へ行くのなら兎も角、日本軍国主義ナショナリズムのシンボルである靖国神社に参拝して祈るという行動は、個人の問題として片付けることは難しい。
そしてまた、小泉首相がいくら心の問題だと言い張っても、中韓指導者はそれを信じない。単に心の問題だとしたら、何も靖国神社へ行かなくても、何処でもよいわけである。
4月10日に着任する新中国大使・宮本雄二氏は、着任を前に「靖国問題は、日本の宗教観、文化、伝統に関係する問題。中国側に分かる理屈で説明し、納得してもらうよう努力する」と語ったが、中国側だけではなく、偏ったナショナリズムを持たない日本人にも分かるよう説明してもらいたい。
日本の文化ナショナリズム
「日本の文化ナショナリズム」の著者・鈴木博士は、日本の天皇制という制度も発明されたものであると説く。日本の天皇制については、明治22年に発布された「大日本帝国憲法」第1条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」及び第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」更に第十一条「天皇は陸海軍を統帥す」などで特色付けられるが、天皇家が二つに分かれて争った南北朝時代を見ても万世一系とは言い難い。(その後は南朝を正統とする説が有力であったが、実際は殆ど北朝側の天皇が皇位を継いだ)。また第3条は、天照大神を皇祖とする国家神道との融合を意図したもの。更に明治23年、「教育勅語」が発布され、「一旦緩急あらば儀勇公に奉じ以って天壌無窮の皇運を扶翼」することを以って最高の規範とされた。かくして水ももらさぬ「天皇制」が発明された。
明治、大正、昭和の国民は、学校では、紀元節、天長節などの儀式歌や四条畷、湊川、児島高徳などの小学唱歌、或いは軍歌などを歌わせられ、教育勅語を拳々服膺して忠良なる臣民に仕立て上げられた。そして徴兵で軍隊に取られれば、軍人勅諭の「わが国の軍隊は・・・」や戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けること勿れ」で洗脳され、太平洋戦争が終るまで、「満蒙は日本の生命線」、「大東亜共栄圏」、「八紘一宇」、「神国日本」などのスローガンの下で戦場に駆り出され、その結果246万余の国民が命を捧げ靖国神社に祀られた。日本の軍事、政治、経済、思想に跨るナショナリズムがここまで来てしまった以上、欧米のナショナリズムとの衝突は、避け得なかったかもしれない。それにしても若し日本が、ボツダム宣言受諾で無条件降伏していなければ、更に大きな犠牲が出たであろう。
勿論鈴木博士は、ナショナリズム弊害についてのみ言及するのではなく、科学、技術、スポーツ、学術その他日本の伝統的文化について、世界に向かってナショナリズムを発揮するのは悪いことではないとする。
東京大学で哲学を講じたフェノロサ及びその弟子・岡倉天心は、日清・日露戦の後、日本という国は決して好戦国ではなく、高い文化ナショナリズムを持つくにであることを世界に向かってPRした。また新渡戸稲造は「武士道」を創始し、日本オリジナルの伝統的精神文化として世界に広めた。
戦後の「日本の文化ナショナリズム」についての鈴木博士の所論は、まだまだ続くのであるが、このテーマについては、この辺で私は、暫らく筆を休めることとしたい。ところで、最近、新聞やテレビを見て感ずることが幾つかある。一つは、自民・民主両党国会議員からなる議員連盟(378名)の「教育基本法改正促進委員会」における「新教育基本法案」で、教育の目的として「愛国心の涵養」が明記されない場合は、議員立法も辞さないとしているが、「愛国心」の中身が問題である。もう一つは、今から2年前、都立板橋高校の卒業式で、「君が代」の起立斉唱の強制に反対した元教諭に、3月23日、懲役8ヶ月の求刑がなされたこと。どこかが狂っている。
日本の文化ナショナリズム
前回、一つ書き忘れたことがある。それは、明治政府が西洋化の一環として、それまでの太陰暦を廃止し太陽暦を採用したが、その際、列強に倣って建国記念日を設定しようと言う事になり、神武天皇即位の日、即ち皇紀元年(西暦の660年前)2月11日を以って建国記念日(紀元節)と定めた。しかし、皇紀元年2月11日というのは神話の時代であり、全く発明された歴史であって、日本の歴史は西洋の歴史より古いことを内外に示すのが目的であった。紀元節は、第2次大戦後、神話に基づくナショナリズムとしてGHQから否定され、廃止されたが、1967年に「建国記念の日」として復活した。
日本の古代史については、8~9世紀の頃、古事記や日本書紀が編纂されたが、古事記は、稗田阿礼という語り部の伝承を安倍安麻呂が漢文で記述し天皇に献じたもので、語り部というのは、時の権力者のお抱え集団であったから、伝承の内容について偏りがあったことは、想像にやぶさかでない。各豪族たちが持っていた史書で古事記の記述と矛盾するものは悉く焼き捨てさせられたという。日本書紀は、古事記の177年後に舎人(とねり)親王が天皇の命により、古事記などをテキストとして編纂したもので、王権を正統化するため更に粉飾されたものであることは想像に難くない。
その後長い間、日本の古代史については、日本書紀が公の史書とされて来た。降って鎌倉時代、二度に亘り元寇という国難を切り抜け、ナショナリズムが高揚。しかし鎌倉幕府は、財政破綻と論功行賞の失敗から、地方武士や御家人の信望を失い、足利尊氏に滅ぼされる。尊氏は光明天皇を擁して京都に入り、自ら征夷大将軍となって室町幕府を開き、後醍醐天皇は吉野に遷って南北朝時代という争乱期に突入(1336年)。北畠親房が「神皇正統記」で大日本は神国なりと書き起こし、吉野南朝の正統性を説き、児島高徳、新田義貞、楠親子、北畠顕家などの武将が南朝を支えたが、次第に足利軍の武力に圧倒されて南朝は衰え、足利義満の代になって南北両朝は和解し、60年に亘る動乱の幕を閉じた。
徳川時代になって、古事記にフットライトを当て、その価値を見直させたのは本居宣長(1730~1801)
である。宣長は、30年も古事記を研究史し古事記伝44巻を著したが、天照大神を宇宙の神とし、日本を神国とする徹底的ナショナリズムの信奉者であった。宣長のナショナリズムは、平田篤胤(1776~1846)、
頼山陽(1780~1832)、吉田松陰(1830~1859)らに受け継がれてゆく。一方水戸藩では、光圀の大日本史編纂などで次第に神がかり的国体論に傾いて行き、やがてペリーに鎖国の夢を破られた幕府の開国政策に反対、桜田門外の変を起こす。こうして世は尊皇攘夷→王政復古→倒幕→明治維新と動いて行く。(つづく)
日本の
ひと頃、グローバリゼーションという言葉が流行った。経済や文化などの人間の営みが国境を越えて、地球規模に広がって行く現象である。スポーツの世界では、昔からグローバリゼーションが盛んで、スキー、スケート、マラソン、サッカー、フットボ-ル、ラグビー、野球など、殆どのスポーツが各国に広がり、オリンピックや世界大会などで力と技を競い合い、各国がそれぞれ良い意味でのナショナリズムを発揮している。
これに対し、軍事、政治、経済などのナショナリズムは厄介である。こういったナショナリズムは、一国の指導者たちの政策によって変わり易いが、これには、屡々、宗教やイデオロギイや生活様式などの転倒的ナショナリズムが絡む場合が多く、国家間の激しい衝突を引き起こす。米国資本主義とイスラム原理主義の衝突は、イラク戦争に発展し、未だに終息の目途が立たない。この二つのナショナリズムの対立は、米国資本主義の価値観が、市場における自由主義と資本による利潤の収奪にあり、イスラム原理主義のそれは、富の配分による弱者救済にあるので、強大な軍事力を背景にした米国資本主義にイスラム原理主義が飲み込まれてしまう危機感に力で抵抗しているのである。
日本では安政5年、開国時に欧米列強から押し付けられた不平等条約を是正するため明治政府は、①急速な西洋化、②天皇中心の政治体制の確立により近代国家としての体制を整えると同時に軍備の拡充を図った。①に対しては、視察団の派遣、太陽暦の採用、鉄道敷設、学校制度、鹿鳴館など、②に対しては、万世一系の天皇、国家神道、憲法及び帝国議会、天皇への「忠」を最高とする国家道徳思想などを創設した。靖国神社は、国家神道と共に、このときの産物である。
こうして日本は、近代国家として不平等条約の是正に成功し、更に日清・日露の戦争に勝利して、世界列強の仲間入りを果たすこととなった。ここまでは良かったのであるが、日本はこのあと、誤ったナショナリズムに走り、遂に自らを滅ぼすに至るのである。(次回に続く)