信州と私 | 八海老人日記

信州と私

 信州は私にとって、心の故郷とも言うべき地である。これから暫らくの間、蓼科、志賀高原、乗鞍、上高地、白馬など、私の青春の血を滾らせた信州の思い出について語りたいと思う。


 私が社会人になって初めて、うら若き女性達と、夢と希望に胸を膨らませて訪れた地が、信州・蓼科であった。学校を出て就職。と思ったら兵隊。幸い戦争が早く終ったから戦地へは行かずに済んだが、もう半年戦争が続いたら、この世にはいなかったであろう。敗戦で会社に復帰し、仕事ばかりじゃつまらないと仲間に誘われて日本橋室町・三井ビルの中の合唱団に入ったのが昭和21年の春、私が23歳の時であった。


 暫らくして素晴らしい友達が何人か出来て、何かというと一緒に集まったり、何処かへ出かけたりした。メンバーは、一番年上が浅沼尚(あさぬまひさし)さん、次が千葉重子さん(みんなは《おもこさん》と呼んだ)、中村キミさん、田中敏子さん、一番若いのが山田裕子さん、それに私の六人であった。勤め先はみんな同じビルの中だけど、浅沼さんは三井不動産、千葉さんは三井生命、田中さんが三井信託、中村さんと山田さんと私が三井化学だった。


 蓼科の白樺湖の畔に三井不動産の施設があった。そこは戦時中綿羊を飼うため柏原部落の農家を買い取って移築したもので、交野(かたの)さんという三井不動産の課長クラスの方が管理していた。そこを厚生寮として三井各社に開放することになり、解放前に特別に私達だけ使わせて貰えることになったので出かけていった。午後3時頃、中央線を茅野駅で降りて、未だバスも通っていない三里ほどの道を白樺湖まで歩いて行った。私にとって初めての信州の旅であった。


 蓼科の三井山荘には、その頃、交野さんご夫婦と喜太郎という十歳位の男の子の三人で住んでいた。周りに人家は無く、白樺湖の対岸、車山から降りてきたところに万仁武(まにむ)小屋という山小屋が一軒あるだけ。その小屋は、偶々迷い込んだハイカーや蓼科山の登山者を泊めてやる位の小さな小屋で、両角(もろずみ)という夫婦者と男の子が住んでいて、通称雷小屋と呼ばれていた。未だ電気が通ってなくて、夜はランプだった。客がマッチ一本つけ損なってムダにすると、マッチ一つでも三里も下の柏原まで買いに行くのだから無駄にするなと雷が落ちた。そこで雷小屋という名がついた。


 初めて泊まった蓼科の夜は、春とはいえ肌寒く、空気が澄んで夜空に満天の星がキラキラ輝いていた。交野さん心づくしの信州ワインの香りが甘く漂い、薪ストーブを囲みながら皆んな青春に酔いしれていた。

千葉さんが空を眺めて、「あっ!星が流れた!」と叫んだ。その声は、夢と希望に満ちた若さの叫びのようでであった。