小唄人生
一昨日午後一時から、神楽坂・志満金で、佐々舟洋さんの洋舟会、鶴村寿々豊さんの寿々豊会合同の浴衣会が催され、私もゲストで参加させてもらった。私と寿々豊さんとは長いお付き合いで、私が小唄というものを習い始めた頃、大学のクラスメートで一番の親友であった白井という男が、私より小唄は先輩で、私が小唄にのめり込んで行ったのも、多分にその男の影響があったと思われる。白井君の小唄の師匠は、鶴村寿々敏さんといって、鶴村派家元・寿々さんの一番弟子だった人で、寿々豊さんはまた寿々敏さんの一番弟子だった。私も白井君との繫がりで、寿々敏さんの小唄の会によくゲストで出させてもらった。
白井君が七年前癌で亡くなり、その後寿々敏さんも亡くなって、寿々豊さんも独立したが、寿々豊さんの一番弟子の斎藤さんという人も病気で小唄を止めてしまったので、寿々豊さんも寂しく思っておられるだろうが、なんとか頑張って師匠を続けておられる。私が10月の三越劇場での夜雨会に出られることになったのも、元々斎藤さんと寿々豊さんのコンビで出演される筈だったのが、斎藤さんが出られなくなったので、私にお鉢が廻ってきたという訳で、これも白井君からの縁ということになるのだろうか。
洋舟会、寿々豊会合同の浴衣会に、天声会から十人ほどゲスト出演したが、その中で印象に残ったのは、トリを唄われたKさん唄である。曲目は「サングラス」と「瀬を早やみ」で、どちらも久保田万太郎作詞、山田抄太郎作曲で、この内サングラスは、私も唄ってみたいと思っていた曲であるが、この唄には、次のようなエピソードがある。
昭和36年4月、万太郎が癌の疑いで慶応病院に入院した時、愛人(夫人とは別居)の一子(かずこ)は、泣き顔を人に見られたくなくて、何時もサングラスを掛けていた。癌の疑いが晴れて退院する時、初めて万太郎にそのことを打ち明けた。一子の真情に打たれて作詞したのがこの「サングラス」という唄であった。これに山田抄太郎が絶妙な曲付けをした。この曲を翌年5月、新橋演舞場で、新派・花柳章太郎の恩師・喜多村の三回忌の追善舞台となった万太郎作・演出による「遅ざくら」の幕切れの場面で、唄・佐橋章子、糸・三升延でこの唄を聴かせながら、独り花道を去って行く章太郎の演技が実に素晴らしかったという。万太郎の愛人・一子は、この年の12月、蜘蛛幕下出血で世を去り、万太郎も翌38年5月、お寿司屋で食べた赤貝が喉に詰まり窒息して死んだ。
参考までにサングラスの歌詞を記す。「サングラス掛けもこそすれ沖の石 乾く日もなきわが涙 人に知られじ悟られじ 掛けもこそすれサングラス」。この中の、「沖の石」というのは、百人一首に出てくる「わが袖は 潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」からの「沖の石」で乾くと言う言葉の掛詞。
日本古代史
7月11日のブログに、日本における文字の始まりについて書いたが、気がついてみると文字の前に言葉があった。日本の言葉は、一体何処から来たのだろうか。これは、民族の発生・移動と密接な関係がある。何万年前か見当も付かないが、日本列島の大まかな勢力分布として、始めはアイヌのような北方系の人種が、先住民族としてはびこっていたが、後から南方系の民族がやって来て、アイヌなどを北のほうへ追い払い、日本を支配するようになったと考えられる。天孫降臨の神話はその辺から源を発しているようだ。
南方から日本へ辿りつくルートは、沖縄方面から、中国大陸から、朝鮮半島経由など、色々考えられる。恐らく、何万年かの間に、色んな部族が、より豊な土地を求めて移動や混合を繰り返している内に、言葉の分化、統合が進み、次第に部族特有の言葉が出来上がって来たものであろう。日本語が何処から来たかについては、比較言語学、民俗学、人類学などの学説によっていろいろな説があるが、まだ定説と言うものはない。しかし、世界の中でも独特な日本語というものが、何処からか特定の部族と共にやって来て、日本列島の中で培われてきたということは事実である。勿論、アイヌ語、韓国語、中国語などからの影響は否定できないが、基本的なところが、これらの言語と異なるのである。
現在の所、日本語の始まりについては、比較言語学上の最も新しい学説として、日本語に最も近い同系語は、南インドのタミル語で、縄文時代の晩期の頃(紀元前約三千年)、稲作文化と共に北九州に渡ってきたらしい。貝や魚や獣それに木の実などを食べて暮らすのに比べ、粟や稗や米などを栽培して暮す方が人口増加率が遥かに高く、その上金属機器や武具などで軍事力も勝っており、次第に大和地方に侵入して行ったものと考えられる。また、古代タミル人は、五七五七七のリズムを持ち、万葉集の4~5倍のヴォリュームのある古代歌謡集を有していたと言う。これが日本の万葉集の原型になったのではないかと思う。
これから先は学説ではなく、私の勝手な空想に過ぎないが、紀元前五千年、かの有名なアーリア人種(ゲルマン人)のヨーロッパからインドへの民族大移動の圧迫で追われたタミル人が、遥かモンゴルや中国を経て、二~三千年の間に日本にまで辿りつき、日本人の先祖になったのではないだろうか。因みに、モンゴル語もタミル語と同系で、顔付も日本人とよく似ており、日本の鳥居によく似たものも残っていると言う。朝青龍などモンゴル人の相撲取が日本人とあまり変わらないのは、もともと同系だったのではないか!!!
小唄人生
8月10日午後5時よりという第14回室町小唄会のご案内が往復はがきで来た。早速返信はがきの出席に丸を付けて、演目候補に「大井川」「与三郎」「湯上りに」「ひょんなことから」と四つ書いて出した。糸方の飯島ひろ菊さんと相談して、この中から出し物を決めていただくことになる。従ってどれが選ばれるか、連絡があるまで判らない。この中の「大井川」については、芝居は観たことはないが、小中学生の頃、父がレコードが好きで、浪花節、長唄、義太夫、流行歌など集めた中に「朝顔日記」の義太夫が入っていたので、浄瑠璃としては耳慣れしている記憶がある。
例によって、木村菊太郎氏の「芝居小唄」を開いてみた。名題「生写朝顔話」(しょううつしあさがおにっき)という時代世話物。芸州岩戸藩家老の一人娘・深雪は、乳母と宇治の蛍狩りに行き、一人の若侍に出会って恋に落ちる。若侍の名は、宮城野阿曽次郎、九州大内家の家臣で、学問修行のため京へ来ている。阿曽次郎は、金地に朝顔の絵を描いた扇子に自分の想いを和歌で書いて深雪に与える。それから三ヵ月後、深雪は、父と共に国許へ帰らなければならなくなり、泣く泣く阿曽次郎と別れる。
阿曽次郎を慕う深雪は、父の奨める大内家の侍・駒沢次郎左衛門との縁談を嫌って家出をする。ところがこの駒沢こそ、叔父の養子となって駒沢家の家督を継ぎ、改名をした阿曽次郎その人だったのである。その事情を知らない深雪の悲劇であった。知らぬ土地を彷徨う深雪は、苦労のため失明する。阿曽次郎は、東海道・三島の宿で、失明の門付けに出会い、それが深雪だと気付く。しかし大切な公務中のため名乗ることが出来ず、朝顔の歌と本名を記した扇に、眼病の霊薬を添え、これを宿の亭主に託して立ち去る。
後で阿曽次郎と知った深雪は、必死で追いかけるが、生憎の長雨による川止めのため、大井川が渡れない。二度と会えないと川に身を投げて死のうとするのを忠僕・関助に止められ、宿の亭主(旧家臣)の手厚い看護と阿曽次郎が残していった霊薬が効いて眼も見えるようになる。阿曽次郎とも再会し結ばれハッピイエンド。多くの悲劇を生んだ東海道・大井川の川止めは雨で75㎝以上の水嵩になると渡ることが禁止された。一月近くも止められることがあった。当時の川柳に「きつい時化 島田金谷は 人だらけ」。
小唄は、安間愛二郎と言う人の作詞で、「思うこと儘ならぬこそ浮世は闇か 一とせ宇治の蛍狩りに 焦がれ初めたるその人に 現在あいはあいながら 知るに由無き目無し鳥 エーエ天道様 聞こえませぬわいな 情け嵐と降る雨に 隔てられたる大井川 恋も命も哀れ川留め」。これを葵 寿と代という人が曲付けしたのを、竹苑せき家元が唄っているテープがある。作曲もいゝし唄も素晴らしい。然しこの唄は、木村菊太郎氏の「芝居小唄」にも「昭和小唄」にも載っていない。小唄大全の「千草」に歌詞が載っているだけ。こんないい唄はもっと唄われてもいいのではないかと思う。
日本古代史
「日本書紀」の中に出てくる話。第十一代垂仁天皇の御代、大和の当麻(たぎま)と言うところに大層強い男がいて、自分と相撲して勝てる男がいたら会って見たいものだ、と周囲に吹聴していると言う話が天皇の耳に入った。すると天皇は、「当麻蹴速(くえはや)の噂なら私も聞いている。ほんとうにこれと互角に闘える男はいないのか」と言われたそうな。
すると臣下の一人が進み出て、「出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)という勇気のある強い男がいます。これを召し出して相撲を取らせては如何でしょう」というので、即日、出雲から呼んでその日のうちに勝負をさせた。二人は激しい蹴り合いになり、遂に宿禰が蹴速の肋骨や腰骨を折り砕いて殺してしまった。野見宿禰はこの縁で帝に仕え、蹴速の領地は全部没収され宿禰に与えられた。時に垂仁天皇七年の七月七日のことで、これが日本における相撲の始まりとされている。
この話は、野見宿禰を相撲の神様にして拝んでいる日本相撲協会には悪いが、全くの作り話である。だいいち、垂仁天皇七年というと、紀元前三十二年で、その頃まだ日本に暦は無かった。暦が中国から入ってきたのは六世紀末の頃。折口信夫と言う人の説によれば、相撲の起源は、民俗劇からだという。悪霊が村人を苦しめるので、村人の中から力の強いものが出てきて悪霊をねじ伏せる、といったもので、舞踊劇みたいなものだったかも知れないが当にはならない。然し、起源640年、皇極天皇(女帝)の代に、宮廷で天覧相撲が催されてという記録が残っているから、その頃、相撲は結構人気があったものと見える。
野見宿禰が当麻蹴速を相撲で蹴殺したという話を伝承したのは土師連(はじのむらじ)の一族である。土師氏は代々宮廷の喪葬を司る氏族で、野見宿禰の子孫に当る。野見宿禰は出雲の豪族の出で、この後に出た竹内宿禰(たけのうちのすくね)は、第十三代成務天皇から第十六代仁徳天皇まで仕え、模範的臣下の象徴と言われた。野見宿禰が当麻蹴速を蹴殺したという話の真相は、出雲の豪族であった野見宿禰が大和の当麻氏の土地を力ずくで奪い取った話を粉飾したものであろう。
小唄人生
小唄の習い始めの頃、新橋四丁目の第一京浜に面した辺りに、ハモニカ横丁みたいな酒小路(ささこうじ)という飲み屋街があって、そこへよく呑みに行った。バラックに毛が生えたような小さな店が並んでいて、その中にお浜さんのお店があった。お浜さんは、その頃もう八十近い芸者上がりで、小唄の師匠をしていた。お店で三味線を弾いてくれて、小唄や都々逸やさのさなどを教えてくれた。「岡惚れしたのは私が先よ 二人が中に置炬燵 手出ししたのは主が先」というアンコ入り都々逸はお浜さんが教えてくれたものである。
お浜さんの店を紹介してくれたのは、Nさんといって、もう亡くなってから二十年以上になるが、建設業務の応援のため北海道から転勤してきて、上司から奨められて小唄を習い、無類の酒好きであった。私とは馬が合うというか、安い店、焼き鳥の旨い店など、色んな飲み屋を教えてくれた。私が小唄を始めたと聞いて、すぐお浜さんの店へ連れて行ってくれた。Nさんはお浜さんの小唄の弟子で、毎週水曜日、お店の二階でお稽古を付けてもらっていた。大人が一人やっと足が伸ばせるほどの広さで、立つと天井に頭がぶつかりそうな二階だった。そんな所でも、差し向かいで、結構乙なもんだよ、などと言いながら通っていた。
私は、お浜さんとは違う師匠に習っていたが、一度お浜さんに頼まれて、日本橋三越の前にあった第一證券ホールの小唄会にNさんと一緒に出さしてもらったことがある。ゴルフもNさんの奨めで新千葉カントリーのメンバーになり、ゴルフの帰りによく麻雀をやった。Nさんが急死したのは、昭和六十年前後だったと思うが、新年の初出社の翌日だった。前日の1月4日は、社長の挨拶を聞いた後、祝い酒を早々に切り上げ、麻雀屋へ駆け込むのがしきたりで、私が麻雀屋へ着くと隣りのテーブルにNさんが一人ぽつんといた。私のテーブルのメンバーも間もなく集まって麻雀が始まった。私達のテーブルが終了したのは九時過ぎで、Nさんたちのテーブルはまだやっていた。
Nさんの急死を知ったのは、会社の同僚から掛かってきた電話からだった。朝起きて来ないので奥さんが起こしに行ったら布団の中で冷たくなっていたという。夜中に心臓が止まってしまったらしい。お通夜にも告別式にも出かけていった。奥さんが呆然としていた。告別式にはお浜さんも来ていた。大晦日の前日、お浜さんのところへNさんが年末の挨拶に来たそうだ。そのときNさんが「長々お世話になりました」って言うから、あんた小唄辞めるのって聞いたら、そうじゃありませんというけど気になっていたんだそうだ。運命の神がNさんの命運がないのを知っていてそんな挨拶を言わせたに違いない。その後お浜さんは、時々Nさんの夢を見たという。「Nさんが私の髪の毛を引っ張るんだよ」と、お浜さんも暫らくNさんの亡霊に悩まされていたようだった。
日本古代史
古代日本人が、まだ文字というものを知らなかった時代、即ち縄文時代から弥生時代の中頃までは語り言葉が総てで、ムラの言い伝えや生活のノウハウや首長の命令規則などは総て言葉で伝承伝達された。中国で漢字が発明されたのが、紀元前1500年頃とされているが、形、音、意味の三要素からなる漢字は、古代中国人の偉大な発明の一つといわれている。文字の発明によって初めて大量の情報蓄積が可能となり、文明の発達に大きく貢献するところとなった。
その漢字が日本に齎されたのは、弥生時代の頃である。朝鮮半島を経由し、中国との交流が盛んになるにつれ、多くの銅鏡や刀剣などが渡来し、そこに書かれている銘文などにより、次第に漢字を眼にすることが多くなった。その上、初期の渡来人の多くは、漢字を読み書きできるエリート達で、古代日本の知識人たちも、次第に教養として、または外交上の必要に迫られて、漢字を読み書きできるようになっていったと想像される。
百済を経由して日本に仏教が伝来したのが六世紀半ばであるが、日本で最古の歌集・万葉集が編纂されたのが七世紀、古事記、日本書紀などの歴史書が始めて作られたのが八世紀で、これらは総て漢字で作られた。万葉集や記紀が漢字によって書かれたといっても、漢文で書かれたわけではない。漢字を使って日本語で書かれたのである。漢字の使い方は、音だけ借りたものを音仮名、意味を借りたものを訓仮名といゝ、所謂万葉仮名というものが出現した。山上憶良の「銀母 金母玉母 奈爾世武爾・・・」は、「しろがねも くがねもたまも なにせむに・・・」と読む。この場合、銀(しろがね)、金(くがね)、玉(たま)は訓仮名で、あとは音仮名である。
歴史書や風土記などで、地名や人の名など頻繁に出てくる言葉の標記を簡略にするため、九世紀、奈良時代の頃、片仮名が発明され、更に十世紀、平安時代になると平仮名が一般化するようになる。片仮名は漢字の一部を取って記号化したもので、平仮名は漢字の一字を崩して記号化したしたものである。何れも外来文化を器用に自分のものにする日本人の特質を現していると思う。
古代日本において仏教、儒教、中国の歴史書など漢語による教養が普及するにつれ、日本語の中に訓読みや漢字読みによる漢語の語彙が増えてゆき、十世紀頃には、漢字の音又は訓読み+平仮名という現在も続いている日本語の書き方になった。そして十一世紀になると、日本が世界に誇る古典文学作品、紫式部の「源氏物語」が出現する。
小唄人生
小野金次郎の作詞、中山小十郎作曲の歌舞伎小唄・曽根崎心中を、今年十月、三越劇場での夜雨会で唄わせて貰えることになった。この小唄は、近松門左衛門の心中世話物の最初の作、元禄十六年(1703年)五月、大阪竹本座で初演された人形浄瑠璃「曽根崎心中」を題材としたものである。この芝居は、久しく上演されなかったが、昭和二十八年八月、新橋演舞場で、二世・中村雁冶郎の徳兵衛、扇雀のお初という父子の顔ぶれで上演、大当たりを取った。
芝居は、大阪の醤油問屋・平野屋の手代、徳兵衛と、北の新地の天満屋の遊女・お初の心中物語で、徳兵衛は二十五、お初は十九の共に厄年であったという。七つの刻の鐘(朝四時)を聞き終わったら心中しようと誓い合い、六つまで聞いて、残る一つが今生の聞き納めと、曽根崎天神の暗い森へ急ぐ道行きの情景を唄ったもの。
多くの小唄の作詞を手がけ、作詞家として定評のある小野金次郎の曽根崎の作詞は、「曽根崎や 七つの鐘を六つ聞いて 茜に染むる比翼紋 浮名をお初徳兵衛が 心中沙汰と謳わせて 一足づつに消えてゆく 暁近き霜の身の果」というもので、流れるような美しい詞で綴られている。(比翼紋:恋人同士の紋を合わせて一つの紋にしたもの。当時これが流行った。)
曽根崎心中の小唄は、幾つかある中で代表的なものは二つ。一つは上方で作られた平井承知庵作詞作曲の「この世の名残 夜の名残・・・」、もう一つは上に掲げた小野金次郎作詞、中山小十郎作曲のものである。筆者は、平井承知庵のものは聞いた事が無いが、小唄習い始めの頃、今は亡き蓼胡満喜師匠が唄って、当時のベストセラーになった中山小十郎の曽根崎は、三味線の節付が素晴らしく、耳に蛸が出来るほど聞いた記憶がある。今度三越劇場の大舞台でこの唄を唄わせて貰えるとは、小唄冥利に尽きることと言わねばなるまい。
日本古代史
私達が学校の歴史の時間で、仁徳天皇の御歌として教わった「高き屋に上りて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」という歌は、実は十世紀頃作られたもので、読み人知らずの歌であることが判っている。私達が頭に画いていた仁徳天皇のイメージは、全くの虚像であって、実は、中国の史書などを参考にして、古代王者の理想像として創られたものだったようである。実像は、色好みの大王で、御妃はすごい焼餅焼きだったらしい。
第十五代応神天皇、第十六代仁徳天皇の在位は4世紀の始めとされており、その御陵が大阪地方にある。誉田山(こんだやま)古墳及び大山(だいせん)古墳がそれである。これらの御陵は、宮内庁の管理下にあり、学術調査に立ち入ることは出来ないのが現状である。しかし、これらの巨大古墳が作られたのは、5~6世紀の所謂古墳時代中期であることが判っており、これらの巨大古墳は、当時、中国や朝鮮からやってくる使節たちに日本の国威を見せるために造られたもので、応神、仁徳両帝の陵墓である可能性は少ない。
これらの古墳の学術調査を実施すれば、色々な貴重な事実が瞭かになることは間違いない。それなのに日本の文部科学省は、一体何を考えているのか、想像に苦しむ。菊のカーテンの陰に隠れて、あくまでも万世一系の皇統伝説を守り、皇国史観を温存しようとすることに捉われているとしか考えられない。その幻にしがみ付いているのが、日本の国家主義者たちの実態ではないのか。
速やかに総ての天皇陵の学術調査を認める法律を作り、これに基づいて逐次調査を実施すれば、考古学の進展と相俟って、日本の歴史研究は、飛躍的進歩を遂げるに違いない。既に日本書紀には、6世紀の始まり、第二十六代継体天皇の前で、一時皇統が途絶えたことが記されており、今更無理に万世一系などと格好をつけることも無いのではないかと思う。
小唄人生
6月21日のブログに、「文化人・渋沢秀雄氏と小唄」という記事を書いたら、例の山友達のO氏から、渋沢秀雄氏関係の資料がもう一山あるからと、第2弾を送ってきた。早速開けてみたら色々出てきた。
①「渋沢秀雄先生 御前に」という墨痕も鮮やか達筆の手紙で、差出人は、文化放送小唄伺ったものとだけで名前がない。渋沢秀雄氏は、昭和30年頃から、文化放送のラジオ番組の「小唄徒然草」の司会を勤めた。その頃その放送を聞いた人からのお礼の手紙であった。難しい変体仮名を苦労して読んでみると、差出人は、初代吉村ゆう家元(昭和9年、67歳で没)の元お弟子さんだった方で、渋沢秀雄氏のラジオ番組で吉村ゆうさんの話をしているのを聞いて、家元没後23年になるというので昔を思い出して手紙を認めたようである。
初代吉村ゆうという家元は、江戸小唄の元祖・清元お葉さんの小唄を引き継いだ横山サキという師匠から小唄を習い、大正11年に吉村流家元になった人で、人の話によると、こんな小唄の上手い人はないという。手紙の主も、小唄「初出見よとて」を例にとって、ゆうさんの上手さを生き生きと描写している。先ず唄い出しの「初出見よとて」から違う。「頭取の伊達姿」というと、貫禄ある頭取の皮羽織が目に浮かんでくる。「粋なポンプ組」というと、粋のいい若者が見えてくる。「ヅンと立ったる梯子乗り」というと、梯子が天までとどくような勢いだ。「腹亀じゃ」というと梯子の上で腹を下にして、「ぶらぶらと谷覗き」というと下から女が見上げているのがただのぶらぶらじゃないんだって、アハハハ、って大笑いしたという話が面白かった。
②昭和43年9月、三越劇場で催された明治100年記念、第20回三越邦楽会のプログラムで、筝曲、謡曲、新内、哥沢、義太夫、清元、長唄、一中節など色々あり、勿論小唄もある。小唄は、伊東深水氏、中田末男氏などに混じって、細川隆元氏が渋沢秀雄氏の糸で「葉桜」、「またの御見」を唄っている。
③春日とよ栄文(渋沢夫人)師匠が三味線を弾いている舞台写真で、唄っている人はどなたか分からないが、唄は「お蝶夫人」、「のびあがり」。唄っている人は、若しかしたら、春日とよ栄師匠かもしれない。写真の送り主がとよ栄師匠だから。
④小唄とは関係ないが、昭和36年5月、「新派新作公演」のプロ。という随筆を載せている。花柳章太郎、大矢市次郎、伊志井寛などの若々しい写真が懐かしい。
⑤昭和36年12月、新橋演舞場で催された「新国劇公演」のプロ。これに渋沢秀雄氏が「芝居歳時記・12月」という随筆を掲載している。辰巳柳太郎、島田正吾などがまだ青年の顔で載っている。
⑥その他、芸能関係者からの手紙が約20通ばかりあるが、長くなるので割愛する。なお、O氏の手許には渋沢秀雄氏の戦後約30年間の日記ノートが残されている。これの扱いは私には荷が重過ぎるから暫らくO氏の許で眠っていてもらうことになる。i
日本古代史
弥生時代後期、三世紀の初め頃、北九州から大和地方に侵入してきた部族が、鉄や青銅などの武器を用いて先住の豪族達を呑み込み、勢力を広げて行った様子が、魏志倭人伝(239年)の記述や奈良における纒向(マキムク)、橋墓(ハシハカ)などの遺跡の発掘調査により裏付けられて、次第に瞭かになってきている。それまで島根県出雲地方で栄えていた出雲王国が大和王国に滅ぼされたのもこの頃である。
大和王国の女王であった卑弥呼は、「鬼道」という新宗教の教祖的存在で巫女(ミコ)であった。卑弥呼が亡くなったのは248年頃で、その頃、奈良・三輪山の麓に、ホケノ山古墳という巨大古墳が築かれた。これが卑弥呼の墓である可能性は否定できない。卑弥呼の没後、大和地方は一時乱れるが、別の巫女が現れて、大和王国は再び安定を取り戻す。この時大和王国を救ったのは、中国や朝鮮との外交や交易を受け持った息長族(オキナガゾク)という海洋部族であったと言われている。
1989年(平成元年)、佐賀県吉野ケ里(ヨシノガリ)遺跡の発掘調査により、弥生時代の大規模集落跡が発見され、邪馬台国問題が再燃した。それ迄、邪馬台国は、近畿・大和地方という説が有力であったが、吉野ケ里遺跡の新たな発掘によって、北九州説が息を吹き返したというわけである。しかし、その後更に奈良地方の遺跡の発掘調査が進むにつれ、やはり邪馬台国は大和地方という説が強い。
邪馬台国があった場所が、大和か北九州かという論議は何れにせよ、神武天皇から第十代崇神天皇辺りまでの天皇は、実在性に乏しく偽装された可能性が強い。第十四代仲哀天皇の皇后がオキナガタラシヒメ(神功皇后)で、海洋部族・息長族の出自である。この辺から天皇家の系譜が現実味を帯びてくる。仲哀天皇は、九州の熊襲が叛いたので征伐に行ってそこで亡くなった。その後、神功皇后が摂政となったが、我々が歴史で習った神功皇后が国威を示すため三韓征伐をやったと言うのは真っ赤な嘘。その頃の大和朝廷は、朝鮮半島に軍隊を送るほどの国力はまだ無かった。大和朝廷が、漸く国家としての体制を整えてくるのは、もうあと五百年ほど後の話である。