八海老人日記 -15ページ目

身辺雑記

 9月4日、元一橋大学長・阿部謹也さんが急性心不全のため、新宿の病院で亡くなられた。71歳であった。私と阿部さんとの出会いは、たった一回きりであるが、平成6年、阿部さんが一橋大学長の頃、同窓会代表幹事の中北治郎君と一緒に、阿部学長に会いに行ったことがあった。用件は卒後五十年の記念文集の贈呈と、記念総会開催のため相模湖の艇庫使用を許可してもらったのでそのお礼を云うためであったと記憶している。その時の感じは、学者ぶらない気さくな人という印象であった。


 昨年、NHKテレビの朝ドラの後に、「心の旅」という番組があって、色んな分野の人が、世界中を旅する中で、心に思い出す旅をテレビカメラが後を追いかけて、それをテレビで見せてくれるのであるが、その中にある日、偶然阿部さんが出てきたので驚いた。その番組は10年ほど前に一回放映したのを再放映したもので、ドイツで思い出の旅をする60歳そこそこの阿部さんが映しだされていた。今から40年も前、ドイツのある町で二年間、ドイツ語の古文書と格闘していた阿部さんに、一家で親切にしてくれた下宿の家族を訪問されたのだった。阿部さんが、ほのかな思いを抱いたかつてのメッチェンが、今はいいおばさんになっていた。私は、阿部さんが、日本よりも外国で名の知られたヨーロッパ中世史の権威であることを知らなかったのである。阿部さんの論文の殆どが英語、ドイツ語、フランス語で書かれており、13世紀頃の古いドイツ語の文献を読みこなせる人はドイツ人でも少ないという。


 ドイツから帰国後発表された「ハーメルンの笛吹き男」に関する論文は、一躍大反響を呼び起こした。13世紀の中部ドイツのハーメルンという町で、130人もの子供たちが、或る日忽然と消えてしまった。これは実際に起きたことで、その日付も1284年6月26日と確定している。この事件を文献などで色々調べてゆくと、中世のドイツの町に住む人々の生活の有様が見えてくる。それを歴史学的に論証した訳であるが、「ハーメルンの笛吹き男」の話は、19世紀になって、一つの民話としてグリムの童話集に収録された。


 阿部さんは、晩年数多くの著書を残されている。どれもこれも読みたいが、その内の幾つかを読んで、次の機会にブログで紹介することにしよう。差し当たり次に読もうと思う本のテーマは、「日本人は如何に生きるべきか」。さて何時になるやら???


 



小唄人生

 12月20日の江戸小唄友の会・三桜会で「堀川」を唄うことになった。「堀川」は、中西鉄太郎作詞、小野金次郎補作、里園志寿栄作曲の浄瑠璃小唄。作詞の中西鉄太郎は志寿栄の夫君。作曲者の里園志寿栄は、明治43年生まれで、今年96歳。この唄は里園志寿栄の浄瑠璃小唄の決定版で、昭和29年8月(志寿栄44歳)の開曲。


 歌詞:「仇花の 濁りに白く咲きながら 深き情けの堀川に 流す浮名の夫婦仲 なまなか独り残れとは そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん 立つる女の道直ぐに 涙の道と行く空の 今宵限りの天の川 やつす姿や露の編笠」


 名題は、「近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)」。世話物。為川宗輔、筒川半二、奈川七五助の合作。通称「堀川」又は「お俊伝兵衛」。天明二年(1782)、豊竹八重太夫が、大阪・道頓堀の中ノ芝居で浄瑠璃を語った。梗概は、京都・井筒屋の倅・伝兵衛と祇園新町の遊女・お俊は、命までもと惚れあった仲。伝兵衛が藩の勘定役・横淵官左衛門という悪侍を恋の縺れから殺してしまう。お尋ね者になった伝兵衛は、お俊を残して死のうとする。お俊は、私独り生き残ったのでは女の道が立たない、一緒に死なせてくれと言い、二人で心中しようと決心するが、官左衛門の悪事が露見して伝兵衛の殺し徳となり、二人は晴れて夫婦となる。


 歌詞解説:濁り江に咲く白椿のように、心の清らかなお俊に深い愛情を注ぎながら、独り死のうとする伝兵衛が、お俊に、お前は生き残って跡を弔ってくれというと、お俊はわっと泣き出し、「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」と口説く。女の道を立てたいから一緒にしなせてくれ、と編笠姿に身をやつし、心中への道行きで曲が終わる。


 里園志寿栄は、昭和八年頃、大阪へ出稽古に来ていた小唄幸兵衛に小唄を習い、その後、東京に来て芸者になったが、美声を買われてビクター専属になった。戦後は、京都に移って、初代・里園派小唄の家元となり、作曲でも多くの名曲を残している。始め「移り香」や「川竹」など新内調の曲を作ったが、新内調は関西に馴染めず、その後、浄瑠璃小唄、京小唄、民謡小唄などあたらしいジャンルを開拓した。浄瑠璃小唄「堀川」の歌詞が出来たとき、お俊のクドキ「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」の科白を、わざわざ文楽座へ習いに行ったという。

万葉の世界

 愈々万葉の大看板、人麻呂までやってきた。そもそも万葉の時代は、今から千二百年以上も前のことで、まだ固有の文字も無く、漢字を借りてきて、万葉仮名といわれる文字で書かれた万葉の記録も、疑問や謎に満ちている。特に中心人物である人麻呂と言う人は、万葉集を背負って立つ歌聖と言われる程の人でありながら、生没年不明、足跡不明。分かっていることは、貴族の出であること、持統女帝に作歌の才を認められて御用歌人に抜擢され、女帝のために数々の長歌や短歌を作り、万葉集に多くの作品を残したということだけである。


 私のクラスメートで万葉集を研究している人がいて、八年ほど前に、その人のレクチャーを聴いたことがある。万葉仮名で綴られ、大伴家持が編纂したと言われる万葉集は、家持の死後百七十年くらいは、誰にも万葉仮名が読めなかったらしい。学問の神様・菅原道真ですらお手上げだったという。江戸時代になって、契沖や真淵や宣長等の努力でやっと読めるようになったもののようだ。


 私は、歌人でもなく、歌を趣味とする者でもないから、歌の良し悪しはよく分からない。ただ、人麻呂を巡る多くの謎については、大変気になる。持統帝や文武帝の身近にいた人なのに、、古事記や日本書紀に人麻呂の名前が全く出てこない。辺鄙な場所で、誰に看取られることもなく死んでいる。それに、いろは歌の暗号など、ミステリーが空想を掻きたてる。人麻呂が生きた時代が、宮廷内の権力を巡る争い、クーデタ、内乱や暗殺事件などの不安が一杯で、人麻呂も何かの事件に巻き込まれて地方に流され刑死し、古事記や日本書紀からも抹殺されたた可能性は否定できない。


 仏教の経典の中に「金光明経」というお経がある。大きな天才や疫病などがあると必ず読まれるお経であるが、「金光明経義」という説教本に、人麻呂の怨霊が込められているという。この本の巻頭に、万葉仮名で書かれた「いろは歌」が載せられていて、いろはにほへと ちるぬるをわか よたれそつねな らむうゐのおく やまけふこえて あさきゆめみし ゑひもせす と、七字ごとに行を区切られており、その七字目だけを拾って読むと、「咎無くて死す」となる。これは、人麻呂の悲痛を込めた暗号だと言う。しかしこの話は、出来すぎているので作り話かもしれない。


 人麻呂が死んだ石見(いわみ)の国に、柿本神社というお社があって、人麻呂が祀られている。神道で神に祀られるのは、①天皇のように位の高かった人か、うんと力の強かった人が死んだ場合、②罪無くして流罪などに遭い、刑死したり殺されたりして怨念が残っている場合で、人麻呂や道真や将門などが②の場合に当て嵌まる。江戸時代の国学者には見えて来なかった人麻呂の死に疑問を投げかけた最初の人が柳田国男であったという。私は、梅原猛の「水底の歌」を未だ読んでいないから、この本のことについては何も言えないが、いつか読んでみたいと思っている。昔の役人たちは天変地異があると、人麻呂の祟りだと言って恐れたらしい。その度に、金光明経を唱えたり、人麻呂の子孫の位をあげてやったりして、人麻呂の怨霊が鎮まるように祈ったという。

身辺雑記

桃井原っぱ 大腸手術から退院して以来ずっと、朝六時頃起きて、雨でない限り三十分ほど家の周りを散歩することにしている。最近は、旧中島飛行機の移転跡地が桃井原っぱという広場になったので、その中を突っ切って、新しく出来た高層マンションの下を歩くことが多い。新しいマンションの下の歩道の両脇は、緑地帯になっていて、色んな樹木が植えられてをり、木の種類ごとに名前を書いた札が下がっている。そこを毎日歩いていると、自然に木の名前が覚えられる。私も、それでメタセコイヤ、月桂樹、くすのき、たぶのき、エリカ、いわなんてんなど、今まで知らなかった木の姿や名前を覚えた。


 私は元々、木や草の名前を記憶するのが苦手で、山歩きのときなど、これは何の花とか教えられても中々覚えられない。でも散歩しながら毎日見ていると嫌でも覚えてしまう。ところがそれは、ただ単に木の名前と姿を覚えるだけで、それがどういう木なのか詳細は書いてないから分からない。ブログメイトに植物に詳しい人がいらっしゃるから、お尋ねすれば直ぐに懇切丁寧に教えて下さるのは分かっているが、ここはある因縁で手に入れた電子辞書「パピルス」に聞いてみることにしよう。


 電子辞書は、七月の「江戸の名所を歩こう会」に参加した時、帰りの電車で偶々一緒になった荻窪住いの人から便利だからと薦められたもので、その人は俳句をやっていて、句会のときには、歳時記入りのソニーの電子辞書を必ず持ってゆくのだそうだ。 数日後、私も荻窪のLAOXへ電子辞書を買いに行ったら、生憎ソニー製品は扱っておらず、代わりにシャープのブランドが評判がいいと薦められたので買ってきてしまった。270gの装置の中に、広辞苑ほか46種類の辞書が詰込まれている。日本史、世界史、古語などが含まれているのがお気に入り。


 早速「パピルス」を開けて、生物辞典をクリックし、「メタセコイヤ」と入力する。すると出た!「中国四川省に現存する化石植物の一種、スギ科。中国湖北省で日本の三木茂という博士が、1億年~1千万年前の地層から化石で発見しメタセコイヤと命名した」。その後、第二次世界戦中、中国の植物学者が、メタセコイヤと全く同じ植物が中国に現存することを発見した。このストーリィに感激!地球に人類が出現する遥かに前の白亜紀以来よくも絶滅せずに残ってきたもんだ。アメリカ人がこの種を持ち帰り、昭和25年頃から苗木が世界中に広まって、公園などに植えられるようになったそうだ。日本名は「アケボノスギ」、成長が早く、高さは三十mにも達する。葉の様に見えるのは全部小枝で、秋になると小枝ごと落葉する。写真は、原っぱに一本だけ生えているメタセコイヤでこのほかにも10本ほどある。


 他の木も電子辞書で調べたが長くなるので割愛する。年を取ると、記憶力が弱くなり、ど忘れやうろ覚えになり、ブログを書くのに支障を来たす。電子辞書1台でこれが防げるのは有り難い。これを薦めてくれた人に今度逢ったらお礼を言おうと思う。

万葉の世界

 いっぱしの大人で「竹取物語」を知らない人は、恐らくいないと思う。万葉集が日本最古の歌集だとすると、平安初期に作られたと言われている「竹取物語」は日本最古の物語かもしれない。ところがこの物語の作者が誰かわからないというのは不思議だ。万葉集はもっと時代が遡るが、作者の分かっている歌が多い。では何故、竹取物語は作者が分からないのだろうか。


 その理由は、「竹取物語」は創作ではなく、漢文で書かれたテキストがあったということのようである。恐らく朝鮮経由か中国から齎されたと思われる原典があった。しかも、漢文の原典そのものが民俗学的に調べると、南インドのオーストロネシア諸族の伝承に極めて多くの共通点を持つことが判明した。そういえば万葉集の五ー七ー五のリズムや古代日本語は、稲作文化を含むタミル系文化が、モンゴルや中国を経て日本列島に辿り着いたと想像されるが、その証拠に万葉集の中にも竹取の翁の物語が出てくるのである。16/3790に「昔翁あり 竹取の翁という 云々」という長歌が載せられている。


 飛鳥時代、日本に未だ文字が無かった頃、漢文で書かれた「竹取物語」の原典を読んだ当時の日本の進歩的文化人の誰かが、日本語で「竹取物語」を日本流に作ったというのが真相らしい。それも、いっぺんに作ったのではなく、後から別の誰かがつぎたしたような節がある。美しく成長した「かぐや姫」に求婚する5人の貴公子の名前が、壬申の乱で手柄を立て、天武・持統朝で活躍した人の実名で出てくるのが何よりの証拠である。即ち、石作皇子(いしつくりのみこ)、車持皇子(くるまもちのみこ)、右大臣・安倍御主人(あべみうし)、大納言・大伴御行(おおともみゆき)、中納言・石上麻呂足(いそかみまろたり)などがそれで、何れも求婚には失敗する。


 話は余談になるが、帝の求愛すら撥ねつけた「かぐや姫」が、月の世界へ戻って行くとき、翁に一通の文と不死の薬が入った壷を残してゆく。翁は文も読まず薬も飲まず病気で伏せてしまう。それを聞いた帝が、天に一番近い山はどこかと訪ね、そのやまの頂に文と薬を持って行かせて焼かせた。それでその山を「ふじのやま」というようになり、今でも煙が雲の上に立ち昇っているのだという落ちがついているが、これは眉唾である。

小唄人生

 11月18日(土)に東京証券会館ホールで催される蓼競文師匠主催「第七回競文会で、「宵宮」と「こうもりが」の二曲を唄わせて頂ける事になった。


 「宵宮」は田中宏明作詞、中山小十郎作曲で、昭和36年、市丸さんによりの開曲。歌詞は「オーエンヤリョー 木遣りゃ纏の家の株 江戸を守りの一筋に 命を掛ける勢い肌 その人柄に打ち込んで 仇な柔肌首抜きの 団扇使いもなまめかし 色で逢いしも昨日今日 踊り屋台は明日のこと 闇に溶け行く肩と肩 祭り囃子が追い掛ける」で、八月十五日の深川八幡宮の宵宮の情景を唄ったと言われている。


 「宵宮」の曲は、賑やかな祭り囃子を前弾きと後弾きに使い、唄は、前半、木遣りを唄う威勢のいい色男と、その男に惚れ込んだなまめかしく情の深い女の取り合わせと、後半、「色で逢いしも昨日今日」と、清元調のくどきの一節が聞かせ処。最後は、肩と肩を寄せ合って、闇の中へ消えてゆくカップル。それを祭り囃子が追いかけるという、作詞と節付けがぴったり合った佳曲である。


 「こうもりが」は、江戸時代、文政12年(1829)、七代目団十郎が浪速で芝居をやった時、大阪人が熱狂大歓迎して、何時までも江戸へは帰さないと言う文句の端唄が流行った。歌詞は、「蝙蝠が出て北浜の夕涼み 川風さっと福牡丹 荒い仕掛けの色男 往なさぬ往なさぬ何時までも 浪速に水に写す姿絵」。「蝙蝠」と「福牡丹」は市川家の替紋。「荒い仕掛け」団十郎の十八番の荒事に掛けた。江戸から来た団十郎が或る日、涼み船を一艘借り切ってご贔屓を招待し、船上で茶を振舞ったのが評判になった。この曲は、一時消滅したのを、明治になって、初代清元菊寿太夫が改めて作曲したという。


 なお、七月の室町小唄会で、「こうもりが」を唄われた上村幸以先生から伺ったことは、この唄を唄うときの注意事項として、最後の「姿絵」を「すがたエー」と伸ばして唄ってはいけない。これは、水に写した団十郎の「姿絵」のことだから「すがたえ」と短く唄わなければいけないとのことであった。

万葉の世界

 万葉集は、人麻呂を措いては語ることが出来ないが、人麻呂に入る前に、人麻呂の歌人としての才を見抜き、彼を宮廷歌人として抜擢した持統天皇(女帝)について、若干触れて置きたい。


 彼女は天智天皇の第二皇女(645-702)。母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)、又の名を讃良皇女(さららのひめみこ)と言い、同母姉に大田皇女(大津皇子の母)がいる。共に叔父・大海人皇子(後の天武帝)の妃となったが、大田皇女は大津皇子を生んで早逝し、讃良皇女は大海人との間に草壁皇子をもうける。大海人がライバルの大友皇子を倒して皇位を継ぎ天武帝となるや、讃良皇女は天武の皇后となり、更に天武の没後、第四十代・持統天皇となる。


 彼女は非凡な女性で、病気勝ちの天武帝を助け、壬申の乱後の天武朝の安定と王権拡張に貢献した。しかし天武の後継者を選ぶに当たり、大きな間違いを犯した。早く母を亡くした大津皇子が文武に優れ、人望も厚かったのに嫉妬し、自分の腹を痛めた出来の悪い息子・草壁皇子を盲愛するあまり、甥の大津皇子に謀反の罪を着せて殺してしまったことである。


 最もフェアーでなければならない政に私情を差し挟んだという汚点は残したが、作歌の天分には恵まれていたようだ。万葉集01/0028の「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」は、百人一首にも選ばれて有名である。この歌が詠まれた場所は、飛鳥から移った藤原京で香具山に近く、その麓に埴安の池があって、そこで禊をした人が干す真っ白な衣が目に入り、もう夏が来たようだという生き生きとした描写を詠っている。


 皇統を選ぶに私情を以ってするという過ちを犯した持統女帝であるが、人を愛することにおける女の素顔を覗かせているのが、天武が亡くなった時に作ったという次の長歌である。「やすみしし わご大王の 夕されば 見(め)し給うらし 明けくれば 問い給うらし 神岳(かむおか)の 山のもみじを 今日もかも 問い給わまし 明日もかも 見し給わまし その山を振りさけ見つつ 夕されば あやに悲しび 明けくれば うらさび暮らし あらたへの 衣の袖は 乾(ふ)る時もなし」。




 

小唄人生

神田明神                                                       
10月15日東京証券会館ホールで催される菊地芳月師匠の小唄の会「菊月会」で、「神田祭」を唄うことになった。
中内蝶二作詞、三世清元梅吉作曲「勢い肌だよ 神田で育ちゃ わけて祭りの伊達姿 派手なようでもすっきりと 足並みそろえ繰り出す花山車 オーンヤレ 引け引けよい声かけて そよが締めかけ 中綱よいよい オーエンヤリョウ 伊達も喧嘩も江戸の華」
神田祭というのは、神田明神の祭礼のことで、本祭と陰祭があり、本祭りは、江戸の二大祭に数えられる日枝神社の山王祭と毎年交互に開催される。丑、卯、巳、未、酉、亥の年は神田祭、子、寅、辰、午、申、戌の年は山王祭となっている。今年は戌年だから山王祭が本祭、神田祭が陰祭となる。江戸時代には、祭の行列が江戸場内に入ることを許され、将軍の上覧を得るため「天下祭」と称された。神田祭は、江戸の祭を代表する絢爛豪華なお祭りである。元々9月15日が祭礼の日であったが、現在は五月。
小唄は、清元の所作事「〆能色相図(しめろやれいろのかけごえ)」から歌詞を取ったもので、曲も清元調で「オンヤレ」とか「オンヤリョウ」とか、木遣りの掛け声が取り込まれていて、いきのいい節付けになっている。三味線のあと弾きは、梅吉の苦心の手。

万葉の世界

 天武帝には、十人の妻妾がいたと前回のブログに書いたが、その子たちも文献に見えるものだけでも十七人もいる。この内、十人が男の皇子で、七名が女の皇女である。夫々母の異なる子達が、すべて幸せな生を全うしたかというと、そうは行かなかった。悲劇のヒロインとなったのが、昨日のブログの十市皇女で、もう一人悲劇の主人公が、今日のテーマの大津皇子である。


 大津皇子は、天武帝が、皇后の姉の大田皇女に産ませた子で、幼少にして母を亡くしたが、文武の才に恵まれ、十人の男の皇子の中では、素質No.1の貴公子であった。父・天武帝からも愛され、他の誰からも愛された。そして彼の前に一人の女性が現れた。その名を石川郎女(いしかわのいらつめ)という。彼女は、奔放な女性であったらしく、天武帝の皇子に次から次へと恋のチャレンジを仕掛けたらしい。大津皇子が彼女とのデートのときの歌が万葉集巻二に載っている。大津皇子、「あしびきの 山のしずくに妹待つと 我立ちぬれぬ山のしずくに」。これに対する返歌。「我を待つと 君がぬれけむあしびきの 山のしずくにならましものを」。この歌を聞いて大津皇子は、すぐ彼女を抱き寄せて口付けしたことであろう。


 大津皇子は誰からも愛されたと言ったが、唯一人愛さない人がいた。その人は、天智帝の娘・讃良皇女(ささらのみこ 後の持統女帝)で、彼女は天武帝の皇后となり、帝と共に天武朝を支え、そして草壁皇女を生んだ。彼女はどうしても自分のお腹を痛めた草壁皇子を次の天皇にしたかった。そのため、686年9月9日に天武帝が病気で崩御すると、半月後の24日に大事件を起こした。大津皇子が皇位を狙ってクーデタを企てたとして、側近30名と共に捕らえ、翌月3日には早くも大津皇子に死が宣告された。自分の甥であろうと、容赦しない権力志向の激しさは、いつの世も同じである。背後に黒幕がいたかも知れない。


日本書紀には、新羅の僧・仁心と言うものにそそのかされて謀反を企てたと書いてあるが、これはデッチ上げであろう。大津皇子が死ぬ前に無念の涙を流しながら詠んだた歌が万葉集巻三に残されている。「ももつたふ 磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲がくりなむ」。「ももつたふ」は枕詞。「磐余の池」は香具山の東にあった池。今はない。(磐余の池で鳴いている鴨を この目で見るのは今日が最後、自分はこれでこの世を去ってゆこことか)。時に大津皇子は僅か二十四歳。その妃・山辺の皇女もこのとき殉死した。

万葉の世界

9月9日の額田王(ぬかたのおおきみ)をテーマにしたブログで、額田王と大海人皇子(おおあまのみこ)の愛の結晶であった十市皇女(といちのみこ)は、壬申の乱で、父と夫の死闘という悲劇のヒロインとなり、夫が敗北して自殺し、その後父方の保護を受けたがやがて病死したと書いたが、これは日本書紀の記述に拠ったもので、本当は違うようだ。十市皇女には、第二の悲劇が待っていたのである。


 壬申の乱で、甥の大友皇子を倒した大海人皇子は、飛鳥の地に都を構え、即位して天武天皇となったが、多妻主義で、分かっているだけでも十人の妻妾を持ち、その内四人が天智帝の娘、二人が藤原鎌足の娘で、額田王も再び妾の一人となった。夫を失った十市皇女も父の許で暮らした。このとき額田王が多分四十五歳前後、十市皇女が二十五前後かと思われる。十市皇女も母の額田王に似て美人だったに違いない。


 天武帝が、まだ大海人皇子の頃、妾の一人・尼子娘(あまこのいらつめ)に生ませた子・高市皇子(たけちのみこ)は、壬申の乱で、大海人皇子軍の指揮を任され大功を立て、天武政権で右大臣の要職を勤めたが、運命の皮肉というべきか、十市皇女とは幼馴染で、彼女は自分が滅ぼした大友皇子の妃であった。高市皇子の心の痛みが同情となり、やがてそれが愛情となって、夫を失い孤独に耐えながら生きている十市皇女に思いを寄せ、密かに契りを結ぶようになったとしても不思議はない。


 高市皇子と十市皇女の交際というスキャンダルを恐れた天武帝が、十市皇女に、新たに作ったお宮の斎宮(巫女)になることを命じたことが原因で、出発の朝、十市皇女が自害したというのが真相のようだ。 これが十市皇女の第二の悲劇である。十市皇女が死んだとき、高市皇子が作ったという歌が三首残されている。何れも高市皇子の悲痛の思いが込められているのが読み取れる。「三諸の神の神杉(かむすぎ) ゆめにだに見むとすれどもいねぬ夜ぞおおき」。「三諸」は三輪山のこと。(三輪山の神々しい杉の木のような貴女を夢にでも見ようとするけれど、寝られぬ夜が多いことよ)。「三輪山の山辺真麻木綿(やまべまそゆう)短木綿(みじかゆう) かくのみからに 長しと思いき」。(三輪山の山に生えている短い草のようにみじかいちぎりであったのに、末永くと思ったことであったことよ)。「山吹の立ち儀(よそ)ひたる山清水 酌みに行かめど道の知らなくに」。「山吹の立ち儀ひたる山清水」は黄泉を暗示する。(黄泉の国へ行ってしまった十市皇女の許へ行きたいと思うが行く道を知らないことよ)。