日本の文化ナショナリズム
「日本の文化ナショナリズム」の著者・鈴木博士は、日本の天皇制という制度も発明されたものであると説く。日本の天皇制については、明治22年に発布された「大日本帝国憲法」第1条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」及び第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」更に第十一条「天皇は陸海軍を統帥す」などで特色付けられるが、天皇家が二つに分かれて争った南北朝時代を見ても万世一系とは言い難い。(その後は南朝を正統とする説が有力であったが、実際は殆ど北朝側の天皇が皇位を継いだ)。また第3条は、天照大神を皇祖とする国家神道との融合を意図したもの。更に明治23年、「教育勅語」が発布され、「一旦緩急あらば儀勇公に奉じ以って天壌無窮の皇運を扶翼」することを以って最高の規範とされた。かくして水ももらさぬ「天皇制」が発明された。
明治、大正、昭和の国民は、学校では、紀元節、天長節などの儀式歌や四条畷、湊川、児島高徳などの小学唱歌、或いは軍歌などを歌わせられ、教育勅語を拳々服膺して忠良なる臣民に仕立て上げられた。そして徴兵で軍隊に取られれば、軍人勅諭の「わが国の軍隊は・・・」や戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けること勿れ」で洗脳され、太平洋戦争が終るまで、「満蒙は日本の生命線」、「大東亜共栄圏」、「八紘一宇」、「神国日本」などのスローガンの下で戦場に駆り出され、その結果246万余の国民が命を捧げ靖国神社に祀られた。日本の軍事、政治、経済、思想に跨るナショナリズムがここまで来てしまった以上、欧米のナショナリズムとの衝突は、避け得なかったかもしれない。それにしても若し日本が、ボツダム宣言受諾で無条件降伏していなければ、更に大きな犠牲が出たであろう。
勿論鈴木博士は、ナショナリズム弊害についてのみ言及するのではなく、科学、技術、スポーツ、学術その他日本の伝統的文化について、世界に向かってナショナリズムを発揮するのは悪いことではないとする。
東京大学で哲学を講じたフェノロサ及びその弟子・岡倉天心は、日清・日露戦の後、日本という国は決して好戦国ではなく、高い文化ナショナリズムを持つくにであることを世界に向かってPRした。また新渡戸稲造は「武士道」を創始し、日本オリジナルの伝統的精神文化として世界に広めた。
戦後の「日本の文化ナショナリズム」についての鈴木博士の所論は、まだまだ続くのであるが、このテーマについては、この辺で私は、暫らく筆を休めることとしたい。ところで、最近、新聞やテレビを見て感ずることが幾つかある。一つは、自民・民主両党国会議員からなる議員連盟(378名)の「教育基本法改正促進委員会」における「新教育基本法案」で、教育の目的として「愛国心の涵養」が明記されない場合は、議員立法も辞さないとしているが、「愛国心」の中身が問題である。もう一つは、今から2年前、都立板橋高校の卒業式で、「君が代」の起立斉唱の強制に反対した元教諭に、3月23日、懲役8ヶ月の求刑がなされたこと。どこかが狂っている。