万葉の世界 | 八海老人日記

万葉の世界

 万葉集巻十四には、全巻、短歌形式の東歌(あずまうた)が収録されている。東国地方の住人の間で作られた歌で、その数は、数えた訳ではないが、二百三十八首あるという。作られた国の名が出ているのが約半分、残りの半分は国名が分からない。また殆どが、作った人の名は分からない。だから、長い間農民の間で歌い継がれて来た歌であるという説が強い。それにしては、判でも押したように、短歌調のリズムで統一されているのは、おかしいと思う。「歌垣(かがい)」などで唄われる里謡は、地方々々によって皆独特のリズムを持っている。これは、恐らく役人が作歌を命じて提出させたものと思われる。


 大化の改新で、それまで豪族たちの私有であった土地と農民が公地公民とされ、中央から国司という役人集団が地方に派遣され、各地方の行政、司法、軍事を統括したが、それを在地で助けたのが地方の豪族たちである。豪族の中の有力者が郡司に任命され、国司の手足となって働いた。農民層から「仕手」を徴発し、郡司の指揮下で使役に当たらせた。渡来人や帰化人の子孫で、機織、焼き物、鋳物、鍛造などの職業に従事する住民もいた。これら地方の住民の中で知識層と言われるのは、殆ど豪族の子孫たちに限られていたと思われる。彼らは、漢字を使って記録したり、歌を作ったりすることが出来た。


 東歌の幾つかを並べて見よう。

 「上野(かみつけ)の 安蘇のま麻群(そむら)かき抱(むだ)き 寝れど飽かぬをなどか我がせむ」。(麻の束のようにしなやかに柔らかい娘を抱いて、いくら寝ても飽きない。どうしたらいいの。どうしようもない)


 「多摩川にさらす手作り さらさらに 何ぞこの子のここだ愛(かな)しき」。(多摩川の水ににさらす手織りの布が、さらさらとたゆたい その娘のなんて愛らしいことよ)


 「筑波嶺の さ百合(ゆる)の花の夜床(ゆどこ)にも 愛(かな)しき妹ぞ昼も愛(かな)しけ」。(筑波嶺の百合の花のように可愛い恋人よ 、夜の床でも可愛いが、昼間もなんて可愛いかったことよ)


 最後の歌は、万葉集巻十四の東歌二百三十八首の一番お仕舞の歌で、挽歌(死者を哀悼する歌)である。

 「愛(かな)し妹を いづち行かめと 山菅の 背向(そがい)に寝しく今し悔やしも」。(可愛い彼女を どこへも行くものかと、あの夜、背中を向けて寝たことが、今になって悔やまれる)。彼女はなにかの病気であっけなく死んでしまったらしい。「山菅」は枕詞。