お園
2月26日の天声会の小唄会で、春日とよの名曲「お園」を唄わせて貰いたいと思って世話役に申し込んだら、もうその曲は他の人が唄うから駄目と断られてしまった。残念だが又いつか唄わせて貰えることもあるだろうと、今回は諦める事にした。この曲は、三勝半七を唄ったもので、子供の頃、父が義太夫が好きで、よくこの曲を聴かされたのと、私が小唄を習い始めて三年目の暮、名古屋へ転勤させられた時に丁度この唄を習っていて、「今頃は半七つぁん 何処でどうして霜の夜を・・・」という義太夫節に、単身赴任の寂しさを揺さぶられた想い出のある曲なのである。
この唄は、春日とよさんの一番油が乗った頃に作られた芝居小唄で、芝居は、元禄時代の三勝半七の心中事件を題材とし、1772年(安政元年)12月、大阪・豊竹座で人形浄瑠璃として上演されたもので、名題は「艶姿女舞衣」(はですがたおんなまいぎぬ)。梗概は、大和国(奈良)の五条の酒屋・茜屋の跡取り息子の半七が、お園という新妻のある身で、遊女屋に入り浸って、三勝という遊女と馴染み、それが素で他の客と喧嘩になり、挙句その客を殺してしまう。半七はお尋ねものとなり、最早是までと、三勝との間に出来た乳飲み子を茜屋の玄関先に捨て子し死出の旅に立つ。哀れなのは、処女妻のお園。そのお園の口説き「去年の秋の患いに いっそ死んでしもうたら・・・」という義太夫の節は今でも覚えている。
歌詞は、「何時しか更けて木枯しの 軒打つ音も身に迫る 置行燈の影淡き 帳場格子にしょんぼりと 鬢のほつれも涙にしめる 鴛鴦(をし)の方羽の方思い 今頃は半七つぁん 何処にどうして霜の夜を 掠めて響く鉦の音は エエ気にかかる 寒念佛」。
春日とよは明治14年うまれ。父は英国人。母は浅草芸者。とよも16歳のとき芸者となり、「混血(あいのこ)芸者」と言われ人気を集めた。文学と芸事が好きで、常磐津、清元、長唄、一中、義太夫、園八などを習得し、昭和5年、49歳で小唄界にデビュウし、それ以来半生を小唄に打ち込んだ。「お園」は、昭和18年5月(と夜62歳)の開曲で、今でも唄、三味線とも人気が高い。この唄の作詞をした人は、亀山静枝という女流作家で、とよはこの歌詞がすっかり気に入って、得意の義太夫節を取り入れて、歌舞伎舞踊小唄として作曲した。「何時しか更けて木枯しの軒打つ音も身に迫る」まで低く出て、「しょんぼりと」から「鴛鴦の方羽の方思い」はカンをきかせ、ここで合いの手に本調子の替手を入れてたっぷりと糸を聴かせる。最後は「寒念佛(かんねぶつ)」で小唄調の高上がりで終る。唄いでのある小唄である。
日本古代史
聖武天皇(701~756)が、全国に国分寺を建てさせ、その上、12年の歳月を掛け、莫大な財力を注ぎ込んで、東大寺に、当時世界最大の金メッキの大仏を建立したのは、表向きは仏教を広めるためとか仏の功徳を民衆に施すためとか綺麗ごとをのたもうておられるが、本当はそうではなかった。
続日本紀という本に、国分寺と東大寺大仏の建立は、光明皇后の勧めによると書いてあるそうな。聖武の皇后・光明皇后は、藤原不比等の娘で光明子といい、臣下の身分から皇后になった第一号で、熱烈な仏教信者であった。仏教は、552年に百済からの渡来人が、中国から伝来した有難い仏教というものを有難い仏像と一緒に、欽明天皇にお土産として献じて以来、皇族や貴族の間で信仰されてきたもので、民衆のものではなかった。
聖武と光明皇后との間に、基(もとい)王という男子が生まれたが、一年後に病死した。その後、皇后には男子は生まれず、妃の県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の方に安積(あさか)親王という男の子が生まれ、聖武の血を引く男系の皇位継承者となる筈であったが、それを差し置いて皇后が基王の後で生んだ阿倍内親王が皇太子(後の孝謙女帝)に指名された。その挙句、安積親王は、僅か17歳で急死するが、これは偶然とは考えられない。血に汚れた藤原の手がなした仕業であろう。
藤原の血筋を引く光明皇后の娘を皇位を継がせようとする最高権力者の専横を苦々しく思い、唯一男系皇位継承資格者・安積親王を皇位に立てようとし、難波に遷都して聖武を藤原から引き離そうとしたのが元正太上天皇で、時の右大臣・長屋王もこれを支持した。そのため、安積親王が殺され、長屋王も藤原四兄弟の謀略により謀反人のレッテルを張られて殺害された。
732年から737年にかけて、旱魃、不作、飢饉、地震、山火事、疫病などが次々と起きた。長屋王を忙殺した藤原四兄弟も天然痘に罹りあっという間に死んだ。人々は、これらの変事を長屋王の祟りと恐れおののいた。持統、天武、文武、聖武と続いた持統王朝は、藤原の血筋を天皇の座に坐らせようとして、罪のない高市皇子、大津皇子、長屋王、安積親王など次々に殺してきた。親子孫三代に亘る藤原権力の犠牲者の怨念を鎮め、その祟りから逃れるには、絶大な仏の力に頼るほかなかった。これが聖武天皇・光明皇后をして、全国に国分寺を建てて経を納め、東大寺に巨大な仏像を建立させた本当の理由であった。
万葉の世界
44代元正女帝及び45代聖武帝に仕え、歌聖・柿本人麻呂の流れを汲む叙景詩人として名を成した山部赤人が現れた時代は、歴史的には白鳳から天平への過渡期と言える。724年元明太上帝の崩御に際し、44代元正女帝より譲位を受け、聖武帝が即位。赤人はその年、聖武帝の紀伊国行幸に従駕、更に翌年の吉野、難波の行幸、次の年の播磨国印南野行幸、734年(天平六年)の難波行幸、736年(天平八年)の吉野行幸にもにも供奉して寿歌を奉った。その他、広く各地を旅し、優れた叙景歌を多く残しているがあ、官人としての経歴は詳らかでない。
赤人が富士の山を見て作ったと言う次の長歌と反歌は、赤人の代表作として余りにも有名であり、解説の必要も無い。 長歌「天地(あめつち)の分れし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 陰も隠ろい 照る月の 光も見えず白雲も い行き憚り時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ言い継ぎ行かむ 富士の高嶺は」(3-317) 反歌「田子(たこ)の浦ゆ 打ち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」(3-318) この反歌は、長歌から独立して現代の読者に愛誦されている。
また、次の短歌もよく知られていて、解説するまでも無い。短歌「若の浦に 潮満ち来れば潟をなみ 芦辺を指して鶴(たづ)鳴き渡る」(6-919) この短歌は、724年10月5日、聖武帝が紀伊の国の玉津島に行幸された時、従駕した赤人が帝に奉った寿歌「安見しし わご大王の・・・・」云々という長歌の反歌として詠まれたもので、赤人の優れtクァ叙景歌とされている。玉津島からの眺めは、紀ノ川が海に注ぎ、極めて風光明美で帝を喜ばせた。そこで帝の命により、弱浜(わかはま)の地名を改め明光浦(あかのうら)と称することになったと言う。これが「若の浦」となり、更に現在の「和歌の浦」となった。
万葉時代の末期、赤人を高く評価したのは、万葉集の編纂者とされる大伴家持で、その後、古今和歌集の序文の中で紀貫之が、人麻呂と並べて賞賛の言葉を連ね、近世になって赤人の歌人としての力量を最も高く買ったのは賀茂真淵であるといわれている。それらの評価の後、赤人の声価を不動のものとしたのは、島木赤彦、斉藤茂吉、中村憲吉などアララギ派の歌人たちであった。特に中村憲吉が、晩年、病の床で筆を入れたと言う「山部赤人論」は一読に値するという。
また、島木赤彦は、万葉集巻六、雑歌の部にある924番、925番の短歌を激賞している。この短歌は、925年5月,聖武帝の吉野行幸に従駕した際、一首の長歌を作り帝に献じたがその反歌として作られたものである。
「み吉野の 象山(さきやま)の際(ま)の木末(こぬれ)には ここだもさわぐ 鳥の声かも」(6-924)
「ぬばたまの 夜の更け行けば 久木(ひさぎ)生ふる 清き川原に千鳥しば鳴く」(6-925)
広尾から麻布までー江戸の名所を歩こう会
12月24日(日)快晴、邦楽の友社主催、第25回江戸の名所をお歩こう会に参加。この日はクリスマスイヴ。日曜日のクリスマスイヴなんて、今夜の銀座はさっぱりでしょう。今日の歩こう会の参加者は、500円程度(上限なし)のプレゼントを持って行くことになっている。10時、東京メトロ日比谷線広尾駅1番出口に守谷社長、目賀田蓼派会事務局長以下14名ほど手ごろな人数が集まる。
最初の目標は、有栖川宮記念公園。ここは、江戸時代、奥州南部藩下屋敷跡で、明治時代は有栖川宮家で使用、大正になって高松宮家と称号が変わり、昭和9年に東京都に下賜された際、旧称号に戻し現在の名称になった。
公立図書館として最大の蔵書(148万冊)を有する都立中央図書館、9月6日、秋篠宮紀子様が悠仁親王を出産された愛育病院などを横目で見て仙台坂を降る。この坂の南側一帯は、江戸時代、仙台藩伊達家の下屋敷のあった所。現在この辺は、外国の大使館が多く、警備員が一日中目を光らせていて、胡散臭い人が通ると誰何される。若し誰何されたら、関係ありませんとはっきり答えて下さいとガイドからの注意事項。韓国大使館の警備員が一番しつこいそうだ。団体か個人か。何処から来たの何処へ行くのと尋問するらしい。
仙台坂を降り切った所に麻布山善福寺という寺がある。この寺は、平安時代824年、唐から真言を修めて帰った弘法大師が真言宗を広めるために開山した寺で、都内では、浅草の金竜山浅草寺に次ぐ古い寺。鎌倉時代になって、親鸞聖人に深く帰依したこの寺の住職・了海によって浄土真宗に改宗され、関東地区における同宗布教の拠点となった。その後浄土真宗は民衆の中に深く根付き、やがては一向一揆にまで発展する。一向一揆に手を焼いた信長が石山本願寺を攻めた時、当山からも援軍を送ったと記録に残っているという。
現在、港区に虎ノ門という地名が残っているが、その地名の由来は、そこには当時、この寺の山門があって、それを虎ノ門と称した名残という。又現在杉並に善福寺池というのがあるが、そこには当時この寺の奥の院があった名残であるという。当時、この寺の寺領が如何に広かったかが分かる。
この寺は、鎌倉時代、蒙古襲来の際、亀山天皇の勅願寺となり、そのご利益で神風が吹き、蒙古軍が撃退されたと信じられたため、朝廷から厚く遇された。秀吉も徳川の将軍たちもこの寺を大事にした。江戸時代が終わり明治になって、この寺はアメリカ合衆国の公使館となり、初代公使・ハリスがここに住んだ。この寺の本堂は、太平洋戦争の時、空襲で焼けてしまったが、その後、大阪府八尾市の東本願寺別院の建物を移築、再建した。
この寺の境内にある公孫樹の大木は、幹の周り10.4m、樹齢750年以上で、親鸞聖人が寺を去る際、持っていたイテフの杖を逆さに地上に立てたのが其の儘根付き、枝葉が茂って今日に至ったといい、御杖公孫樹と称され有名である。気根が枝から垂れ下がり、木がまるで逆さに生えているように見えるので逆さ公孫樹とも称される珍しい木である。(写真)
この寺の惣門と中門の中間に「柳の井戸」という井戸があり、市街地には珍しい伏流水が湧き出ている。二十数年前までは、豆腐屋が仕込み用に水を汲みに来ていたという。現在は当時とは比較にならないほど水量が減っている。傍らに柳の木があり、正式な名称は楊柳水といい、東京の水を代表する名水であったという。この寺には、福沢諭吉の墓もある。
最後は、一の橋を渡って右に入った突き当たりにある、「東京さぬき倶楽部」での昼食。ここは以前「讃岐会館」と称した所であるが、明治時代、蜂須賀公爵家の下屋敷の跡であると聞いている。蜂須賀家の財産整理のとき香川県がここを買い取り、ホテル兼レストランとした。今でも香川県人は一泊9,000円の半額4,500円で泊まれるので、香川県からの出張や修学旅行に良く利用される。郷土料理が美味しく、ここの酒は香川県の名酒「金陵」、郷土料理の後は讃岐うどんで締めくくるという寸法。ここで持参したプレゼントを籤引きで交換。チョコレートが当る。いいご機嫌で帰途に着く。今日は楽しい一日であった。守谷社長に感謝!
小唄人生
来年1月7日、熱海で行われる春日とよ五和乃会の新年会で、新派小唄「鶴八鶴次郎」の上調子を弾かせて貰うことになった。この唄は、昭和十年第一回直木賞受賞作品、川口松太郎の原作「鶴八鶴次郎」を脚色、昭和十三年、久保田万太郎演出で明治座で初演。花柳章太郎の鶴次郎、水谷八重子の鶴八で、新派の当たり狂言となり、昭和三十四年には上演回数一千回を記録した。小唄になったのは、昭和十五年で、河上渓介の作詞、春日とよの作曲で開曲されたが、河上渓介の簡潔にして情感溢れる歌詞を得て、春日とよの新派小唄の最高傑作となった。現在、小唄の会で別名「心して」の出ない会はないほどよく唄われている。作詞者の河上渓介は、「心して」の他に「久しぶり」、「水芸に」など、春日とよの名曲のいくつかの作詞を手懸けている。
この唄の歌詞、「心して我から捨てし恋なれど 堰くる涙堪えかね 憂さを忘れん杯の 酒の味さえほろ苦く」
〔芝居の梗概〕明治の末めから大正にかけて、東京の寄席や名人会で人気のあった新内語りのカップルの話。このカップルは、太夫・鶴賀鶴次郎(二十九歳)、糸が鶴八(二十四歳)で、表向きは兄妹と言う事になっていたが、実は本当の兄妹ではなく、鶴八は先代鶴八の一人娘・豊(とよ)で、鶴次郎は先代鶴八の愛弟子。二人は互いに芸一筋に生きる者同志を装っていたが、心は何時しか惹かれ合っていた。
しかし、鶴八は、鶴次郎が一向に夫婦になろうと言ってくれないし、気のあせりもあって、湯島の百万長者、伊予善の若主人・松崎から結婚を申し込まれたのを機に、鶴次郎に相談すると、鶴次郎は、お前に嫁に行かれたら俺は誰の三味線で語れるというのかと、日頃の意地を捨てて泣きじゃくるので、鶴八も心無い事を言ったと謝り、二人で所帯を持って寄席を出そうと約束する。
ところが、鶴八が、寄席を出す金の大半を、伊予善から借りたということから、鶴次郎が鶴八に疑心を持ち、二人は別れてしまう。その後、鶴次郎は、独りで新内の弾き語りで寄席にも出るが人気はガタ落ち。自暴自棄になった鶴次郎は、酒びたりになり、次第に心も身体も落ちぶれていった。伊予善の若女将に納まった豊は、そんな鶴次郎が哀れになり、ある日、鶴次郎に、又二人で組んで新内をやろうじゃないかと持ちかけ、鶴次郎もその気になって二人のコンビで名人会に出る。息の合った素晴しい演奏で観客を沸かせたが、鶴次郎は、鶴八の腕が落ちたと散々に罵倒し、自分から鶴八を捨て、涙をこらえながら独りほろ苦い酒を飲む鶴次郎。そうでもしなきゃ、あいつは、折角伊予善の女将に納まったのにまた芸人に戻って来てしまうじゃないかと、涙ながらに呟く鶴次郎であった。
昭和50年頃、新橋界隈で、「お時さん」と呼ばれた新内流しがまだ生きていて、うら寂しい新内の前弾きを独りで奏でながら流して歩いていた後ろ姿が、恋に破れた鶴次郎の姿と重なって思い出される。
日本古代史
聖武天皇の時代、729年に起きた長屋王(ながやのおおきみ)の悲劇について触れておきたい。長屋王は、壬申の乱の英雄であった高市皇子(たけちのみこ 天武帝の子)の第一皇子である。720年8月、藤原不比等が、六十二歳で急死し、翌年1月、長屋王は不比等の後を受けて右大臣となり、朝廷における最高の政治的地位に上り詰めた。朝廷では、二十五歳の若さで亡くなった文武天皇の姉の元正女帝が皇位を継いでおり、文武帝の子、首皇子(おびとのみこ)はまだ若かった。
この頃の朝廷は、天武天皇の血を引く舎人(とねり)親王、新田部(にいたべ)親王などの守旧派(長屋王が中心的存在)と、不比等亡き後の藤原四卿(武智麻呂《むちまろ》、房前《ふささき》、宇合《うまかい》、麻呂)等を中心とする革新派とが対抗して勢力を争っていた。長屋王が、朝廷における藤原氏の独走に反対し、藤原光明子(ふじわらのこうみょうし 不比等の娘 後の光明皇后)を聖武天皇の皇后にすることを阻止しようとしたため、藤原氏に陥れられ、謀反の首謀者として自刃させられ、妃や王子たちも自害させられた。
長屋王の抹殺は、藤原氏によって仕組まれた陰謀であった。長屋王の死から半年後、藤原不比等の娘・光明子は、皇族でない臣下の娘から初めて皇后の位に就いた。その後起きた732年の大かんばつ、734年の大地震、735年の疫病流行、737年には、長屋王を陥れた藤原四卿が相次いで疫病で死ぬという惨事が続き、世の人は長屋王の崇りと恐れたという。
昭和61年~63年、奈良そごうデパートの建設予定地を発掘調査した際、大量の木簡が出土した。これを詳しく調べた結果、この地が長屋王の屋敷跡であることが判明した。しかもこの木簡の分析で、710年から717年頃までの長屋王の生活状態が明らかとなり、それが想像以上に豪奢なものであることがわかった。
長屋王の屋敷の広さは、凡そ1千坪で、南半分が、長屋王及び妻子の居住施設及び儀式用施設、北半分が使用人居室、倉庫、工房、厩などに使用され、使用人は数百人と推定される。領地からは色々な産物、例えば摂津国の塩鯵、伊豆国の荒鰹、上総国のエゴマ油、武蔵国の菱の実、美濃国の塩鮎、若狭国の塩、越前国の栗、阿波国の猪肉、紀伊国の鯛などが季節毎に到来し、米や野菜は毎日運び込まれた。犬や鶴なども飼っており、これらにも米を与えた。領地内に氷室を持ち、夏には毎日氷を運ばせた。舞の名手を専属に雇っていた、という驚くべき豪華な生活ぶりであった。
万葉の世界
697年、持統女帝は、草壁皇子の軽皇子に譲位し、軽皇子は十五歳で42代文武帝となった。702年、持統上皇五十八歳で崩御。前年の701年、藤原不比等が、大宝律令制定の功により、正三位大納言に叙せられた。不比等は、娘・宮子を文武帝の妃に、更にその異母妹・安宿媛(あすかひめ 後の光明皇后)を聖武帝の皇后に入内させ、藤原氏繁栄の基礎を築いた。皇族以外の臣下の身分から皇后となったのは、史上初めてである。
不比等の娘・宮子というのは、実は不比等の養女で、出自は紀伊国日高郡、九海士王子(くあまおうじ)の里の海女であったとする説がある。「宮」という名で呼ばれた賎しい身分の娘であったが、采女として宮廷に仕えるや、生来の美貌で忽ち文武帝のお目に留まり、何とか妃に出来ないかということで、それでは一旦「宮」を不比等の養女にして、娘・宮子ということにして差し上げればよいでしょうと、不比等の権盛欲の絡んだ献策により、十八歳の宮子は十五歳の文武帝の妃となった。文武帝十九歳、宮子二十二歳のとき首皇子(おびとのみこ 後の聖武帝)誕生。
707年、文武帝二十五歳の若さで崩御。首皇子がまだ幼少であったので、遺詔により文武帝の母・元明帝即位。柿本人麻呂が死んだのが704年から707年頃と推定される。710年、藤原京から平城京へ遷都。715年、健康上の理由から元明帝が退位し、文武帝の姉の元正帝即位。720年、不比等が六十二歳で急死する。724年、首皇子が二十四歳で即位。45代聖武天皇という。710年の平城京遷都から784年の長岡京遷都までを天平時代といゝ、天皇の庇護もあって、仏教が盛んになり、仏教文化の華が開いた。渡来人の技術により、東大寺、奈良大仏、など大規模な造寺造佛が盛んに行われた。北九州の大宰府にいて太宰少弐だった小野老(おののおゆ)が、「青丹よし 寧楽の京師(ならのみやこ)は咲く花の 薫(にほ)うがごとく今さかりなり(328)」と天平文化のの華咲く時代を歌い上げ、その少し後の734年、聖武天皇に仕えた官人貴族の海犬養岡麻呂(あまのいぬかいのおかまろ)が「御民われ 生けるしるしあり 天地の栄ゆる時に遇えらくおもえば(996)」と、天皇の詔に応えてこの歌を捧げた。
聖武天皇(影像)は、天平時代という古代律令制の成熟期に君臨した天皇として、絶大な権威を有し、死後も偉大な聖王として官人、僧侶、民衆から尊崇された。歌人としても優れ、万葉集には11首が載せられている。しかし聖武天皇の御世はいいことばかりではなく、729年の長屋王の変の後、色々な異変が起きた。
小唄人生
来年2月5日(月)、お江戸日本橋亭で催される室町小唄会第20回記念会に、「宵の謎」を唄いたいと思っている。この唄は、上田哥川亭の作詞、吉田草紙庵の作曲で、最も良く唄われる小唄の一つである。歌詞は、「紫の羽織の紐の結び目の どうして固い心やら 案じ過ごしてつい転寝の 片敷く袖の肘枕 まくら行燈のほんのりと ゆかりの色の小夜時雨 濡れながら見る夢占に 涙で解けた宵の謎」。
芝居は、文豪・菊池寛が大正八年四月に発表した小説「籐十郎の恋」を、大森痴雪が三幕物の芝居に脚色し、同年十月、大阪難波座で、中村鴈治郎一座により初演、それ以来籐十郎は鴈治郎の当り芸となった。この芝居を題材にした小唄は他にもある。土屋健作詞、黒崎茗斗、本木寿以合作曲の「お梶」である。この「お梶」の歌詞は、ほぼ芝居の筋書通りで解り易いが、哥川亭の歌詞は難解である。草紙庵も、哥川亭の唄は難しくて節が付け難いとぼやいていたという。哥川亭は、小唄「白扇」の歌詞を作ったことで知られているが、草紙庵は、哥川亭の唄は「白扇」を含め三つしか節付してない。哥川亭の本業は、兜町の株屋さんで、俳句の縁で岡野知十と親しく、その関係で草紙庵に「宵の謎」の節付を頼んだものと思われる。小唄評論家・木村菊太郎氏の説によると、哥川亭は、昭和元年四月、歌舞伎座で催された東西合同公演で、鴈治郎の「籐十郎の恋」を観て、「宵の謎」を作詞したと推定されているが、これに対し英十三氏が真っ向から疑問を投げかけておられる。(鳳山社発行 安田長弘編 草紙庵の小唄解説集 120頁)
英十三氏は、明治二十一年うまれの江戸っ子で、若い頃から文学が好きで、里見 弴と親友になったが、里見は作家になり英十三は帝大法化を出て実業家となり、趣味として歌沢、一中節などを嗜み、小唄に関しては、草紙庵の数多くの名曲の作詞を手懸けた。「宵の謎」が「籐十郎の恋」を唄ったものかどうか、一度確かめれば良かったのに、その機会を逸し、後世に悔いを残した。今や哥川亭も草紙庵も英十三自身も木村菊太郎(18.10.22 93歳)も、謎を残した儘、皆んなあの世へ旅立ってしまった。「宵の謎」が、昭和七年開曲以来、余りに持て囃されたので、英十三氏が聊か焼餅を焼かれたのではないかと私には思われる。
英十三氏による「宵の謎」の謎というのは、先ず何で題を「藤十郎の恋」とか「お梶」とか解り易い題にしなかったのか。二番目に「紫の羽織の紐」とは何だ。これは待合か遊郭などへ遊びに行って馴染女から着せてもらった羽織の紐ではないのか。三番目に「涙で解けた宵の謎」が、何で自害と結びつくのか。この哥川亭の唄は、情のない固物男に対する女の気持ちを唄ったものではないのか、というのが英十三氏の解釈である。だがこの解釈は、聊か的外れではないかと思う。
私が検証するのも鳥滸がましいが、哥川亭の「宵の謎」は、英十三氏の言うような、そんなニヤけたものではない。題を「宵の謎」としたのは、歌詞の最後が「宵の謎」で終わっており、ここがこの曲のクライマックスだからであり、「紫の羽織の紐」というのは、芝居(上方歌舞伎の世話物で全体が色っぽい)を観れば解る筈であるが、藤十郎の姿は、髪を茶筅に結った色白の美男で、その出で立ちは、鼠縮緬の引き返しを着、唇茶の畳帯、その上に黒羽二重の両面芥子人形の羽織を打ちかけており、紫の紐が着いていても少しも可笑しくない。
「涙で解けた宵の謎」は、三幕目の最後の場面。二月も末のある晩、芝居茶屋・宗清の大広間。弥生興行の顔繋ぎの宴席で、藤十郎が密通芝居の工夫が付かず、独り席を抜け出し自分の部屋へ戻って台本と睨めっこ。偶々布団を敷いて出て行こうとするお梶を呼止め、二十年来想い続けたと偽りの恋を仕掛けたのを、演技とはつゆ思わず、藤十郎の手の中へ落ちてしまった四十女の人妻お梶だった。 わなわなと震えながら男の身体を受け入れようとして行燈の明かりをふっと吹き消すと、藤十郎はするりと闇の中へ。仲間のいる所へ戻って来るや籐十郎は立て続けに茶碗で酒を二、三杯ガブ飲みし、相女形に密通芝居の工夫が出来たから安心しろと息を弾ませて告げた。弄ばれたお梶は、涙の中でそれを悟る。この所「涙で解けた宵の謎」の文句がぴったり。それから七日間、興行は大当たりで千秋楽を迎える。
役者たちから、藤十郎に人妻と密通する演技の工夫を教えたと陰口を言われるお梶であったが、弄ばれたとは言え、一旦はその気になったお梶は、千秋楽の日、藤十郎の楽屋で、短刀で胸を一突き、自害して果てる。当時(元禄十年の設定)、現実に密通するということは死ぬ覚悟を意味した。(附)藤十郎の最後の科白、「藤十郎の芸の人気が女一人の命で傷つけられてたまるか!(相女形の手を取りながら)さあ千寿どの、舞台じゃ!」。木の音と共に静かに幕が降りる。ああ、なんと芸術至上主義!
「宵の謎」が開曲されたのは、昭和七年四月、横浜・磯子小唄会で、唄・初代菊地満佐、糸・草紙庵で、刷り物には伊東深水の絹行燈の絵が描かれていたというから、最早籐十郎に違いないが、よしそれが籐十郎の唄でなかったとしても、この唄が名曲であることは変りはないと私は言いたい。
蛇足であるが、千種や小唄全書には、「紫の羽織の紐の結び目に」となっているが、木村菊太郎の昭和小唄には、「紫の羽織の紐の結び目の」と記してあり、私が私淑した已まない中田末男大名人もそのように唄っている。哥川亭は俳句の方だから「紫の羽織の紐の結び目に」と作ったかも知れないが、やまとうたでは、柿本人麻呂の「あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の」の伝で、「紫の羽織の紐の結び目の」でなければ唄い難いと思う。
日本古代史
前回のブログで、タイトルを「万葉の世界」とすべきところを、誤って「小唄人生」としてしまいました。お詫びして訂正します。前回、柿本人麻呂の像とされている絵をお見せしましたが、この絵は、江戸時代に描かれたもので、作者不詳です。藤原顕季という人が書いた「柿本影供記」と言う本に、「着烏帽子直衣 左手操紙 右手握筆 年齢六旬余之人」と記してあるそうです。左上の歌は、「ほのぼのと あかしの浦の朝霧に 島がくれゆく 船をしぞおもう」で、人麻呂の代表作の一つとされているそうです。
前回、人麻呂が生きた白鳳時代について概略を記しましたが、政治面の陰鬱な権力争いとは裏腹に、文化の面では、清新な生気に満ちた、若々しい気風が感じられるので、それについて若干触れてみたいと思います。白鳳の文化が、その前の飛鳥の文化と、どう違うのかと言いますと、飛鳥の文化は、南北朝時代の中国の文化が、百済や高句麗を経由して、日本に渡来したのに対して、白鳳の文化は、新しく統一された唐の文化が、遣唐使などを通じて、直接日本に影響を与えたもので、代表的なものとして、建築、彫刻、絵画などの分野で、薬師寺東塔、興福寺の佛頭(写真)、法隆寺の壁画、高松塚古墳の壁画など、また、学問、文芸の分野では、古事記、日本書紀など国史編纂の開始、万葉集の編纂などが挙げられます。
これらの中の、興福寺の佛頭は、白鳳文化の特徴を最もよく現した代表的仏像彫刻とされていますが、この佛頭には数奇な運命が隠されているのです。この佛頭は、685年(天武帝14年)に完成した山田寺講堂に置かれた薬師如来の頭部だったのです。山田寺は、現在は寺の跡しか残っていませんが、元々蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿の従兄弟)という豪族の氏寺だったのです。石川麻呂が謀反の疑いを掛けられこの寺で自害しましたが、あとで疑いが晴れて、皇室の援助を受けて立派な寺になりました。後の世になって、山田寺が興福寺と争ったとき、興福寺の坊主が、山田寺の薬師如来の頭を強奪していったらしい。それが昭和12年の興福寺金堂の修理の際、須弥壇の下から発見されたのでした。この佛頭の表情は、若々しい力に満ちた感じで、如何にも白鳳時代を思わせるようです。
小唄人生
和歌の聖と謳われた人麻呂については、今月11日のブログに、多恨の詩人・人麻呂というテーマで、その恨み多かりし生涯に触れた。人麻呂の他に、数多い万葉歌人たちに視線を移す前に、もう一度、人麻呂が生きた時代・白鳳時代を振り返ってみたい。白鳳時代とは、飛鳥時代から奈良時代への橋渡しとなる時代で、年代で言えば630年~710年、天皇の代で言えば、推古朝に次ぐ34代舒明帝~42代文武帝の終り迄の凡そ80年間を言う。
この間、朝鮮半島では、660年、百済が唐・新羅の連合軍に滅ぼされ、多くの難民や官人が難を逃れて渡来し、国内では、643年に蘇我入鹿が山背皇子一族を皆殺しにし、聖徳太子の子孫が絶えた。645年、大化の改新の勅が発せられ、中大兄皇子・中臣鎌足のコンビで蘇我氏を滅し難波宮へ遷都、658年、有間皇子処刑、667年、近江大津宮へ遷都、672年、天智天皇没するや弟の大海人皇子が武力で帝の子・大友皇子から皇位を奪うという壬申の乱が勃発、40代天武天皇が即位し、都を飛鳥に移す。686年、大津皇子処刑、694年、藤原京遷都。701年、藤原不比等は大宝律令制定の功で正三位大納言に叙せらる。
710年、平城京遷都。白鳳時代は、美術や歌の世界では輝かしい時代であるが、政治の世界では、王権を巡り皇族間の血生臭い争いが絶えなかった時代で、不比等が宮廷を牛耳るようになって、人麻呂も何らかの事件に巻き込まれた可能性が強い。
壬申の乱が治って天武天皇が即位し、讃良皇女が皇后となってからの十数年間、若い人麻呂が頭角を現してきた。天武帝が皇后に生ませた草壁皇子が皇太子となったが、病弱のため早逝し、天武帝の没後、皇后は自ら41代持統天皇として即位し、草壁皇子の忘れ形見・軽皇子を育てた。軽皇子が成人した或る日、人麻呂がお供して飛鳥の東・阿騎野というところへ父を偲んでの旅をした。そこはその昔、父・草壁や若い人麻呂が狩をして遊んだ地である。その時人麻呂が作った歌が巻一に載っているが、その中から有名な二首を紹介する。
「阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき いも寝らめやも 古(いにしへ)おもうに(46)」
(阿騎の野に宿る旅人よ 長々と手足を伸ばして安らかに寝られようか 昔のことが偲ばれて とても寝られはしない)
「東の 野にかぎろいの立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ(48)」
この歌は、解説するまでも無く、人麻呂の傑作として今でも人口に膾炙しているが、原文は、「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」。これを「ひんがしの 野にかぎろいの立つ見えて・・・」と見事に読み解いたのは、江戸時代の国学者・賀茂真淵である。
因みに、小倉百人一首に人麻呂の作とされている「あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を独りかも寝む」という歌は、万葉集では、詠み人知らずとされている歌であるが、平安時代になって人麻呂の歌とされたものである。