小唄人生
仮名手本忠臣蔵五段目、山崎街道の場の「定九郎」を唄った小唄が三っもあったなんて知らないで失敗した話を、6月12日のブログ「こうた浚い」に書いたが、7月22日(土)「胡初奈浴衣浚え」でもう一度チャレンジすることになった。三っの「定九郎」とは、一つ目、明治期の作で、昭和33年頃流行った「当った当った・・・」、二つ目、平井承知庵作詞作曲の上方小唄「五十両」、三つ目が小野金次郎作詞、中山小十郎作曲の舞踊小唄「破れ傘に」(やれがさに)である。
忠臣蔵のお芝居は、幾度か観て分かった積りでいたが、実は分かっていないことが多い。赤穂浪士の討入りが実際に起きたのは、元禄十五年十二月であるが、歌舞伎の芝居ではこれを室町時代の事とし、浅野内匠頭が塩谷判官、吉良上野介が高師直、大石内蔵助が大星由良之助などと変名が使われている。だいいち、何で仮名手本なのかというと、いろは四十七文字と討ち入りした義士の数が四十七人との数合わせ、もう一つは、芝居が出来たのが事件が起きてから四十七年目という数合わせ。しかし、本当の所は分からない。
どんなに客が少ない時でも、忠臣蔵をやれば、必ず大入りになったと言う。特に五段目の山崎街道の場は上演回数の多い場で、真っ暗闇の舞台で無言劇(だんまり)が演じられる。娘のお軽を売った金子五十両を懐に、与市兵衛が夜道を急いで帰る途中、稲むらで雨宿りする所を、追剥に落ちぶれた定九郎の白刃でばっさり殺される。懐から出た五十両を数えていう科白が「五十両」、ニッタリと思いいれ。そこへ手負猪が駆けてきて、追ってきた勘平が二つ玉(倍の大きさの弾丸)の鉄砲でズドンと一発。これが猪に当らず定九郎に命中。仕留めた獲物を勘平が闇の中で探ると、「こりゃ人!」と科白。お金の要る勘平はねこばばは悪いと知りながら五十両を握り締め一目散に逃げ帰る。科白は定九郎の「五十両」と勘平の「こりゃ人!」だけ、あとはだんまり。
「破れ傘に 黒紋付や落し差し 半身隠せど隠されぬ 身の置き所白波の 山崎街道夜働き 稲積の陰の白刃に与市兵衛 殺めて縞の皮財布 貧すりゃドンと二つ玉 猪の身代わり しょんがえ」
この 「定九郎」の小唄は、十一世市川団十郎が海老蔵時代に扮した定九郎の舞台姿を唄ったもので、蛇の目の破れ傘、黒羽二重の古小袖、白の博多帯、朱鞘大小の落し差し。この型を考えたのは初代中村仲蔵であるが、団十郎はこの型を演じて大当たりを取ったという。「破れ傘に黒紋付や落し差し半身隠せど隠されぬ身の置き所白波の」迄は、痩せ浪人でも武士のはしくれ、武張った唄い方。「夜働き」は恐ろしげに、「稲積の陰の白刃に」は、闇に光る白刃の如く物凄く、「与市兵衛」はあわれ断末魔の苦しみ、「殺めて縞の金財布」は、殺ってしまったと縞のをかける。舞踊の場合は此処で立方が金を数える所作に「五十両」と科白を入れる。あとは、「貧すりゃドンと二つ玉 猪の身代わり しょんがえ」としゃれのめす。
南伊豆紀行
伊豆下田城山城址公園のあじさいが素晴らしいと聞いたので、老妻を伴い、新宿9:35分発、スーパービュー踊り子53号で出掛けた。12時過ぎ下田駅へ着いて石挽き蕎麦で昼食。ここの蕎麦は美味しい。お天気は雨もよい。梅雨時だからしょうがない。6番乗り場でバスに乗り、あじさい公園で降りる。ここは昔、山城があって、今は城跡が市の公園になっていて、下田公園というのが正式の名前らしいが、6月末まであじさい祭りで、その間あじさい公園と呼ばれている。石畳の上り坂を歩いてゆくと、道の両側に、色とりどりあらゆる種類のあじさいが今を盛りと咲き乱れている。シーボルトが日本を去る時、おたきさんの面影を偲んで持ち帰った花。そしてまた一段と美しくなって日本に戻ってきた花。あじさいを観るとそんな思いが蘇る。
南伊豆は、若かりし頃ゴルフで熱川へはよく行ったし、会社の旅行で下田へは何回も来た。、今年の3月にも囲碁旅行でここへ来た。そういえばつい昨日、日本棋院の市ヶ谷で囲碁の認定会があり、ようやく二段をゲットしたので、いささかご機嫌である。次は三段にチャレンジだが、果たしてゲットできるかな。この次またやるだけやってみよう。
休暇村「南伊豆」で一泊。煮魚の金目鯛が美味しかった。朝眼が醒めたら雨が上がっていた。90%雨だと言うから、ウオーキングシューズは持って来なかったのに、だんだんと晴れてきたではないか。天気予報も、たまには当らないこともあるのだ。と私が云うと老妻が、私が行くときはいつも晴れるのよ、とのたまう。
予報が外れただけと言っても承知しない。くだらない話はどうでもよいと、熱海へ出て、第一ビルの地下の五和乃さんご推奨の「たしろ」で昼食。なるほど、「美味い」、「安い」、「愛想がいい」。熱海へ来たら此処に決めた。北野さんが見えたらよろしく云ってくださいと頼んでそこを出た。このあと老妻がMOA美術館を見たいと言うから案内してやって草臥れた。新幹線で5時頃帰宅。
日本古代史
日本古代史についての勉強を始めてから1年4ヶ月ほどになるが、お陰で色んな事が少しづつ判って来た様な気がする。日本古代の歴史については、まだまだ解明されていないことが多く、学問的には未成熟と言われている。考古学などの進歩で、これから段々と瞭かにされて行くことだろうが、教科書問題、靖国問題、教育基本法改正問題など、事ある毎に、「皇国史観」の亡霊が息を吹き返すのではないかと気になる。
古代史の研究が学問的に遅れている一つの原因は、古代国家成立時における偽装の問題である。日本に文字がまだ無かった頃、語り部という口伝えを職とする者達がいた。しかしそれらの者達は、権力者のサポーターであって、必ずしも真実を伝える者達ではなかった。権力者の気に入るように偽装が行われたことは想像に難くない。弥生時代には各地に有力な王国が幾つもあって、出雲王国、吉備王国、大和王国などが、勢力争いを繰り返し、最後に大和王国が覇権を握り、3~4世紀頃から漸く国家としての体制を整えて行くのであるが、律令国家が成立し文字が導入され、稗田阿礼の伝承による「古事記」が記されたのが漸く紀元712年のことであった。更にこの後「日本書紀」が公の歴史書として編纂された。その際大きな偽装が施されたのみならず、それと矛盾する文書はすべて焼却させられた。
もう一つの原因は、戦前における学問の自由への弾圧である。森鴎外が明治45年に発表した「かのように」と言う妙なタイトルの小説がある。彼はこの小説の中で、真実という壁に直面した歴史学者の苦悩を画いている。主人公は、五条秀麿という若い貴族で、帝大卒業後ベルリンに留学し、歴史学を学んで帰国後
学者として立とうとするが、記紀を読んで神話は歴史ではないことを知る。しかし、それを日本史について説くことの危険を知って苦悩する。その挙句、「かのように」の哲学に到達するという話である。
秀麿が到達した「かのように」の哲学とは、神話は歴史ではない、神は事実ではない、天皇に忠節を尽くす義務など存在しない、しかしそれを敢て言うことは、極めて危険であるから、三猿主義に徹するに限る、ということで、鴎外は秀麿の考えということにして小説に書いたのである。今考えると、欧外ともあろう者がこの自嘲とも取れる卑屈な態度はどうであろうか。しかし、その訳は、記事が長くなるので割愛するが、明治43~44年に起きた大逆事件、南北朝正閏問題など当時の社会情勢を振り返ると、鴎外の心中も分かる様な気もする。
森鴎外は、軍医少将と言う職業軍人で、しかも小説家で、娑婆っ気の多い人物だから「かのように」主義でよいかも知れないが、れっきとした歴史学者で、敢然と権力に立ち向かったのが、前にも記した津田左右吉博士であった。津田博士は鴎外より十一年下で、大正2年に「神代史の新しい研究」を刊行してから、記紀に関する新しい研究結果を次々と発表し、5,6世紀頃までの記紀の記述は偽装された部分が多いことを明らかにした。まっしぐらに真実を追究した博士に危険が降りかかってきたのは、昭和15年、「紀元は二千六百年」奉祝の年に、国家主義者・蓑田胸喜(みのだむねき)の告発により裁判所が博士と出版した岩波茂雄を起訴したことである。
政府はこれによって、博士の著書は総て発売禁止処分にした。現在、博士の著書は、一橋大学の書庫の中に眠っている。昭和17年5月に、裁判所から有罪の判決が出て、博士が禁固三ヶ月、岩波は同二ヶ月、共に執行猶予二年。判決理由は、「畏れ多くも神武天皇より仲哀天皇に至る御歴代天皇の御存在につき疑惑を抱かしむる虞ある講説を敢てし奉り、以って皇室の尊厳を冒涜する文書を著作しまたは発行した」ということであった。このような目にあった学者は津田博士一人には止まらなかった。
戦後、新憲法が出て、学問の自由は快復されたが、戦前の真実追及の遅れは取り戻せたとは云えない。それどころか、またぞろ、日本国民を危険な方向に導きかねない、おぞましき「皇国史観」が復活しそうな空気が感じられる昨今である。
小唄人生
十年ほど前、山友達のOさんから、一包みの資料が送られて来た。それは田園調布の渋沢秀雄氏のお住いから出てきたもので、長唄の稽古本、小唄の楽譜、安藤鶴夫の随筆のコピー、年賀状の束などで、どうしたのだと聞いたら、今度、渋沢家のお住いを整理することになり、不用品一山の廃棄処分を、O氏の知り合いの古道具屋が依頼された中に混じっていたもので、捨てるのも勿体無いから、何かのお役に立つかと思って送ったのだと言う。この他にも日記帳ノートが約40冊あるとのことであった。
その頃、私はまだお勤めをしていたから、その小包みを余り気にもせず、本棚に載せたまま半ば忘れていたが、昨年お勤めを辞めたのを機にブログを始めたから、これは記事のネタになるのではないかと思い出し、送られて来た資料の中身や渋沢家のことを、改めて詳しく調べることにした。
先ずパソコンで検索したら、渋沢栄一や渋沢家三代に関する情報は山ほど出てくるが、渋沢秀雄については殆ど出てこない。僅かに「渋沢家の話」というコラムに、渋沢秀雄と長男の和男についての略歴が載っている程度。これじゃ話にならないと、こんどは狙いを変えて図書館の蔵書を調べたら、渋沢秀雄が執筆している「私の履歴書・文化人3」と言うのが世田谷図書館に収蔵されていることが判った。近くの図書館へ電話して取り寄せをたのんだら、一ヶ月くらいかかるかも知れませんと言う。別に急ぐ訳でもないから、本が着いたら連絡して下さいとお願いした。
その間、他の事で世田谷美術館へ行ったついでに足を伸ばし、土地カンを求めて田園調布へ行ってみた。駅前の交番で聞いたら、年輩のお巡りさんが、十年以上前の渋沢家のお住いのあった場所や音楽家になった息子さんのことを覚えていたので感心した。世田谷図書館から取り寄せを依頼した本は、意外と早く18日の日曜日に、近くの柿木図書館から連絡が入った。早速利用カードを持って取りに行くと、このカードは1年以上使っていないからダメですと断られ、保険証を持って出直し、更新させられた。
早速渋沢秀雄執筆の「私の履歴書」のページを開けて読んだが、小唄や芸能関係の事は余り書かれていなかった。渋沢秀雄の経歴が概略判った事と奥さんが春日派の小唄の師範でお住いを稽古所にしお弟子さんを取って小唄を襲えていること、渋沢さんも偶に三味線を弾くという程度のことしか分からなかった。
「私の履歴書」で判明した渋沢秀雄氏の略歴を次に掲げる。
明治25年(1892年)10月 渋沢栄一の四男として東京日本橋兜町で生まれる。
明治34年(1901年) 5月 一家は飛鳥山へ引っ越す。
大正 6年(1917年) 3月 帝大卒業、日本興業銀行入行
大正 7年(1918年) 日本興業銀行退社、田園都市株式会社入社
大正 8年(1919年) 田園都市株式会社取締役に就任
昭和11年(1936年) 久保田万太郎に師事、俳句の指導を仰ぐ。
昭和13年(1938年) 3月 東京宝塚劇場取締役
昭和18年(1943年) 東宝株式会社取締役会長
昭和22年(1947年) 3月 東宝株式会社辞任
昭和30年(1955年) 文化放送「小唄徒然草」司会
昭和33年(1958年) ラジオ東京「邦楽つづれ錦」編集担当
昭和38年(1963年) 春日派顧問
昭和59年(1984年) 2月 死去、享年91才
多少の予備知識を得たので、Oさんから送られて来たものを、改めてひっくり返してみた。
年賀状の束:渋沢秀雄氏が亡くなった年の年賀状で、春日派の、とよ五、とよ晴、とよ勇などの名前が見ら
れる。長唄の人間国宝・杵屋佐登代、吉住小桃次、淺川玉兎、片岡市蔵などの名も見える。
長唄稽古本:「松の緑」「時致(ときむね)」外数冊
小唄譜本:杵屋弥之介編 ビクター新曲小唄集 第一集 三味線譜付小唄の文化譜が出始めた頃のもの
で、杵屋弥之介がビクターレコードから採譜した新曲10曲が収録されている。当時の新曲も今
は古典であるが、殆どが今でもよく歌われている。杵屋弥之介の手紙が着いていて珍しい。
小唄楽譜:杵屋弥之介採譜による新曲小唄15曲のガリ版刷り。今でもよく唄われており、小唄講習会で配
布されたものらしい。
小唄新聞切抜:昭和43年12月5日付、江戸小唄新聞の切抜で、10月18日、三越劇場で催された第二十
回「福美会」の記事と楽屋写真が載っている。記事を読むと、この日は出番百番の盛会で、
渋沢秀雄の糸で遠藤為春が「伽羅の香り」「主さん」を唄う特別演奏が喝采を浴びたとあり、
楽屋写真には、会主、渋沢夫妻、遠藤為春、中田末男、とよかよなどが写っている。
安藤鶴夫氏随筆「雪もよい」コピー:昭和44年4月10日発行の「風流」と言う雑誌に発表された随筆で、要
約すると、昭和43年の暮れ、数え日になった頃、菊村(初代清元菊寿太夫の未亡人で現在
の菊村家元とは無関係)という人の招集で年忘れの会が催された際、都一中始め一中節社
中の中に、遠藤為春、渋沢秀雄、田中青滋、安藤鶴夫たちがお客で呼ばれた。雪もよいの寒
い日だった。その時、田中青滋が、「都鳥」という菊寿太夫の小唄を自分の声でテープに吹き
込んだのを菊村さんに聞かせてやった。91才の菊村さんは、旦那が元気だった頃作曲した
小唄を、眼を瞑って聞いていた。客の男達の唄い回しになって、安藤鶴夫氏は、渋沢秀雄の
三味線で「伽羅の香り」とその替歌「夢の手枕」を唄った。この時一緒だった遠藤為春氏は、
翌年2月に、八十八歳で帰らぬ人となった。
今年は、渋沢秀雄氏が亡くなられてから23回忌に当る。友達が偶然に手に入れたものとは言え、折角頂いた掘り出しものだから、これを契機に大先輩の生涯を偲び、ご冥福をお祈りしたい。
囲碁
6月15日一泊の第19回囲碁旅行が、九十九里浜・「かんぽの旭宿」で催された。参加者は、世話役の矢野君、眼が不自由で身体障害者3級の太田君、何年経っても囲碁の腕が上がらない竹内君、囲碁は打たないが旅行には参加する帆足君、それに私を入れて5名。宮内、西沢、永田、赤羽根の各氏は都合が悪く不参加。
当日朝、九時半頃家を出て、バス停のある青梅街道まで歩いて列に並んでいたら、やがてバスが来たので、胸のポケットに手をやるとパスがない。ズボンのポケットに財布もない。「しまった」と、家まで取って返し、これで10分時間を損した。原因は、家内と口喧嘩をしたからで、つい持ち物を身に着けるのを忘れてしまった。お勤めしている頃は、時々やって遅刻したりしたが、お勤めを辞めてからは珍しい。喧嘩の原因は、上さんが、出かける間際に、ズボンと上着の取り合わせが悪いの、靴下の色がおかしいのと色々云うからついかっかして、「いちいちうるさい!」と怒鳴って飛び出して来たからだ。汗かいて往復して予定の電車にやっと間にあった。
荻窪から御茶ノ水まで快速、御茶ノ水で千葉行き鈍行に乗り換え、千葉についたら反対側のホームに銚子行きの電車が待っていた。それに乗って旭という駅で降りる。旭は飯岡の一つ手前で、飯岡というと浪曲や講談で有名な天保水滸伝所縁の地、飯岡助五郎親分の縄張りで、笹川繁蔵、平手造酒などを相手に大利根川原の血闘(天保15年、1844年)を展り開げた処。
旭の駅で下車し、かんぽ行きのバスに乗り込む。殆ど貸し切り。10分程で「かんぽの旭宿」に到着。チェッインまで大分時間があるので、レストランで枝豆を摘みに生ビールを一杯。チェックインしてから早速矢野君を相手に碁盤を囲む。矢野君との碁は、夕食前に二局、夕食後に局、四局打って結局二勝二敗で終った。
でも実力七段の矢野君が私の碁を二段の力は十分あると云ってくれたのは嬉しかった。
私達が碁を打っている間に、眼の不自由な太田君が、一人で10階の展望風呂へ入りに行った。ガラガラと空いていたので、これ幸いと浴槽に飛び込んだら。向こうの方から「旦那さん、ここは女湯ですよ!」と中年女性の声。慌てて飛び出してきたと報告があり大笑い。帆足君が、「俺も眼が見えない振りをして行って見ようか」などと怪しからぬことをいった!!!
日本古代史
鉄や銅を、武器や稲作に使った好戦的な部族が、北九州から攻め上がってきて、ヤマトの地に侵入し、多くの豪族達を攻め滅ぼしたり、服従させたりして、遂に王権を樹立したのは、三世紀前後であったらしいと前に書いたが、それが魏志倭人伝という中国の古い歴史書を見ると判る。その勢力は邪馬台国と言われ、幾つかの有力な豪族の集まりで、そのリーダーは、卑弥呼という女性で、新興宗教の教祖の様な存在であったらしい。天照大神は卑弥呼だという説もある。こうして出現したヤマト政権も、卑弥呼の死後、反乱が起きたりして存立を脅かされた時期もあったが、ヤマトタケルなどが現れて瓦解を免れた。
八世紀になって、天皇の命により、初めて古事記、日本書紀などの史書が編纂されたとき、この国は、天から神が降ってきて、千年も前の神代の頃から、神の子孫であ天皇家が治めてきたのだとサバを読んだ。近世になって、色々の文献や考古学的調査の結果、ウソが段々ばれて、ヤマト政権が中央集権的体制を確立するようになったのは、漸く三世紀後半の頃らしいということが判ってきた。「トヨアシハラノチエホアキノミズホノクニハ コレワガウミノコノキミタルベキノクニナリ イマシスメミマユキテシラセ サキクマセ」と作文して、神からのメッセージとした。その頃の日本の国はアキツ(トンボ)シマと呼ばれた。とんぼが一杯いたらしい。
五世紀から六世紀にかけて、天皇をないがしろにして、各地の豪族達が互いに争い、天皇家の系譜が大いに乱れた時期があった。その頃、大伴、物部、曽我などの軍事族によって担ぎ出されたのが継体天皇である。継体天皇には謎が多いが、出自は、百済からの渡来系の息長(おきなが)族である。越(北陸)から近江にかけて大きな勢力を持っていた。仁賢天皇の娘の婿に入ったことにより、天皇家の血筋に連なる権利を手に入れたという。
継体21年(西暦527年)、北九州の豪族、磐井がヤマト政権に対して戦争を仕掛けてくる。磐井は新羅の力をバックにして百済系のヤマト政権を潰そうとしたらしい。磐井対ヤマトの戦争は、朝鮮半島の政治情勢が絡んでいたようだ。結局、大伴、物部、曽我などの軍事族の結束によってヤマト側の勝利に終わり、磐井の主は殺された。それ以来、ヤマト政権内では、曽我の勢力が天皇を凌ぐほど強くなり、やがて壬申の乱へと動いて行く。
小唄人生
6月10日(土)午後二時から、新宿の堀川で催された蓼静奈美師匠一門のゆかた浚いにゲストとして招かれた。私を入れて天声会の小唄仲間が十人ばかり参加した。静奈美さんの会には、昨年のゆかた浚いから呼んで頂いているが、師匠始め皆さん気さくで肩の凝らない楽しい会である。昨年の会場は、神楽坂の鰻割烹・志満金だったが、今年のお弾き初めから、新宿の堀川でやるようになった。
当日、私の出し物、平田環さんの唄・辰巳の左褄の三味線を弾かせて貰うのと、室橋さんの糸で青いガス灯を私が唄うのが捨番で、本番は、定九郎と逢うは別れを会主の糸で唄わせて貰うことになっていた。捨番の辰巳左褄の三味線は、暗譜が間に合わず、譜面を舞台に置いてそれを見ながら弾いたが、歳のせいで、眼鏡を掛けても細かい音符がよく見えず、所々飛ばしてしまってお粗末であった。
それよりも大失態は、本番の定九郎。忠臣蔵五段目の小唄が三っつあるなんて、夢にも思わなかった。ぶっけ本番だけど何とかなるだろうと、前引きを聞いて勢いよく唄いだそうとしたら、三味線が全然違う。「アレッ音が違いますよ」と言ったら、「五十両じゃないの」って言うから、「違います。破れ傘です」と言って譜を見せたら、こりゃ駄目だ、というので代わりに初雪を唄ってお茶を濁したら、師匠弾き終わって「オー寒い」
だって。そしたら世話役の人が、「冷房止めますか」って言うもんだから師匠の一言「ジョークの分からない人ね!」で大笑い。後で木村菊太郎氏の「芝居小唄」で調べたら、忠臣蔵五段目の小唄は、「当った、当った」、「五十両」、「破れ傘(やれがさ)に」の三っつがあることが分かった。勉強不足。
小唄のお浚いが終って宴会。宴酣の頃、師匠からゲストに、そろそろ何か出してと声が掛かる。師匠は人使いが荒く、ゲストは余興をやらせる為に呼んだと云わぬばかり。それではと覚悟を決め三味線抱えて舞台に上がり、女性に些か失礼な唄を弾き語りでやらせてもらいますと前口上を述べ、長生松次さん作詞作曲の「髪は黒髪富士額 色は白くて餅肌で 眼元涼しい細面 花の蕾の口元に 零れる笑みの艶やかさ
立てば芍薬坐ればぼたんよ 歩く姿は百合の花 情け深くて辛抱強く 頭が良くて芸達者 お前さんのためならなんのその 使っておくれとポンと出す そんな女がいるわきゃない マズスクナイネ」と唄ってやったら、前列で聞いていた師匠が、「ここにいるよ」と叫んだので爆笑。あとのゲストと交替し、室橋氏の「相撲甚句」、山田氏の立方で「心して」の小唄振りで最後を飾ってお開きとなった。
日本古代史
古事記が編纂されたのは西暦712年で、そんなに古いことではない。それ以来日本の歴史は、神代という神話の時代から始まって、西暦紀元前660年にヤマト部族が王権を確立し、カムヤマトイワレヒコが初代天皇(神武天皇)として橿原で即位したことになっていた。しかし、神武天皇の即位は神話時代の話で、真実性に乏しい。私が尊敬する津田左右吉博士は、戦前、神話は歴史ではないと主張されたが政府によって退けられ、著書は発禁処分にされた。第一、西暦紀元前660年頃は、まだ縄文時代で、日本各地は混沌としており、天皇が即位するなど考えられない頃である。
ヤマト地方には、朝鮮半島から、有力な部族が渡って来て、次第に勢力を広げて行ったことは前にも書いた。 その後、九州から、銅や鉄を駆使する戦闘的な部族がヤマトに進入し、出雲など周辺諸国を呑み込んで王権を確立したのは、3世紀前後の頃と考えられるが、これが天皇家の先祖らしい。しかし、古事記では欠史八代と言われ、崇神天皇の頃までは、天皇家の系図だけで、何の史実も残されていない。多分、十代位までの天皇の系図は後から作られたものであろう。
私達が学校で教わった日本の歴史は、天孫降臨や神武天皇即位などの神話から始まり、中学生だった昭和15年は日本紀元2600年と教えられた。戦後修正されたが、それまで国民はすっかり騙されていた訳である。その上、皇国史観、神国思想に洗脳され、八紘一宇の人柱にされた。一体、いつになったら真実の歴史を教えられる様になるのかしらと思う。
今また、教育基本法改正を機に、神の国・日本を唱える森前総理を頂点とする自民党の文教族や神道政治連盟議員団の面々は、愛国心の涵養を教育目標に掲げようと躍起となっている。日本は神の国などという考えを抹殺しないと、また日本国民は大変な処へ連れてゆかれないとも限らない。日本は神の国だから大切にするのではない。 日本は世界に比類のない優れた文化を持っているから大切に思うのである。次の世代を背負う若者達の為に心配する訳である。
小唄人生
江戸小唄友の会主催、江戸小唄社後援、東京証券ホールで催された本年度小唄祭りが昨日無事終了した。会場入口に、先々月21日に亡くなられた江戸小唄社・安田社長の遺影が飾られ、小唄祭りの賑わいを静に見守っておられるように思われた。何といっても52年間に亘り、月間新聞「江戸小唄」の発行に従事され、小唄界の発展に貢献された功績は忘れることは出来ない。
江戸小唄社が磯部亨社長によって創立され、小唄新聞が創刊された昭和29年頃は、まさに戦後の江戸小唄黄金時代の幕開けであった。米国を震撼させた朝鮮戦争が終息し、日本が奇跡的高度成長の一歩を踏み出した時で、名のある会社の社員には、囲碁、ゴルフ、小唄が必須科目とされ、三ゴと言われた。蓼、春日はじめ各派の家元は、溢れんばかりのお弟子を抱え、箱根や熱海などへの小唄旅行の時は、一列車を借切り、旅館は貸切という有様であった。
あれから50年、小唄界はすっかり落ち着いていまい、三ゴ時代は、昔の夢と化した。50年間、小唄と共に生きて来られた安田社長が、死に臨んで、月刊・江戸小唄の役割は終ったと、廃刊にされた気持も分かるような気もする。しかし昨日の小唄祭りの賑わいを見ていると、小唄界もまだまだ捨てたものではないと思う。誰か安田社長の志をついで、小唄界に光を灯してくれくれる人はいないものかと思う。
昨日の小唄祭りは、小唄友の会のメンバーの出演で67番が演奏され、その他に紅白小唄合戦、男性メンバーによる会歌・友千鳥、女性メンバーによるご祝儀・高砂、演芸コーナーでは松村初太郎氏の声色・新内流し、山田脩司氏の立方で小唄振り・鶴次郎などが演じられた。私は紅白小唄合戦の5人の男性チームの一人として出演し、「薄雲太夫」と「そんな女」を唄ったが、お陰様で男性チームが優勝を飾ることが出来た。
日本古代史
日本古代の神社と神道について考えて見たい。インターネットで調べると、神道とは日本人の民族宗教とあるだけで、経典も無ければ教祖もいない。梅原猛の説によれば、古代日本人にとって、神は、山、川、太陽、風、雷などの自然現象から、農耕、漁業、精錬、製織、酒造などの営みや、部族の先祖、偉人などの霊魂など、何でも人間の力を超えたものが総て神であり、それらの神々は、怨霊となって屡々人に害を及ぼす。そのため、供物を捧げ、祭りの儀式をして鎮めないと、崇りが恐ろしい。
古代日本人は、神の怨霊を鎮めるため、仏教寺院を見習い、立派な社を作って神を祀った。これが神社である。神社には巫女が奉仕し、儀式を司った。古代日本人は、怨霊の崇りを最も恐れた。天災の時など、屡々生きた人間が人身御供にされた。雷が鳴ると、天神の崇りだと怖がり、「桑原々々」と言って他所へ行くよう祈った。天神は、讒言で大宰府に流された菅原道真が祀られていて、「桑原」というのは道真の知行地で、そこだけは雷が落ちなかったという。
東京・大手町の元大蔵省の跡地に「将門塚」というのがある。1060年ほど前の平将門の首塚である。これを動かすと崇りがあると言い伝えられており、どんな区画整理があっても、頑として動かない。古代日本人の信仰が現代に生きている証拠。怨霊鎮魂の思想が、古代から現代に至るまで、日本文化の歴史にどれほど多くの影響を与えてきたことだろうか。例えば、能楽などは、神に奉納する猿楽から始まっている。
神社にお参りするのは、本来、怨霊の崇りを鎮め、それから逃れようとする儀式である。儀式は先ず供物を捧げる。今は供物の代わりにお賽銭を上げる。それから榊の枝に御幣を付けたものを捧げる。これを玉串という。玉串は怨霊の怒りを和らげる意味を持つ。小泉首相の靖国参りは、「国のため命を捧げた者たちの霊を悼み、不戦の誓いをするためで、他人に兎や角いわれることはない」、と言うのはとんだお門違い。靖国に祀ってあるのは、万世一系の天皇家の弥栄(いやさか)を信じて命を捨てた怨霊たちで、不戦の誓いなどと言ったらどんな崇りがあるか知れない。そっとして置くに限る。心の問題だと言うなら靖国へ行かなくても、どこで祈ってもいい理屈。