日本古代史 | 八海老人日記

日本古代史

 弥生時代後期、三世紀の初め頃、北九州から大和地方に侵入してきた部族が、鉄や青銅などの武器を用いて先住の豪族達を呑み込み、勢力を広げて行った様子が、魏志倭人伝(239年)の記述や奈良における纒向(マキムク)、橋墓(ハシハカ)などの遺跡の発掘調査により裏付けられて、次第に瞭かになってきている。それまで島根県出雲地方で栄えていた出雲王国が大和王国に滅ぼされたのもこの頃である。


 大和王国の女王であった卑弥呼は、「鬼道」という新宗教の教祖的存在で巫女(ミコ)であった。卑弥呼が亡くなったのは248年頃で、その頃、奈良・三輪山の麓に、ホケノ山古墳という巨大古墳が築かれた。これが卑弥呼の墓である可能性は否定できない。卑弥呼の没後、大和地方は一時乱れるが、別の巫女が現れて、大和王国は再び安定を取り戻す。この時大和王国を救ったのは、中国や朝鮮との外交や交易を受け持った息長族(オキナガゾク)という海洋部族であったと言われている。


 1989年(平成元年)、佐賀県吉野ケ里(ヨシノガリ)遺跡の発掘調査により、弥生時代の大規模集落跡が発見され、邪馬台国問題が再燃した。それ迄、邪馬台国は、近畿・大和地方という説が有力であったが、吉野ケ里遺跡の新たな発掘によって、北九州説が息を吹き返したというわけである。しかし、その後更に奈良地方の遺跡の発掘調査が進むにつれ、やはり邪馬台国は大和地方という説が強い。


 邪馬台国があった場所が、大和か北九州かという論議は何れにせよ、神武天皇から第十代崇神天皇辺りまでの天皇は、実在性に乏しく偽装された可能性が強い。第十四代仲哀天皇の皇后がオキナガタラシヒメ(神功皇后)で、海洋部族・息長族の出自である。この辺から天皇家の系譜が現実味を帯びてくる。仲哀天皇は、九州の熊襲が叛いたので征伐に行ってそこで亡くなった。その後、神功皇后が摂政となったが、我々が歴史で習った神功皇后が国威を示すため三韓征伐をやったと言うのは真っ赤な嘘。その頃の大和朝廷は、朝鮮半島に軍隊を送るほどの国力はまだ無かった。大和朝廷が、漸く国家としての体制を整えてくるのは、もうあと五百年ほど後の話である。