小唄人生
十年ほど前、山友達のOさんから、一包みの資料が送られて来た。それは田園調布の渋沢秀雄氏のお住いから出てきたもので、長唄の稽古本、小唄の楽譜、安藤鶴夫の随筆のコピー、年賀状の束などで、どうしたのだと聞いたら、今度、渋沢家のお住いを整理することになり、不用品一山の廃棄処分を、O氏の知り合いの古道具屋が依頼された中に混じっていたもので、捨てるのも勿体無いから、何かのお役に立つかと思って送ったのだと言う。この他にも日記帳ノートが約40冊あるとのことであった。
その頃、私はまだお勤めをしていたから、その小包みを余り気にもせず、本棚に載せたまま半ば忘れていたが、昨年お勤めを辞めたのを機にブログを始めたから、これは記事のネタになるのではないかと思い出し、送られて来た資料の中身や渋沢家のことを、改めて詳しく調べることにした。
先ずパソコンで検索したら、渋沢栄一や渋沢家三代に関する情報は山ほど出てくるが、渋沢秀雄については殆ど出てこない。僅かに「渋沢家の話」というコラムに、渋沢秀雄と長男の和男についての略歴が載っている程度。これじゃ話にならないと、こんどは狙いを変えて図書館の蔵書を調べたら、渋沢秀雄が執筆している「私の履歴書・文化人3」と言うのが世田谷図書館に収蔵されていることが判った。近くの図書館へ電話して取り寄せをたのんだら、一ヶ月くらいかかるかも知れませんと言う。別に急ぐ訳でもないから、本が着いたら連絡して下さいとお願いした。
その間、他の事で世田谷美術館へ行ったついでに足を伸ばし、土地カンを求めて田園調布へ行ってみた。駅前の交番で聞いたら、年輩のお巡りさんが、十年以上前の渋沢家のお住いのあった場所や音楽家になった息子さんのことを覚えていたので感心した。世田谷図書館から取り寄せを依頼した本は、意外と早く18日の日曜日に、近くの柿木図書館から連絡が入った。早速利用カードを持って取りに行くと、このカードは1年以上使っていないからダメですと断られ、保険証を持って出直し、更新させられた。
早速渋沢秀雄執筆の「私の履歴書」のページを開けて読んだが、小唄や芸能関係の事は余り書かれていなかった。渋沢秀雄の経歴が概略判った事と奥さんが春日派の小唄の師範でお住いを稽古所にしお弟子さんを取って小唄を襲えていること、渋沢さんも偶に三味線を弾くという程度のことしか分からなかった。
「私の履歴書」で判明した渋沢秀雄氏の略歴を次に掲げる。
明治25年(1892年)10月 渋沢栄一の四男として東京日本橋兜町で生まれる。
明治34年(1901年) 5月 一家は飛鳥山へ引っ越す。
大正 6年(1917年) 3月 帝大卒業、日本興業銀行入行
大正 7年(1918年) 日本興業銀行退社、田園都市株式会社入社
大正 8年(1919年) 田園都市株式会社取締役に就任
昭和11年(1936年) 久保田万太郎に師事、俳句の指導を仰ぐ。
昭和13年(1938年) 3月 東京宝塚劇場取締役
昭和18年(1943年) 東宝株式会社取締役会長
昭和22年(1947年) 3月 東宝株式会社辞任
昭和30年(1955年) 文化放送「小唄徒然草」司会
昭和33年(1958年) ラジオ東京「邦楽つづれ錦」編集担当
昭和38年(1963年) 春日派顧問
昭和59年(1984年) 2月 死去、享年91才
多少の予備知識を得たので、Oさんから送られて来たものを、改めてひっくり返してみた。
年賀状の束:渋沢秀雄氏が亡くなった年の年賀状で、春日派の、とよ五、とよ晴、とよ勇などの名前が見ら
れる。長唄の人間国宝・杵屋佐登代、吉住小桃次、淺川玉兎、片岡市蔵などの名も見える。
長唄稽古本:「松の緑」「時致(ときむね)」外数冊
小唄譜本:杵屋弥之介編 ビクター新曲小唄集 第一集 三味線譜付小唄の文化譜が出始めた頃のもの
で、杵屋弥之介がビクターレコードから採譜した新曲10曲が収録されている。当時の新曲も今
は古典であるが、殆どが今でもよく歌われている。杵屋弥之介の手紙が着いていて珍しい。
小唄楽譜:杵屋弥之介採譜による新曲小唄15曲のガリ版刷り。今でもよく唄われており、小唄講習会で配
布されたものらしい。
小唄新聞切抜:昭和43年12月5日付、江戸小唄新聞の切抜で、10月18日、三越劇場で催された第二十
回「福美会」の記事と楽屋写真が載っている。記事を読むと、この日は出番百番の盛会で、
渋沢秀雄の糸で遠藤為春が「伽羅の香り」「主さん」を唄う特別演奏が喝采を浴びたとあり、
楽屋写真には、会主、渋沢夫妻、遠藤為春、中田末男、とよかよなどが写っている。
安藤鶴夫氏随筆「雪もよい」コピー:昭和44年4月10日発行の「風流」と言う雑誌に発表された随筆で、要
約すると、昭和43年の暮れ、数え日になった頃、菊村(初代清元菊寿太夫の未亡人で現在
の菊村家元とは無関係)という人の招集で年忘れの会が催された際、都一中始め一中節社
中の中に、遠藤為春、渋沢秀雄、田中青滋、安藤鶴夫たちがお客で呼ばれた。雪もよいの寒
い日だった。その時、田中青滋が、「都鳥」という菊寿太夫の小唄を自分の声でテープに吹き
込んだのを菊村さんに聞かせてやった。91才の菊村さんは、旦那が元気だった頃作曲した
小唄を、眼を瞑って聞いていた。客の男達の唄い回しになって、安藤鶴夫氏は、渋沢秀雄の
三味線で「伽羅の香り」とその替歌「夢の手枕」を唄った。この時一緒だった遠藤為春氏は、
翌年2月に、八十八歳で帰らぬ人となった。
今年は、渋沢秀雄氏が亡くなられてから23回忌に当る。友達が偶然に手に入れたものとは言え、折角頂いた掘り出しものだから、これを契機に大先輩の生涯を偲び、ご冥福をお祈りしたい。