辰巳の左褄
6月30日、新宿の堀川で催される蓼静奈美師匠の浴衣浚いの会で、小唄仲間の山下さんが私の糸で「辰巳の左褄」を唄ってくれることになった。この小唄は、伊東深水作詞、清元寿兵衛作曲で昭和31年頃作られた芝居小唄であるが、数ある小唄のなかでこんなに多く唄われる唄も少ない。深水の歌詞もさることながら、清元寿兵衛の曲付けが、辰巳芸者の小唄振りを彷彿させて心憎く、唄えば唄うほど味のある唄で、これに立ち方も加わって辰巳芸者の艶と気っぷを見せてくれたら、それこそ大向うから「大当り」と声が掛かること間違いなし。
芝居の名題は、「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」。河竹黙阿弥作、文久元年(1861)七月、江戸市村座初演。通称「縮屋新助」又は「美代吉殺し」。深川八幡の八月十五日の祭礼を背景とした芝居である。日本全国到る所にある「八幡様」というお宮さんは日本全国到る所にあるが、十五代応神天皇を主神とし、神宮皇后及び仲哀天皇を併せ祀る神社で源氏の氏神であり、本来弓矢の神である。仏教伝来後、「本地垂迹説」により、応神天皇の本来の姿が阿弥陀如来で、その標識が八つの幡(はた)であることから八幡大菩薩と呼ばれた。これが八幡神社のゆらいで、この社のお祭りは鎮守様のお祭りとして、今でも各地で盛大に催されている。
深川八幡のお祭りは、暑い盛りの8月15日である。文化四年(1807)の祭礼が雨のため十九日に延びた午前十時過ぎのこと、練りこむ山車(だし)を見ようと群集がどっと永代橋に押し寄せたため、その重みに耐えかねて深川よりの橋脚が折れ、群集が押されて次から次へと川に転落し七百人ほどの死者が出た。芝居はこの事件を織り込んで作られた。
芝居の粗筋は、深川八幡の祭礼の日、越後から行商に出て来た縮屋新助が、土地のごろつきの赤間源左衛門に絡まれて困っているところを手古舞姿の仲町芸妓・新藁(しんわら)美代吉に助けられる。新助は美代吉に一目ぼれし、源左衛門も惚れた美代吉の口利きであっさり手を引くが、こんどは美代吉に身請けしたいから言うことを聞けと迫る。ぴしゃりと断られた腹いせに、美代吉の腕に彫られた新の字は誰だとなじる。縮屋新助が、俺がその新に字だというので、怒った源左衛門に眉間を叩き割られる。美代吉は予て穂積新三郎という浪人と言い交わし、腕に新の字を彫っていたのだが、新三郎は、失われた主家の家宝のつぼを探して浪人していたのであるが、もともと「おきし」という許婚がいて、家宝の壷を探し出し主家への帰参が叶えば「おきし」と結婚することになっていた。
新助と源左衛門が美代吉を巡って恋の鞘当を演じた深川八幡の祭りの日に、永代橋が落ちた。美代吉も祭りの山車を見に行って事故に巻き込まれたらしい。新助が小舟を出して様子を見に行くと丁度そこへ美代吉が落ちてきて新助に助けられる。美代吉に命の恩人と感謝されるが新助は美代吉に一緒になってくれと口説く。美代吉は新三郎の壷が見つかって帰参が叶うまで待ってくれと言い逃れる。
新三郎が探している家宝の壷は、おきしの兄で剣の達人である小天狗正作が苦心の末探し出す。しかしその壷を手に入れるには、五十両というまとまった金が要るということが判った。すると新助がその五十両は私に出させてくれという。美代吉もそんならといってその五十両を新三郎に渡すと、おきしが美代吉と新三郎の仲を知り、尼になるという。新三郎はおきしへの義理立てから美代吉に向かってこの金はお前が新助に体を売って作った金かと、美代吉に愛想づかしをし、起請の入った守り袋を美代吉に投げ返す。新三郎に愛想づかしをされた美代吉は、こんどは新助に当り、新助が出した五十両を新助に突き返し、満座の中で新助に恥を掻かせる。結末は、可愛さ余って憎さ百倍。裏切られたと知った新助は、五十両の金で村正の刀を求め、洲崎の土手に美代吉を呼び出し、自らの手にかけて美代吉を殺した。美代吉の守り袋の中から美代吉が長い間探していた実の妹であることがわかって新助はその刀で喉を突いて死ぬ。
この芝居の見所は、男心一筋の新助もさることながら、何と言っても美代吉の艶っぽさと気っぷ良さであろう。深川生まれの伊東深水は、昭和24年10月、東京劇場で、初代中村吉右衛門の新助、先代中村歌右衛門の美代吉でこの舞台を見て感激し、美代吉の中に辰巳芸者の真骨頂を見出し、「辰巳の左褄」を作詞したと言う。なお伊東深水には、大正末期に作った「辰巳ゃよいとこ」があるが、「辰巳の左褄」と好一対をなすものである。
大正末期、伊東深水作詞、常磐津三蔵作曲「辰巳ゃよいとこ」の歌詞:「辰巳ゃよいとこ 素足が歩く 羽織ゃお江戸のほこりもの 八幡鐘が鳴るわいな」
昭和31年、伊東深水作詞、清元寿兵衛作曲「辰巳の左褄」の歌詞:喧嘩は江戸の花笠や 町の揃いの半纏に 幅を利かせた秋祭り 揉んだ神輿のおさまりも つかぬ気性の勇み肌 宵宮にかかる永代の 浮名も辰巳深川や 八幡鐘の後朝(きぬぎぬ)に 仲町結ぶ富が岡 御神酒が利いた酔いと酔い 競う素足の意地っ張り あっしや辰巳の左褄」
〔語句解説〕
辰巳:深川が江戸城から見て辰巳(東南)の方角に当たることから、富岡八幡宮の門前に出来た遊女町を、吉原の仲之町に なぞらへて門前仲町と呼んだ。吉原は女郎が主で芸者は従、主として町人遊び場所であった。深川の芸者は、辰巳芸者と呼ばれ、気っぷの良さが身上であった。
羽織:吉原の芸者は羽織を着ることが許されず、座敷では白足袋が定めとなっていた。これに対し辰巳芸者は座敷で羽織を着ることが許され、年中素足で通すことを自慢にしていた。
八幡鐘;八幡神社の向かって右側に鐘楼があり、明け六つに鐘を突いて午前六時を知らせた。明治初年、神仏混淆の禁止
により、八幡鐘は仏式であるとの理由で撤去されていまい、以後、男女の朝の目覚めの機微を現す「八幡鐘の後朝」と言う言葉は死語となった。
左褄:芸妓や舞妓が長く裾を曳いた着物を着るときは、必ず左手で褄を持つ。これに対し花魁や遊女は右手で褄を取る。右手で褄を持てば着物の合わせ目は右。長襦袢の合わせ目も右にあり、男性の手が裾に入りやすい。これに対し左手で褄を持てば、着物と長襦袢の合わせ目は反対になるから男性の手が入り難くなる。つまり左褄とは、芸は売っても体は売らないという意味。因みに花嫁さんは右褄です。お分かりですか? ガッテン!
誇り高き敗者の書「万葉集」
前回「万葉の世界」のブログで、古代からのメッセージが隠されている山柿の門の秘密、その謎を解く鍵としての字母歌の暗号に触れ、万葉集が単なる古典文学の書ではなく、平安時代まで下がって山柿の門の秘密の伝承者であった源為憲(生年不明、1011年没、源氏物語が世に出始めた頃の人。いろは歌のほんとうの作者)が、万葉集に最終的に手を加えたのみならず、実在の人物に変えて柿本人麻呂という架空の人物を登場させ、権力に刃向かって処刑された実在皇族の存在を遂に万葉集から隠しおおせ、この改竄によって、初めて万葉集は世にだされ、日の目をみることが出来た。
最近、偶々新橋に用があってJR新橋駅に降りたところ、駅前広場で古本市が開かれていた。冷やかしの積りで覗いてみたら、大浜厳比古(おおはまいつひこ)と言う人が書いた「万葉幻視考」と言う本が目に入った。ちょっと面白そうだし値段も500円と安い(定価二千円)ので買い求めた。早速家へ帰ってパラパラとめくってみたら、梅原猛が序文を書いており、履歴を見ると1920年(大正九年)生まれ。梅原より五歳年上。同じ京大出。但し、梅原の哲学科似たいし大浜は国文科。京大卒業後、天理大学、神戸学院大楽などの教授を歴任、雑誌「万葉」の編集長も勤めた。
梅原は大浜氏を評して、詩人の魂を持った人が間違って学者になったようなものと言っている。大浜氏は糖尿病持ちの癖に無類の酒好きで、友と酒を飲んでは古代史や万葉の議論をしていたと言う。梅原も先輩の大浜氏に、余り酒を飲みすぎないよう忠告したが聞き入れず、1977年(昭和52年)、糖尿病からくる脳内出血でこの世を去った。享年五十七歳であった。生前、梅原の法隆寺論「隠された十字架」に触発され、「誰が、いつ、何のために万葉集を編纂したのか」を自らの命題として意識していた。万葉集は読めば読むほど分からなくなると言う。
私が買い求めた「万葉幻視考」と言う本は、大浜氏の死後、大浜氏が雑誌「すばる」に連載していた「新万葉考」を一冊に纏めたものである。その中で大浜氏は、記紀は勝者の書であるが、万葉は誇り高き敗者の書であると言う。記紀は権力者が自分たちとって都合の悪いことを覆い隠すためにつくったが、万葉には敗者の怨念が字にならない字で叫ばれているのだ。それは死について古代人の心にならないと分からない。古代人にとって死んだものは死の国で死霊として存在しているのだ。
万葉集巻一の一番の歌は二十一代雄略天皇の御製である。「籠(こも)よ み籠持ち・・・・」という歌で、菜をつむ籠を持った可愛い乙女よ、わしはこの国を治める天皇で、誰でも屈服させる強い力をもっているのだ。だからわしの言うことを聞けという歌である。二番目のの歌は、三十四代舒明天皇の歌で、「大和には群山あれど とりよろう天の香具山・・・・」というよく知られた歌である。この歌も国家権力を称える歌である。この二つの国家権力を称える歌が何を暗示しているのか。そこに大浜氏は、この二つの歌の間には、日嗣争いや陰謀で罪無くして殺された夥しい高貴の人の死霊がさまよっていると言う。例えば、眉輪王(まゆわのおおきみ 二十代安孝天皇を拭殺)であり、山背大兄王であり、崇峻天皇であり、蘇我蝦夷、入鹿出あり、斉明天皇であり、建王であり、孝徳天皇であり、有間皇子であり、大津皇子であり、大友皇子であり、古人皇子などである。
権力者としての雄略帝と舒明帝を巻頭に置いたということは、言葉としては表示されないが、これが万葉集の「序」としての意味を持つものと考えてよかろう。「万葉集はカタリとウタの文学である。然し文字に表わされないところに真の姿ががあると言うのは古典文学者・三谷栄一氏の言葉である。「怨霊信仰は孝徳天皇の頃から始まり、天智天皇の頃にはそれがはっきりした形であらわれてくる。万葉集もそのことを念頭に置かないと空虚な文学になってしまう」とは折口信夫博士の言葉である。次のブログ「万葉の世界」は、大浜氏の書を参考にして、「万葉のウタ と怨霊」をテーマにしたい。
木村荘八の「注釈小唄控」
先日、昼のクラス会の帰りに少し時間があるので、神田神保町の古本屋街に出て、邦楽関係の古書を専門に扱っている豊田書房に立ち寄って見た。左の入り口から直ぐの所に小唄関係の本が並んでいる。前に来た時見かけた木村荘八監修の「注釈小唄控」がまだあるかと思って目を走らせるとまだ売れずに残っていた。昭和36年、荘八の死後、定価600円で限定出版された本である。店頭価格は三千円で、古本としては安くはないが、昔の恋人に出会ったような気持ちで買い求めた。
木村荘八は、明治26年、東京下町・日本橋の生まれで、生家は牛肉店。京華中学を卒業後、十九歳の頃から画家を志し、岸田劉生らと親交を持った。大正4年、劉生や中川一政らと草土社を起こし、独特な写実様式を追求した。彼は又、新聞や雑誌の挿絵画家として、永井荷風の「墨東奇談」や船橋聖一の「花の生涯」など多くの名作の挿絵を手掛けた。
荘八は下町育ちで若い頃から長唄、歌沢などに親しみ、大正12年の大震災の直後、三十歳の時、福吉町の初代田村てるに小唄の手ほどきを受けた。その後夫人にも小唄を習わせ、自分は田村派小唄の師匠といわれる程になった。昭和27年3月59歳の時、杉並区和田本町の自宅に「和田堀古唄楽交」を開設し、親交のあった伊志井寛、宮田重雄、安藤鶴夫、伊志井夫人(のち三升延家元)、水谷八重子、浜田百合子、喜多村緑郎、田村小伊都(のち初代井筒家元)、田村千恵(のち初代千紫千恵家元)、田村万津江(のち三代目井筒会長)など、多くの小唄人を集め、古典小唄の研鑽を重ねた。
昭和31年から32年にかけて起きた田村派の内紛は、田村派の顧問をもって任ずる荘八にとって、一大痛恨事であった。その結果田村派は分裂、千紫派が誕生し、千紫千恵が初代家元となった。この時の心労が荘八の命を短めたのかもしれない。昭和33年11月、荘八は脳軟化がもとで忽然と世を去った。享年65歳であった。私が買い求めた荘八監修の「注釈小唄控」は、千紫会が発行元になって出された本である。この本には522のの古典小唄が収録されている。所どころに写真や挿絵が挿入されていて真に興味深い。又、田村てる家元の三味線の弾き方を絵入で解説しているのが面白い。右手は人差し指の先を親指の先で強く押して団子を作り、その団子で肉弾きする。左手の親指は「まむし」の形にして棹を掴みⅠ~Ⅲの指を動かし易いようにし、弦に対し直角に指を立てて弾くとある。初心者にも分りやすく大変参考になる。
荘八が古典小唄の粋を後世に残そうと、自ら選曲、監修し竹枝せん師と千紫千恵師に演奏を托した小唄集が、第十三回芸術商参加作品としてA面、B面9曲のレコードとしてビクターから発売された。その後、小野金次郎氏が監修に加わり、A面B面夫々16曲合計32曲のテープが発売されている。
法隆寺の謎ー隠された十字架ー1
今秋、多分十一月の初め頃、山の仲間達やクラスメートのグループで、二泊三日程の日程で、奈良を訪れる予定である。万葉の故郷、美しい日本に会いに行くと言いたいところだが、日本古代史を掘り起こし中の身としては、かつて日本の歴史に深く関わり、権力の座を欲しい儘にした藤原氏が、聖徳太子の子孫を皆殺しにした上でその崇りを恐れて再建したという法隆寺を現場検証する又とないチャンスでもある。
法隆寺が再建された時期については、日本書紀に再建されたという記載が無いことから、非再建説、仏像などの年代からかなり古い時代とする説、「資材帳(財物寄進の記録)」の分析などから、和銅年間(708~715)とする説など、色々見解が分かれているが、「法隆寺論ー隠された十字架」の著者・梅原猛氏は和銅年間説をとっている。梅原氏がこの本を書いたのは昭和56年であるが、平成13年(2001)に五重塔の一部を科学的に調査したところ、この柱は594年に伐採されたヒノキ材であることが判り、再建時期論争に新たな波紋を投げかけることとなった。
再建された法隆寺(焼失は670年)が、聖徳太子鎮魂の寺として、藤原氏から大きく扱われるようになったのは、和銅三年(710)に都が奈良平城京に移されてからである。そして五重塔、中門などが完成したのが和銅四年である。法隆寺の建物の寸法は、総て偶数で統一されている。五重塔は間口二間、中門は間口四間、講堂は六間とか。東洋思想では、奇数は瑞祥、偶数は不吉とされる。法隆寺の寸法が総て偶数であるということは、死霊の寺であることを意味している。因みに一月一日、三月三日五月五日、七月七日、九月九日など祝い事は総て奇数である。
法隆寺の建物群を大きく分けると、金堂、五重塔のある西院伽藍と、夢殿のある東院伽藍になる。中門(国宝・飛鳥時代)は、西院伽藍の入口の門で、間口は四間。入口の中央に大きな柱があり、出入りを邪魔している。飛鳥時代の寺院の門は、大抵三間又は五間で、四間は珍しい。これは、人が出入りする門というより、死霊が外に出ないよう閉じ込めて置く門なのである。
中門を入ると向かって右(東)側に金堂、左(西)側に五重塔がある。金堂の内陣には、法隆寺のご本尊で、真ん中に釈迦如来、右に薬師如来、左に阿弥陀如来が安置されている。左の阿弥陀如来は鎌倉時代の作と判っているが、右の薬師如来の光背の裏に銘があり、推古十五年(607 聖徳太子が斑鳩に氏寺を建てた年)に作られたと書かれているので、これが法隆寺非再建説の根拠となった。しかしこれは、その後の調査で、法隆寺の僧が「資材帳」をもとにして偽造したものと判明した。法隆寺には、他にもミステリーが一杯あり、梅原猛の「隠された十字架」を読みながら、暫く追いかけて見ようと思う。
伊豆湯ヶ島温泉白壁荘
平成19年5月17日(木)、いつもお世話になっている小唄の師匠と小唄仲間のH氏と小生の三人で、伊豆湯ヶ島温泉の和風旅館「白壁荘」の一泊を楽しんだ。お天気情報では雨ということだったが、なんと五月晴れの良い天気。師匠に、貴女は晴れ女ですか、と聞いたら、とんでもない、私は有名な雨女ですというお返事。日頃の心がけが良かったせいで、こういうこともあろうかと、飲み物を仕入れて、12時東京発の踊り子号に乗り込む。H氏は横浜からだから、そこまでは師匠と二人きり、周りはガラガラ。横浜からH氏が乗り込み、一緒にビールをのむ。師匠が買ってくれたお握りがおいしかった。
踊り子107号は15輌編成で、前10輌は熱海で切り離し後5輌が修善寺行き。14時6分に修善寺に着くと、旅館の車が迎に来ていた。新緑の中を気持ちよくドライブして白壁荘に到着。女将以下うやうやしくお出迎え。当初の予定では、「昭和の森グリンガーデン」を訪れて石楠花を観賞する予定であったが、今年の石楠花はもう花は終りとのことで、出掛けるのは諦め、夕食までゆっくり温泉に入ったりお茶を飲んだりしてくつろぐことになった。
夕食は、6時からで、お部屋にご馳走を運んでくれた。名物の牡丹鍋、鮎の干物、お刺身、伊勢海老の赤だし、山葵ご飯など皆美味しかったし、冷酒に摩り下ろした山葵を混ぜた山葵酒がワインのような味で珍らしかった。十分に飲み且つ食べて、さあこれから唄いましょうと師匠の三味線でH氏が得意の「から傘」や「味」などを披露。宿の若女将の祐香ちゃんも加わって「夜桜」を唄ってくれたりしておおいに盛り上がった。9時半ころお開きにしたが、これに熱海の五和乃師匠が参加していたら、夜半まで続けられたことであろう。なにしろ五和乃師匠は毎日午前二時頃まで起きていてブログを書いておられるのだから。
翌日、朝6時頃起床、H氏と二人で先ずビールで乾杯。澄んだ朝の空気でビールが一段と美味しい。この地に縁のある作家の井上靖は、北海道旭川の生まれであるが、母は湯ヶ島の医家の長女であった。父の任地の移動で、転々としたが、5歳の頃から湯ヶ島で祖母に育てられるようになった。沼津中学時代に文学に目覚め、やがて作家となり数々の文学賞を受賞し多くの名作を残した。その中に私が30代の頃、心を奪われた「氷壁」や現在NHK大河ドラマ「風林火山」なども含まれる。「氷壁」は映画にもなり、山本富士子、菅原謙次、野添ひとみなどの俳優たちの顔が目に浮かぶ。今年は井上靖生誕百年祭で色々な行事があり、白壁荘のご主人も講演を引き受けられたり文学散歩の案内人をされたりでお忙しいとHPに書いてあった。
8時に朝食を摂り、10時出発で修繕寺「虹の郷」まで旅館の車で送ってもらう。ここを訪ねるのは初めてであるが、残念ながら
日本庭園の石楠花の花は終り、花菖蒲はまだこれからで、フェアリーガーデンのバラが満開で綺麗であった。13時頃三島へ出て美味しい鰻を食べながら一杯やってから帰ろうと、前に来たことのあるお目当ての「水泉園」という鰻屋へ行ってみたら、「都合により本日休業」の張り紙が張ってあってお休み。噂ではご主人が亡くなられたらしいとのこと。やむを得ず「桜屋」という鰻屋まで歩いて行き、3時半頃までビール、日本酒でねばり、帰りの踊り子号ではみんないい気持でとろりーた。
古代からのメッセージー山柿の門
北山茂夫の「万葉集とその世紀」(上、中、下)三巻に噛り付くことから始めた「万葉の世界」探索も漸く終りに近づいてきた。私が中学生の頃から憧れ続けてきた「万葉の世界」であったが、敗戦後馬車馬の如く働き、歴史を振り返る暇も無く今日に至り、退職後、自分の為に始めたブログで辿り着いた「万葉の世界」とは、自分でも驚くほどの、予想も出来なかった結末であった。梅原猛氏が、「万葉集」を単なる古典文学の書ではないと言った言葉の意味が漸く判ってきたような気がする。
「万葉集」巻十七に、746年7月、29歳で越中守として富山に単身赴任をした大伴家持が、翌年の春、自分の部下で従兄の大伴池主(いけぬし)に、一首の長歌(3969)と共に書簡を送った事が出ている。その中の「山柿(さんし)の門に至らずして」という言葉が何を意味するかと言う事が大きな謎であった。これが実は、古代から後の世への、隠された歴史の真実を伝えるメッセージを暗示する言葉であったのである。この驚くべき内容を解き明かす鍵が、平安時代に作られた字母歌の暗号であった。
大伴家持は、万葉集の編纂者とされているが、今残っている「万葉集」の最終編纂者ではない。四世紀から収録された「万葉集」に東歌や防人の歌などを加えて全二十巻に纏めたのは家持であるが、この二十巻は宮廷内裏の奥深く収納され、長く人の目に触れることは無かった。万葉仮名の解読が困難であったことと、もう一つの理由、体制批判に繋がる秘密があったからであると推測される。その体制批判に関る秘密とは①藤原不比等の命令で編纂した「古事記」、「日本書紀」作成に携わったと言われる太安万侶、稗田阿礼は、山上憶良は同一人物で、歴史改竄の真相を知っている。②柿本人麻呂というのは架空の名前で、本当は藤原不比等によって「咎無くて殺された三輪高市麻呂」である。この秘密は、限定された人から人へ密かに伝えられたものと思われる。三輪高市麻呂と言えば、壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に勝利を齎した英雄である。
960年9月に起きた内裏の火災で、「万葉集」の原本は焼失してしまった。その後時代が降って平安時代の中頃、「万葉集」の写本を何処からか探し出し、藤原不比等に逆らって殺された硬骨の歌人・三輪高市麻呂の名を柿本人麻呂と変えて世に残した
人物がいる。それが古今和歌集の歌人・源順(みなもとのしたごう)の弟子・源為憲(みなもとのためのり)であった。為憲はその秘密を字母歌・「いろは」の中に暗号として残した。
いろはにほへと ちりぬるをわか よたれそつねな らむういのおく やまけふこえて あさきゆめみし えひもせす
このように「いろは」を7字づつに切り、最後の字を並べると「咎無くて死す」となるのである。「アイウエオ」が導入されるまでは、子供たちが仮名を覚えるのに皆この歌を習った。この歌の作者は弘法大師と言われているがそれはウソで、もっと後の平安時代に為憲が作った歌である。江戸時代の学者・契沖や賀茂真淵など、まんまと騙された口である。しかし、同じ江戸時代でも芝居の「仮名手本忠臣蔵」の作者は、「仮名手本」即ち「いろは」は、無理やり切腹させられた47士を意味し、五代将軍・綱吉に対する痛烈なあてこすりであった。また「菅原伝授手習鑑」の「手習鑑」も「いろは」を意味し、やはり菅原道真が「咎無く流されで死んだ」ことを暗示していると考えられる。それにしても、藤原氏によって事実を隠蔽された日本の古代史が、今でも検証されないまま残されているのはどういうことであろうか。
お軽
6月6日の江戸小唄友の会の恒例の小唄祭りで「お軽」を唄うことになった。この小唄は芝居小唄で、仮名手本忠臣蔵七段目一力茶屋の場を題材としたもので、同じ場面を題材にしたものは、他にも数曲あるが、今度唄うのは、小野金次郎作詞、中山小十郎作曲のものである。歌舞伎通でもない私にとっては、そもそも仮名手本忠臣蔵とは何ぞやであるが、詮索したら切りが無いから、簡単に触れて置こう。この芝居は、竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作で、元禄15年12月14日に起きた赤穂浪士47名が吉良家へ討ち入った事件を、多くのフィクションを加えて劇化したもので、寛延元年(1748)八月、竹本座で人形浄瑠璃として初演され大当たりを取ったので、直ちに歌舞伎に移され歌舞伎の定番となった。全通しで十一段あり、七段目が京都祇園一力茶屋の場である。
大星由良之助が敵討の本心を胸に秘して、京都祇園町の一力茶屋で今宵も放蕩三昧。千崎弥五郎、矢間重太郎、織部安兵衛らが訪ねて来るが、由良之助が、大勢の仲居や幇間たちと盲目鬼遊びに戯れているので愛想をつかして立ち去る。元の家老・斧九大夫は、いまは師直方のスパイで、縁の下に潜んで由良之助の動静を覗う。由良之助が、嫡子・力弥が持参した密書を縁先の吊燈篭の明かりで読み始める。一方、勘平の妻・お軽は、夫の身を立てさせるため、百両で身を売り、遊女になって一力茶屋で働いている。お軽は、勘平が侍になって敵討に加わるのを親父に反対されて切腹したのをまだ知らない。お軽が二階で風に吹かれて酔い覚ましをしていると、下の縁先で由良之助が読んでいる密書を鏡で見てしまう。簪を落としたので由良之助がそれに気付き、お軽を殺す積りで身請の相談を持ちかける。
そこへ登場するのがお軽の兄の寺岡平右衛門。彼は足軽であるが敵討ちの仲間に入れてもらいたくて由良之助に会いに来たが、思いがけなく妹・お軽に出会い、由良之助がお軽を殺そうとしているのを知って、自分がお軽を手にかけ、その手柄で仲間に入れてもらおうと妹に命をくれと迫る。お軽も夫や親父が死んだことを知り、自分の命が役に立つならと死を覚悟する。平右衛門が妹を手に掛けようとすると由良之助から「待て平右衛門、早まるな」の声がかかる。由良之助は平右衛門の忠義心を見抜き仲間に加えてやる。縁の下で密書を盗み読んだ九大夫は平右衛門に殺される。
この小唄は昭和24年6月に作られたものであるが、作詞者・小野金次郎の解説を読むと、彼は出だしの「花に遊ばば祇園辺りの色揃え ワイノワイノワイトナ」という文句に引かれてこの小唄を作ったという。これは幕開きの時に唄う下座唄である。あとの文句は殆ど浄瑠璃の文句で、「こぼれ松葉の簪や 風に吹かれて酔い覚まし 延べの鏡の左文字 三十になるやならずに逝く夫を 夢にも見ずにひとえ衣 エエこの重きくくり染め やるせなや」。この浄瑠璃の文句は、私のような門外漢のにはやや難解である。
「こぼれ松葉の簪」=先が二つに分かれている松葉の形の簪
「延べの鏡」=後ろ姿を写すとき使うもう一つの鏡
「左文字」=裏返しの字
「三十になるやならずに逝く夫(つま)を」=兄の平右衛門から夫・勘平の死を聞かされたお軽の嘆き
「夢にも見ずにひとえ衣(きぬ)」=死んだ勘平の夢さえ見ずにこの姿
法隆寺ー3 怨霊を閉じ込める寺
670年に法隆寺が全焼したと日本書紀に書かれているが、再建については一言も触れていない。一帯誰が何のために再建したのかと言うことについて、前回までのブログでは、日本書紀が敢えて触れなかった所に真実が隠されているという梅原猛氏の説を紹介した。鎌足の子・藤原不比等らが中心となって作られた日本書紀は、真実を覆い隠すために作られたと考えられるものであるが、梅原氏の結論は、日本古代の歴史は、美しい国どころか、権力者たちによって血塗られた陰謀、だまし討ち、褒め殺しの歴史であったという。具体的に幾つかの事実を振り返って見よう。
(1)592年の崇峻帝の暗殺事件。蘇我馬子の娘・刀自古娘(とじこのいらつめ 後の推古女帝)に唆された東漢直駒(やまとのあやのあたいこま 刀自古娘の家庭教師で彼氏)が天皇を暗殺した。刀自古娘は、自分の子・竹田皇子(父は敏達天皇)に皇位を継がせたい一念で崇峻帝を殺させ、有能で人望があり、天皇の有力候補であった厩戸皇子(うまやどのみこ 後の聖徳太子)に崇峻帝暗殺の黒幕をなすりつけた。このため厩戸皇子はノイローゼになり、遂に天皇になることが出来ず、49歳で没した。
(2)643年、山背大兄皇子及び一族が滅ぼされた事件。崇峻帝の後、竹田皇子が幼少のため、刀自古娘が自ら初めての女帝となり、推古帝が出現した。竹田皇子は病弱で早逝し、厩戸皇子が没しても推古女帝の在位が続き、626年には、推古帝の父・蘇我馬子が亡くなり、その二年後に漸く推古帝が75歳で没した。蘇我馬子の後は、蝦夷とその子の入鹿が宮廷を牛耳っていた。
推古帝の後は舒明帝の在位が13年続き、舒明帝が亡くなった後、舒明帝の皇后が皇位を継ぎ皇極帝となった。その頃、最も有力な皇位継承資格者と見られていたのが、厩戸皇子の子・山背大兄皇子であった。それを皇極帝の弟・軽皇子(かるのみこ 後の孝徳帝)に蘇我入鹿が加担して攻め滅ぼしたのである。この事件が実は中臣鎌足の大陰謀の発端であった。
(3)645年、舒明天皇を父とする中大兄皇子は、中臣鎌足の筋書きに基づき、蘇我一族の内紛を利用し入鹿、蝦夷親子を滅ぼし、更にその直後、異母兄である古人皇子(ふるひとのみこ)を殺す。658年には、中大兄皇子は、孝徳帝の子・有間皇子を罪無くして謀反の疑いで処刑。
(4)672年、壬申の乱が勃発。天智天皇の弟・大海人皇子が天智天皇の長子・大友皇子を滅ぼし天武天皇となる。
(5)686年、大津皇子が謀反の疑いを掛けられ自害。
(6)729年、長屋王が聖武天皇及び藤原一族に殺される。
藤原氏が皇室の権威を利用し、氏族の勢力を伸ばして行った跡には、恨みを呑んで死んでいった者たちの無数の屍が横たわっている事だろう。そしてこの膨大な政治ドラマの大半を演出したのが藤原鎌足であり、真実を隠した歴史書を後世に残したのが藤原不比等であったという。
天智八年(669)、法隆寺が全焼する一年前の秋、藤原鎌足の屋敷に落雷があった。落雷といえば今では子供でも放電現象と知っているが、古代の人は死霊の祟りと恐れ慄いた。この落雷があって間もなく、鎌足が病の床に着いた。やっぱり鎌足は何者かに祟られていると人々は感じたであろう。表面には出ることの無かった鎌足ではあったが、共に事を運び真相を共有している天智帝は鎌足の病床を見舞い、大織の冠と大臣の位と藤原の姓を授けた。死霊に取り付かれた鎌足に対する最後の贐であった。こうして鎌足は死に、そしてその翌年、法隆寺が全焼した。鎌足屋敷の落雷と鎌足の死と法隆寺の火事と、これら災いの総てが何かの祟りであると、政治の近くにいた人は感じたに違いない。恰も厩戸皇子の怨霊が、鎌足を、天智帝を、大友皇子を、厩戸皇子とその子孫を滅ぼしてしまった人々を、次々に死の国へ呼んでいると思ったとしても不思議は無い。
鎌足や天智帝のして来たことを一番良く知っている不比等らは、厩戸皇子の怨霊を最も恐れたに違いない。そこで厩戸皇子には「聖徳太子」の名称を贈る事とした。これが「褒め殺し」である。しかし、中々天変地異は収まらなかった。その結果、藤原氏の財力を傾けた広隆寺再建が行われ、仏教の力で怨霊を封じ込めようとした訳である。次回から「法隆寺の奇怪な謎」に触れる。
初めての沖縄旅行
(平成19年4月3日撮影 ひめゆりの塔 塔の下が巨大な防空壕になっている)
4月3日から、阪急トラピック社の「沖縄たっぷり三日間」というツアーに参加し、初めて沖縄を旅して来た。動機は、費用が三日間、飛行機代、ホテル代、バス代、食事代まで入れて一人3万3千円と安いことと、もう先がそんなに長くないから、一度行って見たかった沖縄を訪れる最後のチャンスだと思ったからである。幸い、家内も杖代わりに一緒に行ってくれたので助かった。
出発当日、パソコンの「乗換案内」でルート、出発時刻を検索し、予定時間より少し早めに家を出た。パソコンは必要なことは何でも教えてくれるから助かる。JRで新宿から山手線内回りで品川へ出て京急線に乗換え、急行羽田空港行の終点で下車すれば、そこが第一ターミナルである。3月18日からJRのイオカード「スイカ」が私鉄にも共通になったので、すごく便利になった。二階の集合場所で搭乗券を受け取る。荷物検査も簡単に済み、25番搭乗口で出発まで待機。出発時刻の15分前に搭乗開始。飛行機はJAL4693臨時便で、出発時刻は9時45分。定刻離陸。目指す那覇までは、2時間半の空の旅。
ほぼ定刻、那覇空港に到着。旅行社がチャーターした3台の50人乗りツアーバス(沖縄バス)に分乗。各車両には、旅行社からの添乗員とバス会社からの添乗員が付いて出発。最初の目的地は「ひめゆりの塔」。昭和20年3月~6月、米軍の沖縄上陸作戦で、この島は熾烈な戦場と化した。日本本土上陸の拠点とするためである。その頃内地では、3月10日、5月25日の東京大空襲に見舞われ、大本営は「本土決戦」「一億玉砕」を叫び、民衆は、バケツリレー、火たたき、竹槍で米軍の近代装備に立ち向かわうとしていた。
沖縄師範学校女子部及び沖縄県立第一高等女学校の生徒と教諭たちで編成された「ひめゆり学徒隊」約280名が、防空壕の中で傷病兵の看護に当たらせられていた。米軍は日本人に無益な抵抗を止めて投降するよう奨めたが日本軍の指揮官はそれを許さず、学徒隊の乙女たちは防空壕の中で手榴弾による自決を強いられた。誰が罪なき沖縄の乙女たちを死に追いやったかは明らかである。勝算なき日米戦争に国民を引きずり込み、一億玉砕を叫んだ最高指導者たちが、今、靖国神社に神として祀られており、しかも歴代総理がそれを参拝に行くということに、日本人は何故矛盾を感じないのだろうか。
次に訪れたのは平和祈念公園。ここは沖縄戦終結の地で、公園の中の「平和の礎」には、沖縄戦で犠牲になった18万とも言われる島民の内、約3万5千の霊がここに眠らされている。だが土地の人は、沖縄戦はまだ終わっていないと言う。何故なら、夥しい犠牲者の遺骨が、バリケードで囲まれた米軍基地の中に未だに放置されたままになっており、米軍が撤退するまでは沖縄戦は終わらないのだと言う。しかし、沖縄米軍基地は、日米戦争における日本敗戦のシンボルであり、世界に恒久的平和が齎されるまでは、米軍の撤退は考えられない。何時まで拘っていても始まらないと思う。
次の訪問先は、世界遺産・座喜味(ざきみ)城址。その昔、沖縄には大小約400の城(グスク)あったという。その中で最も古く最も大きなのが座喜味城である。この城は、15世紀の始めに築かれたという。江戸初期、薩摩藩が攻めて来て、建物を焼いたり、荒らし回わったりしたらしい。その頃の沖縄は、琉球王国と称し中国(明、清)の属国であった。明治12年に日本政府は、琉球王国を、一方的に日本の版図に組み入れ沖縄県とした。これに対し時の中国(清)政府は強く抗議し、やがて日清戦争に発展するが、清政権は既に弱体化しており、日本との戦争に負け、沖縄を取り返すどころか、台湾まで日本に取られてしまった。これが沖縄の悲劇の発端である。
座喜味城址で沖縄の歴史を振り返った後、黒糖工場、ガラス工場を見学し、「琉球の館」に至り、ブーゲンビリヤの花に囲まれた昔の民家や倉庫などを見学した。一日目の最後は、那覇市おもろまちにある「DFSギャラリア沖縄(大型免税店)」を冷やかしで立ち寄る。世界中の有名ブランド品が内地で買うよりも30%も安く手に入るという。沖縄の本土復帰前の名残で免税措置だけが今でも残されているのだという。だがどれも0が一つも二つも多い高級品ばかりでとても手が出ない。一回りしただけでホテルへ入った。
二日目はバイキングで朝食を済ませ、8時にバス出発。那覇市から北上し、沖縄屈指のマリンリゾート・恩納海岸(おんなかいがん)の珊瑚礁が隆起して出来た断崖・万座毛(まんざもう)の絶景を見物。ここはかっての琉球国王が絶賛した景色だそうであるが、今は自殺の名所だとバスの添乗員は言う。この後、「ナゴパイナップルパーク」を訪れ、パイナップル、パインワイン、パインジュースなど、食べ放題、飲み放題で、小腹が一杯になるほど。琉球茶漬けで昼食を済ませ、昭和50年の沖縄国際海洋博覧会の名残を留める海洋博公園で、ギネスブックに乗る世界一の水槽のある「美ら海水族館」を見学し、18時頃ホテル到着。
三日目は、いつものように8時にバス出発。世界遺産・首里城跡を訪ねる。首里城は14世紀末、琉球王国の誕生以来、450年間、琉球の首都であった。沖縄戦を含め過去四回戦火で消失再建を繰返し、現在の建物は1992年(平成4年)に復元されたものである。最後に訪れたのは「琉球ワールド」。ここでは、プロ集団の演ずる沖縄音楽や民族衣装による舞踊などを堪能し、玉泉洞という東洋一の鍾乳洞を見学、その足で空港に向かい、18時55分の出発で、自宅へ着いたのは22時過ぎであった。
今回の、私にとって初めての沖縄旅行は、沖縄の数奇な歴史の跡を訪ね、沖縄県民の屈折した心を知ることが出て、私にとってきわめて有意義であった。しかし、日中戦争で多くの戦争犯罪を犯し、日米戦争では沖縄を本土決戦の捨石にし、日本本土の罪なき市民たちまで、一億玉砕を強いようとした最高指導者たちを今の政治家が総括しようとしないのは何故なのか私には解らない。
吉原探訪(江戸の名所を歩こう会)
4月1日(日)午前10時、メトロ東京銀座線浅草駅7番出口を出て改札口付近に邦楽の友の守谷社長、邦楽評論家の目賀田氏などを含め約15名が集合。お天気は上々、今年の春は暖かく五月頃の陽気である。東武浅草駅付近から歩き始めて大川沿いに北へ向かって満開の桜のトンネルの中を行く。夜桜の下で宴会でもしようと言うのか青いビニルシートを敷いて夕方までの番をしている無粋人が居たが、日曜日だというのにご苦労なことだ。
今日のコースは、お花見もさることながら、小唄に良く出てくる「お江戸吉原」を探索しようというもの。勿論今の吉原では花魁が道中を練り歩いているわけも無いし、格子戸の中から呼びかける女郎がいる訳でもない。ただ今に残る昔のかすかな面影を訪ね歩き、あとで一杯やろうとこうというだけである。
お江戸の遊び人である旦那衆が吉原へ繰込む際のアクセスは幾通りかある。その内の一つは、先ず柳橋の「廼之丸」(うのまる 料亭兼船宿)辺りで芸者を呼んで一杯やってから舟で大川を遡り、待乳山聖天(まつちやましょうでん)の麓の今戸橋から山谷堀に入り、舟を捨てて日本堤を歩いて行くというルートがある。日本堤と言うのは、元和五年(1619)、荒川の氾濫で浅草、下谷一帯が大被害を受けた際、幕府が全国の諸大名に命じて築かせた水害防止のための堤で、長さは834もあった。日本中の大名が総掛かりで築いたのでこの名が付けられた。参勤交代で江戸へやってくる全国の侍達は吉原の大事な客であり、侍達もいい所を見せようと思って張り切ったと思われる。
聖天さんの横から山谷堀に沿って歩いて見たが、肝心の堀は全部埋め立てられて、何の風情もない。堀端に沿って咲いている桜、かえって侘しさを感じさせる。吉原全盛の頃は、この堀を猪牙舟(ちょきぶね)が忙しく往来していたことであろう。山谷堀から上がると日本堤の土手八丁から衣紋坂と続きやがて大門(おおもん)に達する。ここが吉原の入口で、入口は遊女たちの脱走を防ぐため一つしかない。入口の五十間ほど手前、向かって左側に「見返り柳」があり今も若い柳の木と石碑が残っている。大門を入ると真ん中の大通りが仲之町、向かって右に揚屋町、京町一丁目があり、向かって左に角町、京町二町目があった。昭和33年3月31日限りで三百数十年続いた「許しの色里」吉原の灯は完全に消えてしまった。誰かが言った。一度は生まれ変わって江戸の吉原で遊んでみたかったと。
当時を唄った小唄二題。「柳橋から小舟を急がせ山谷堀 土手の夜風がぞっと身にしむ衣紋坂 君を思えば逢わぬ昔がましぞかし どうして今日はござんした そういう初音を聞きに来た」、「並木駒形(辞書にはこまがたとでているがこまかたと濁らないのが正しい)花川戸 山谷堀からチョイトあがる 長い土手をば通わんせ 花魁がお待ちかね お客だよ あいあい 」。
お昼頃、大門の近くにあるお目当ての桜鍋の店へ繰り込む。ビールで一気に乾杯し、つついた桜肉の味が忘れられない。お酒も少し飲んで好い気持ちになったところでいよいよ仲之町へ足を運ぶ。花魁・薄墨大夫が、首に金の鈴や銀の鈴をつけた猫を抱いて「揚屋町」や「京町」を練り歩いたという小唄「薄墨大夫」を、去年の小唄祭りで唄ったのを思い出した。この唄はについては前にブログで紹介したが、小野金次郎の作詞、佐々舟澄江さんの作曲で華やかな花魁道中を唄った曲で、佐々舟さんの傑作であると思う。最後に桜橋を向島へ渡り桜団子の前で解散した。