小唄人生
信州の思い出話は、まだまだ続くのであるが、中断して小唄の話に戻る。実はこの前、小花で一杯飲んだ時、鶴村寿々紅師匠から、6月6日の江戸小唄社主催の小唄祭で「薄雲太夫」を唄って欲しいと言われ、簡単に引き受けたものの、20年位前に習った唄で殆ど忘れているので、新しく習うのと変わらないと言うことが分かった。そこでこれは大変と取り組み始めたと言う訳。この唄は、小野金次郎の作詞、佐々舟澄枝の作曲である。先ず、この唄の故事来歴から始める。
時は元禄(1688~1704)の頃、江戸は吉原、京町の三浦屋に薄雲太夫という花魁がいた。無類の猫好きで知られ、客は先ず猫のご機嫌を取らねばならなかったと言う。広重画く猫を抱いた薄雲太夫の絵が残っているところを見ると、まず間違いないことと思われる。玉という三毛猫を溺愛し、花魁道中する時はいつも玉を抱いていた。愛猫のために友禅の布団を作り、緋縮緬の首輪には金や銀の鈴を付けたと言う。ここまでは恐らくほんとの話であろう。
1775年に宝井基角が、「京町の猫通いけり揚屋町」という句っを作ったが、この句は、その頃の遊女が、みんな薄雲太夫にならって猫を飼った(猫を飼うと出世できる)という風情を詠ったものと思われる。京町という吉原の町名は、京の島原遊郭にならって付けた名前。猫は遊女の別名にも取れる。揚屋は遊女を置屋から呼んで遊ぶ処。仙台候が高尾太夫を身請けしようとした間際に病死してしまったので、代わりに薄雲太夫を身請けしたという話が残っている。三浦屋の花魁の中でのランクは、トップが高尾太夫で、次が薄雲、小紫の順だそうだ。
薄雲太夫の愛猫談には、その後色んな尾鰭が付く。殆どが作り話であるが、代表的なのは、「薄雲太夫が、日頃可愛がっている猫に魅入られたらしく、薄雲が厠へ行こうとすると、物凄い顔で裾を引っ張るので悲鳴をあげたら、三浦屋の主人が脇差を抜いて猫の首を切り落とした。すると、猫の首がロケットのように天井に飛び上がり、そこに潜んでいた毒蛇の首に噛み付いて薄雲太夫の命を救った。薄雲太夫は、死んで自分を救ってくれた猫を哀れんで、寺に猫塚を建てて弔った」というものである。また、薄雲太夫の猫が「招き猫」の元祖だという縁起話もある。
昭和40年に小野金次郎の作詞により小唄「薄雲太夫」を作曲した佐々舟澄枝(大正8年生)は、今日まで数々の新曲を発表しているが、昭和60年、佐々舟派の二世家元を襲名し、今日に至っている。