八海老人日記 -16ページ目

日本古代史

672年天智天皇が没した後、天皇の子である大友皇子と、天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)との間で、皇位継承を巡って戦が始まった。これを壬申(じんしん)の乱と言うが、これについて8月9日のブログに書いた。ところがこんな内乱がなぜ起きたかという経緯について大きな疑問が湧いてきた。表面的には皇位継承を巡る争いであるが、叔父・甥の間柄で、話し合いもせず、いきなり殺し合いになると言うのは、如何にも不自然である。色々文献を読んでいるうちに自分なりに納得した次第。


 当時、朝廷で大きな勢力を誇った蘇我氏の先祖は、百済系の渡来人であったと言われている。だから、朝鮮半島で百済が唐・新羅の連合軍に侵攻され、日本に助けを求めてきた時、朝廷はこれに応え、朝鮮半島に出兵したが、白村江の戦いで大敗を喫した。だがその頃、朝廷で実権を握っていたのは、百済系の高官たちであった。668年朝鮮半島が新羅によって統一されると、日本に対する新羅からの風当たりも、次第に強くなっていった、天智天皇が息子の大友皇子を重く用い、弟・大海人皇子を次第に疎外するようになると、朝廷内の新羅派が、大海人皇子の許に結集するようになって、朝廷内に、百済派と新羅派の対立が生じ、段々とエスカレートしていった。


 天智天皇の没後、大海人皇子は、近江朝廷を去り、吉野離宮に移った。ところが、大友皇子が兵を集めて攻めてくるという情報を聞いて、自衛のため挙兵を決意したように日本書紀に書いてあるが、これは粉飾であろう。始めから百済派の近江朝廷を倒すため、当時美濃に多く居住していた新羅系渡来人の子孫である豪族たちに働きかけて兵を集めた。近江朝廷の軍事部門を担当していた百済系の大伴氏に朝鮮出兵敗北の責任をなすりつけ、大伴一族を郷里に帰してしまったのもマイナスになった。要するに壬申の乱とは、日本における百済派と新羅派の抗争であって、朝鮮半島での百済・新羅の争いの延長線上と見られる。


 かくして大海人皇子は、新羅系豪族達の支援を得て近江朝廷を倒し、大友皇子は自害して果てた。大海人皇子は飛鳥の地に新しい宮殿を造営し、即位した。これが四十代天武天皇である。その後、蘇我氏に代わって藤原氏が大きな勢力を持つが、やがて藤原氏始め、百済系、新羅系の豪族たちは地下に潜り、再び歴史の舞台に出てくるときは、源氏、平家、奥州藤原氏などに姿を変えて現れることになる。まことに、日本の歴史は面白い。

万葉の世界

 万葉集の女流歌人の中で、一番人気のあるのは額田王(ぬかたのおおきみ)であろう。人気の理由は、先ずクレオパトラもはだしで逃げ出すような美人であったらしいということ。それに、才長けて恋多き女であったということのようだ。


 いつ生まれていつ死んだか、はっきりしていないが、日本書紀には鏡王(かがみのおおきみ)の娘と出ているが、妹という説もある。若しかしたら、鏡王というのは、渡来人の子孫かもしれない。

 

 若くして中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)の愛人となり、十市皇女(といちのみこ)を生んだ。中大兄皇子が中臣鎌足と組んで蘇我蝦夷、入鹿親子を滅ぼし、三十八代天智天皇に即位すると、額田王も妃の一人に召され、帝の寵愛を受けた。十市皇女も天智帝の息子・大友皇女の妃となり、幸せに暮らした。天智帝が亡くなり、皇位継承を巡って壬申の乱が勃発、十市の皇女は、父と夫が敵味方となって争うこととなり、悲劇のヒロインとなった。結果は、夫の大友皇子が敗れて自殺、大海人皇子が皇位を継いで三十九代天武天皇となり、額田王は再び天武帝の妃となり、十市皇女は病死した。


 天智帝が667年3月、都を大和の飛鳥から近江の大津に遷したとき、妃の一人として遷都の旅に随行した額田王は、長年見続けた故郷の山に別れを告げるとき、「三輪山を しかも隠すか雲だにも 情けあらなも 隠そうべしや」。(三輪山をどうしてそんなに隠すのか せめて雲だけでも情があって欲しい)と詠んだ。


 天智帝が弟の大海人皇子を連れて、琵琶湖畔の蒲生野(がもうの)で狩を催し、狩の後で宴会となった。天智帝の妃であった額田王もお供をして、久しぶりに逢った元の愛人・大海人皇子とは、いいムードになったようだ。額田王がはしゃいで歌を披露した。「あかねさす 紫野ゆき標野(しめの)ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる」。「あかねさす」は紫の枕詞。「紫野」は宮廷人が好む紫色染料の原料となる紫草の自生地。「標野」は皇室が狩猟などに使用する原野。何れも野守を置いて一般の立入を禁じた。(紫草の生えている野原を私が歩いて行くと、まあ、あなたったら、あんなに手を振って。野守が見ているじゃありませんか)。


 額田王の歌の「君」とは誰を指すのか。宴席に居並ぶ人達は固唾をのんで成り行きを見守る。大海人皇子が、すくっと立って返歌を読み上げた。「紫の匂える妹を憎くあらば 人妻故に我恋めやも」。(紫草のように香しい貴女が憎いなんていう訳ない でも貴女は人妻なんだから、どうして私が恋したりしましょうか)。今は天智帝の寵を受けている額田王に花を持たせた返歌の見事さに、みんなやんやと喝采し、宴は大いに盛り上がった。


 二人の男性に愛された女盛りの額田王の幸せな一日でした。そういえば天智天皇は、歌はあまり得意ではなかったようだ。百人一首の天智天皇作とされている、「秋の田の 仮庵の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」という歌は、ほんとうは万葉集の中の読人知らずの歌なんだそうだ。


 

万葉の世界

 万葉集巻十四には、全巻、短歌形式の東歌(あずまうた)が収録されている。東国地方の住人の間で作られた歌で、その数は、数えた訳ではないが、二百三十八首あるという。作られた国の名が出ているのが約半分、残りの半分は国名が分からない。また殆どが、作った人の名は分からない。だから、長い間農民の間で歌い継がれて来た歌であるという説が強い。それにしては、判でも押したように、短歌調のリズムで統一されているのは、おかしいと思う。「歌垣(かがい)」などで唄われる里謡は、地方々々によって皆独特のリズムを持っている。これは、恐らく役人が作歌を命じて提出させたものと思われる。


 大化の改新で、それまで豪族たちの私有であった土地と農民が公地公民とされ、中央から国司という役人集団が地方に派遣され、各地方の行政、司法、軍事を統括したが、それを在地で助けたのが地方の豪族たちである。豪族の中の有力者が郡司に任命され、国司の手足となって働いた。農民層から「仕手」を徴発し、郡司の指揮下で使役に当たらせた。渡来人や帰化人の子孫で、機織、焼き物、鋳物、鍛造などの職業に従事する住民もいた。これら地方の住民の中で知識層と言われるのは、殆ど豪族の子孫たちに限られていたと思われる。彼らは、漢字を使って記録したり、歌を作ったりすることが出来た。


 東歌の幾つかを並べて見よう。

 「上野(かみつけ)の 安蘇のま麻群(そむら)かき抱(むだ)き 寝れど飽かぬをなどか我がせむ」。(麻の束のようにしなやかに柔らかい娘を抱いて、いくら寝ても飽きない。どうしたらいいの。どうしようもない)


 「多摩川にさらす手作り さらさらに 何ぞこの子のここだ愛(かな)しき」。(多摩川の水ににさらす手織りの布が、さらさらとたゆたい その娘のなんて愛らしいことよ)


 「筑波嶺の さ百合(ゆる)の花の夜床(ゆどこ)にも 愛(かな)しき妹ぞ昼も愛(かな)しけ」。(筑波嶺の百合の花のように可愛い恋人よ 、夜の床でも可愛いが、昼間もなんて可愛いかったことよ)


 最後の歌は、万葉集巻十四の東歌二百三十八首の一番お仕舞の歌で、挽歌(死者を哀悼する歌)である。

 「愛(かな)し妹を いづち行かめと 山菅の 背向(そがい)に寝しく今し悔やしも」。(可愛い彼女を どこへも行くものかと、あの夜、背中を向けて寝たことが、今になって悔やまれる)。彼女はなにかの病気であっけなく死んでしまったらしい。「山菅」は枕詞。

小唄人生

 9月17日(日)、グランドアーク半蔵門で催される新橋・胡初奈開店四十周年記念演奏会で、「二年越し」を唄うことになった。この唄は、伊東深水作詞、千紫千恵作曲の、昭和39年4月に開曲された芝居小唄で、初代中村鴈冶郎の十八番、近松門左衛門作「心中天の網島」の中の「炬燵の段」から題材を取ったもの。


 「心中天の網島」の紙屋治兵衛と曽根崎遊郭の遊女・小春の心中物語を題材にした小唄は幾つもあって、5月28日のブログに書いた「網島心中」もその内の一つである。草紙庵作曲のこの唄は、万策尽きた治兵衛と小春が、手に手を取り合って死にに行く最後の道行きの場面を唄ったものである。


 千紫千恵作曲の「二年越し」は、園八節が得意な作曲者が、園八の名曲「小春治兵衛炬燵の段」から園八の手を取り入れて作曲したもので、開曲した時は、昭和の名曲と称えられた。大阪の商人・紙屋治兵衛の女房おさんは、夫がここに年越し廓通いを止めないため、借金で首が廻らなくなり、夫に愛想づかしをして廓通いを止めさせてくれと小春に手紙を書いて頼む。小春は、或る大尽から身請されることになり、心ならずも治兵衛に愛想づかしをする。可愛さあまって憎さ百倍。関の孫六という刀で小春を殺そうとするが、兄の孫右衛門に止められる。叔父が来て、二度と小春に会わないと誓詞を書かされるが、帰る叔父の見送りもせず炬燵布団を被って寝てしまう。おさんが布団を撥ねのけると、治兵衛は顔中涙で泣いている。おさんは治兵衛の胸倉を取って口説く。


 小唄の文句は、「闇の夜の 情けと義理の板ばさみ 門送りさえそこそこに かむる布団の格子縞 覚悟を秘めし置炬燵 あんまりじゃぞえ治兵衛どの それほど名残が惜しくば なんで誓詞を書かしゃんした さりとは邪険な胴欲なと 愚痴も涙の二年越し」。


  唄い方は、前半は園八の手に乗って、しんみりと情緒たっぷりに唄い、後半の科白からは、小春に激しく悋気するおさんの気持ちになり切った積もりで唄う。

万葉の世界

 8月29日のブログ、万葉の世界のテーマ・人麻呂以前に、防人について少し触れたが、その後、防人について書かれた文献を読んで気がついた事がある。文献には、防人とは北九州周辺防備のため徴発された東国の農民たちであると記述されているが、それは少し正しくないと思われる。


 防人とは、東国の農民たちと、十把ひとからげにしているが、住民にもいろいろある。肉体労働だけの農民もいたであろうが、旧豪族の子孫たち、渡来人や帰化人たちの子孫で、機織、焼き物などの職を持つ者たちなど、色んな住民がいたに違いない。特に豪族の子孫たちは、自分の土地は自分で守る武力を持った武士に近い郎党たちもいた。防人に徴用されたのは、主にこれらの若者が中心であったと思われる。専業農民の中には、徴発されると、忌避逃亡する者も多くいたらしい。豪族の子孫たちは、教養もあり、中には歌詠みもいた。大化改新で公民となってからは、天皇の民としての誇りを持つ者もいた。徴発されると自前の武器を持って召しに応じた。


 755年、兵部少輔(ひょうぶしょうふ・徴兵係りの役人)に任命された大伴家持が、たまたま防人の任務交代の時期に当たり、新たに徴発した二千人ほどの防人集団に歌の提出を命じた。家持は、東歌などで東国の住民の中にも歌詠みがいることを知っていた。そのとき集まった166首の内84首を選んで、万葉集巻に十に収録した。これが防人歌と言われるものである。防人たちは任地へ赴く途中でも歌を作った。これは専業農夫のなせる業とは到底思えない。「我が妻も絵に描きとらむ暇もが 旅行くあればみつつしのはむ」は、物部古麻呂の作で、物部氏の子孫かもしれない。「吾等旅は 旅と思ほど家にして 子もち痩すらむわが妻かなしも」は玉作部広目の作で、渡来人の子孫かもしれない。中にはこんな変わった歌もある。「ふたほがみ 悪しけ人なりあた病 わがするときに 防人にさす」。「ふたほがみ」は布多郡の長官、「あた病」は急病のこと。(布多郡の長官は悪い奴だ、わしが急病だと言うのに防人にしやがって)。


 防人の歌の殆どが父母妻子など肉親を思う歌であるが、万葉集巻二十に、大伴家持が防人の身の上を思いやって作った長歌と短歌がいくつか載せられている。その内の一つ、「丈夫のゆき取り負いて出でて行けば 別れを惜しみ嘆きけむ妻」。「ゆき」は矢を束ねて入れる筒状のもの。

小唄人生

 9月30日(土)、南青山会館で催される蓼胡満和師匠の玉和会・秋の会で、英十三作詞、吉田草紙庵作曲の「行く雁に(毛剃)」を唄わせて貰えることになった。この小唄は芝居小唄であるが、民謡の正調博多節がアンコで入っていて、小唄をやる人は、一度は歌いたがる曲である。


 芝居は、近松門左衛門原作、人形浄瑠璃「博多小女郎波枕」で、享保三年(1718)十一月、大阪竹本座初演。歌舞伎に取り入れられたのは天保五年(1834)正月、七代目団十郎が毛剃九右衛門を演じて大当たりを取った。


 毛剃九右衛門は、下関を根城に密貿易を働く海族の頭である。京都の商人・小松屋宗七が博多行きの便船と間違えて毛剃の海賊船に乗り、密貿易の現場を見たのを知られて海へ投げ込まれた。運よく通りかかった船に助けられ、命からがら、馴染の女・小女郎がいる花街・柳町の奥田屋に辿り着く。そこで毛剃と鉢合わせ。毛剃も同じ小女郎の客で、小女郎を身請けするといい、宗七はそうはさせないという。とどのつまり、宗七が毛剃から金を貰って海賊の一味となり、小女郎を身請けして有頂天になるが、結局役人に捕まって終わりというのが芝居の粗筋。


 小唄は、海賊船のみよしに仁王立ちの毛剃が大鉞を振り上げて、海に投げ込んだ宗七の行方を睨んで大見得を切るところで、背景には八月十五日の満月が浩々と照っている場面を唄ったもので、歌詞は「行く雁に 文ことづけん 文字が関 恋には細る柳町 逢うてどうして宗七が 身の仇波と白波の 人の定めの浮き沈み みよしにかざす鉞の 毛剃の見得や今日の月」。


 歌詞の意味は次の通り。「行く雁に 文ことづけん」は中国の故事。「文字が関」は今でいう関門海峡。「恋には細る柳町」は、恋に身も細る宗七の姿を柳に掛けた。「逢うてどうして宗七が」はどうしてそうしての語呂合わせ。「身の仇波と白波の」は、宗七が自分の身の仇になるのを知らないという事。以下は読んで字の如し。


 「草紙庵小唄の解説」という鳳山社の本に英十三氏が、この小唄の唄い方について書いている。「行く雁に 文言付けん文字が関」は、波立つ海峡を雁が渡って行く心持。「恋には細る柳町」は、小女郎への恋に身も細る宗七の心持。「逢うてどうして宗七が」は、正調博多節への導入部。「身の仇波と白波の 人の定めの浮き沈み」は正調博多節でたっぷりと聞かせどころ。「みよしにかざすまさかり」以下は、毛剃が大見得を切る所で、ドレマチックに唄って終わる。最後に派手な送り(後弾き)が四十小節も続いて、三味線の聞かせどころ。こんな名曲中の名曲を唄わせて貰えるなんて、小唄冥利に尽きるというもの。

万葉の世界

 万葉の世界は、人麻呂を措いては語れない。しかし万葉には、人麻呂以前の歌や東歌、防人歌など、地方農民たちの歌も数多く収録されている。前のブログに書いた四世紀初頭の仁徳帝のお妃・磐姫(いわのひめ)の歌は特別例外として、万葉集巻一の雑歌の冒頭に収められている二十一代・雄略天皇の歌とされる「籠(こ)もよ み籠もち 堀串(ふくし)もよ み堀串もち・・・」や、三十四代・舒明帝の歌とされている有名な国見の歌「大和には むらやまあれど とりよろう天の香具山・・・・」などは、人麻呂の時代から百年~五十年も前の歌である。なお古事記には百十首もの伝承歌謡が載せられているが、一部の伝承歌がなぜ万葉集に取り入れられているのかについては明らかでない。


 舒明帝の皇后が後の斉明女帝となり、舒明帝の子の中大兄皇子が皇太子の時、有間皇子の事件が起きた。有間皇子は三十六代・孝徳天皇の子で、天皇の後継者の一人と目されていた。猜疑心の強い中大兄皇子が、自分の地位を侵されるのではないかとの思いから、有間皇子が謀反に加担したと濡れ衣を着せ死刑にした。有間皇子が捕らえられ、中大兄皇子の許に送られる途中、磐代というところで歌った二首が、万葉集巻二の晩歌の部に収められている。

 「磐代の 浜松が枝を引き結び ま幸(さき)くあらば また還り見む(141)」

 「家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(142)」

 有間皇子は、中大兄皇子の前で、きっぱりと身の無実を訴えたが、中大兄皇子は許さず、つるし首にしてしまった。有間皇子が死の予感を胸に秘めて、なお淡々とこれだけの情感溢れる表現が出来ると言う事は、有間皇子の人間性と文学的才能を感じずにはいられない。


 有間皇子事件の翌〃年(660)、新羅が唐と組んで百済を攻めて首都を陥落させ、百済国王とその一族は唐の長安に拉致されてしまい、百済から日本に救援を求めてきた。当時、親百済派だった中大兄皇子・鎌足らは政府や斉明女帝を動かし、朝鮮半島派兵を決定した。その結果は、白村江の戦いなどで唐・新羅の連合軍に破れ、663年日本軍は引き上げてきたが、唐・新羅が日本侵攻の恐れもあり、九州方面の海岸線の防備を固める必要が生じた。このため東国の農民が兵役に着くため動員された。これが「防人(さきもり)」である。万葉集巻二十には93首の防人たちの歌が収録されている。この防人歌の殆どは妻子を恋うる歌であるが、一部は天皇を称える歌である。しかしこれは役人に阿るために作られた可能性が強い。「今日よりは顧みなくて大君の醜のみ盾と出立つ我は」。この歌を詠むと、太平洋戦争に駆り出された若い頃を思い出す。


 

万葉の世界

 bulog1933さん、kankianさん、私の「万葉の世界」のブログ開始を励まして下さって有難う。老いの力が沸いて来ました。豚も褒めらりゃ木に登ります。ブログ上を借りて厚く御礼申し上げます。


 万葉集の中で一番古い歌は、四世紀の初頭、仁徳天皇のお妃となった磐姫(いわのひめ)の歌である。虚像で固められた仁徳帝については、7月8日の私のブログに書いたが、色好みの帝であったことは事実のようだ。磐姫は葛城氏の出自で、人一倍嫉妬深い焼餅焼きであつたとされているが、ただの焼餅焼きではなかった。命がけで仁徳帝を愛した張り裂けるような心の叫びが、幾つもの歌に残されている。「かくばかり恋いつつあらずは高山の 磐根し枕(ま)きて 死なましものを」(これほどに切ない思いで恋い焦がれているよりは いっそあの高い山の岩を枕にして死んでしまいたい)、「ありつつも君をば待たむ 打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに」(浮気をして帰ってこない貴方を、このまま待っていましょう 長く波打つ私の黒髪に、明け方の霜が置くまで)。後世の和歌が、技巧的になったのに対し、素朴で率直な心情を吐露する万葉の歌に私たちは心を惹かれる。


 これとは逆に一番新しい歌は、八世紀の中ごろ、大伴家持によって詠まれた次の歌である。「新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいや頻け吉事(しけよごと)」(新しい年の初めの初春の今日 降りしきる雪のように目出度い事が重なって来い)。大伴家持は、758年6月16日、因幡守に任ぜられたが、これは家持にとっては不遇の人事であった。翌年の正月、家持は赴任先で国郡司たちを饗す席で、この歌を詠んだ。家持42歳の時であった。この日以来、家持は筆を折り、68歳で死ぬまで一首の歌も記録に遺されていない。この「歌わぬ歌人」について、後世色々の意見が述べられたが、私の考えでは、家持は歌人ではあったが、同時にいや、それ以上に王家のための仕事に働く行政官だったのだと思う。


 家持は、因幡守になってから4年後、今で言う宮内庁長官に任命された。そこで驚いたのは宮廷の腐敗ぶりであった。四十六代・孝謙女帝が、淳仁帝に四十七代の皇位を譲り、上皇として淳仁帝を牛耳っていた。そこへ取り入って、孝謙帝とただならぬ関係になったのが道鏡である。時の太師(今の総理)・太政大臣で政治の実権を握っていたのが藤原仲麻呂で、仲麻呂が自分の子を三人も大臣にしたのを怒って、藤原良継という過激派が、仲麻呂を殺そうと企んだ。これを道鏡が仲麻呂に密告し、中立派の家持にまで嫌疑が及んだ。良継の否定で死は免れたが、家持は、764年1月、薩摩守に左遷された。仲麻呂が、目に余る上皇を除こうとして起こしたクーデタに失敗し、家族と共に斬られた。その後道鏡が太政大臣・法王となり、やがて皇位を伺うことになる。こんな乱れた政治情勢の中で、歌どころではないというのが、当時の家持の心境ではなかったかと思う。しかし、家持が編纂し、二十巻の歌集に纏めてくれたお陰で万葉集は残った。

万葉の世界

 今から数年前、まだ会社勤めをしていたころ、都営地下鉄大門駅から三田通りに出た辺りに、間口一間ほどの小さな古本屋さんがあった。通りの向かい側が慶応大学の旧正門で、古本屋さんの名前は忘れたが、九十歳位のお婆さんが一人で店番をしていた。小さい割にはいい本が置いてあって、お婆さんの話では、慶応の学生が、お小遣いに困るとよく売りに来るという。この店も区画整理でやがて立ち退かされるので、それまでのお店です、と言っていた。会社の昼休みにこの辺まで食事に来ることが多いから、その度にこの古本屋に立ち寄り、お婆さんとよく世間話をした。


 私も、八十の坂を越えて、そろそろ会社勤めに終止符をと考えていたので、会社を辞めた後、日本の歴史や古典文学などを読みながらのんびりと過ごしたいと思い、お婆さんの店から本を手当たり次第に買い込んだ。お婆さんも、これはいいお客だと思ったのだろう、私が欲しがりそうな本が手に入ると、私の顔を見るなり、私に勧めるようになった。お陰で会社を辞めたころは、歴史や古典文学の本で段ボール一個が一杯になり、家に運んだら、読みもしないのにと家内に文句を言われた。


 会社を辞めて、三田の済生会病院にドック入院したら、大腸の異常が発見され直ちに手術、初期の大腸癌と診断された。退院までの約一ヶ月間、「口語訳古事記」を読んだ。それがブログ・タイトル「日本古代史」を始めるきっかけとなった。私の「日本古代史」も、どうやら飛鳥時代辺りまで来たからこの辺で一段落し、新しいタイトルとして「万葉の世界」を追加しようと思う。この世に万葉の権威者がゴマンといらっしゃるのに、今更世に問う積もりはない。これは私の暇つぶしの遊びに過ぎない。ブログメイトの方々が付き合って下さるもよし、目をつぶられても結構。


 万葉集。日本最古の歌集。全二十巻、四千五百十六首の歌が収録されている。この歌集の成立の過程は不明。日本にまだ固有の文字がなかったころ、漢字の文字を借りて記述した。この文字を「万葉仮名」という。これから後にカタカナや平仮名が発明され、漢字と共に日本の文字が形成されて行った。万葉仮名で記述された万葉集は、七世紀に柿本人麻呂らが集めた歌集を底本に、八世紀に大伴家持が、これに個人的な歌集も加えて纏めたものである。万葉集は古代貴族の歌集であるが、集めた歌の中には、防人歌、東歌など身分の低い農民たちや地方民の赤裸々な生活感情を歌った歌が含まれているのが特徴である。

中東情勢

 8月20日(日)の新聞記事によると、イスラエル軍が19日未明、レバノン東部ボダイにヘリコプターで侵入し、イランからのロケット輸入を阻止するためという口実で、ヒズボラ(イラン、シリアがサポートするレバノンのイスラム教シーア派の民兵組織。アメリカは、中東の治安を害するテロ組織の一つと見做している。)の拠点に攻撃を加えたという。


 約1ヶ月続いたイスラエル・レバノン戦争は、両国が国連安全保障理事会の停戦決議を受け入れ、今月14日に停戦が発効したかに見えたが、国連決議は、イスラエルの自衛権行使を認めており、イスラエルは、ヒズボラがイランからのロケット輸入を止めない限り、攻撃を続けると主張している。これでは、折角の停戦決議も無効に等しい。戦争継続で迷惑するのは住民だ。


 イスラエルという国は、広さは日本の四国程度。人口は700万人弱。その八割が旧約聖書を奉ずるユダヤ教徒である。首都はエルサレム。ユダヤ人は古い民族であるが、今から二千年前、エルサレムで生まれたイエスキリストの言行を理解しようとせず、十字架にかけて殺したばかりでなく、初期キリスト教会を迫害した。その後キリスト教会が勢力を持つようになると、逆にユダヤ教徒が迫害された。その結果ユダヤ人は、キリスト教社会で祖国を失い、ヨーロッパの各地に離散して流浪の民となった。ナチスドイツのヒトラーは、ユダヤ人を地上から抹殺小とした。


 第二次世界大戦が終わった後、1947年の国連総会は、パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割する決議を採択した。イスラエルは、1948年、この決議を受け入れて独立を宣言すると共に、アメリカから戦車、航空機などの武器を輸入し、軍備を増強した。背後にユダヤ系アメリカ人のサポートがあったことはいうまでもない。


 アメリカ・ネオコンの行動原理の一つである単独覇権主義は、アメリカの圧倒的軍事力による世界秩序の維持を目的とするものであるが、ハマスやアルカイダなどの国際テロ組織は、民衆の宗教的洗脳による自爆テロを産み出すことでアメリカに対抗している。テロ組織にこれを考え付かせたのは、忠君愛国思想に洗脳された若者たちが、アメリカの戦艦や空母に体当たり自爆した日本の特攻隊であった。ハマスやアルカイダの自爆テロは、日本の神風特攻隊と同様、アメリカによる力ずくの覇権主義外交の産物である。


 イギリス・ロンドン大学政治経済学院客員教授・ロナルド・ドーア氏も、日本主導による北朝鮮に対する力ずく制裁決議に疑問を呈している。北朝鮮の行為を人道問題だ!制裁に値すると、声高に叫ぶ拉致被害者たちの声は、勿論理解できるが、これをナショナリズムに結び付ける事が最善かと言うことである。ナショナリズムに結びつけるということは、戦争も辞さないということである。世界世論やアメリカの覇権主義に期待するのは考えが甘いと思う。