辰巳の左褄
6月30日、新宿の堀川で催される蓼静奈美師匠の浴衣浚いの会で、小唄仲間の山下さんが私の糸で「辰巳の左褄」を唄ってくれることになった。この小唄は、伊東深水作詞、清元寿兵衛作曲で昭和31年頃作られた芝居小唄であるが、数ある小唄のなかでこんなに多く唄われる唄も少ない。深水の歌詞もさることながら、清元寿兵衛の曲付けが、辰巳芸者の小唄振りを彷彿させて心憎く、唄えば唄うほど味のある唄で、これに立ち方も加わって辰巳芸者の艶と気っぷを見せてくれたら、それこそ大向うから「大当り」と声が掛かること間違いなし。
芝居の名題は、「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」。河竹黙阿弥作、文久元年(1861)七月、江戸市村座初演。通称「縮屋新助」又は「美代吉殺し」。深川八幡の八月十五日の祭礼を背景とした芝居である。日本全国到る所にある「八幡様」というお宮さんは日本全国到る所にあるが、十五代応神天皇を主神とし、神宮皇后及び仲哀天皇を併せ祀る神社で源氏の氏神であり、本来弓矢の神である。仏教伝来後、「本地垂迹説」により、応神天皇の本来の姿が阿弥陀如来で、その標識が八つの幡(はた)であることから八幡大菩薩と呼ばれた。これが八幡神社のゆらいで、この社のお祭りは鎮守様のお祭りとして、今でも各地で盛大に催されている。
深川八幡のお祭りは、暑い盛りの8月15日である。文化四年(1807)の祭礼が雨のため十九日に延びた午前十時過ぎのこと、練りこむ山車(だし)を見ようと群集がどっと永代橋に押し寄せたため、その重みに耐えかねて深川よりの橋脚が折れ、群集が押されて次から次へと川に転落し七百人ほどの死者が出た。芝居はこの事件を織り込んで作られた。
芝居の粗筋は、深川八幡の祭礼の日、越後から行商に出て来た縮屋新助が、土地のごろつきの赤間源左衛門に絡まれて困っているところを手古舞姿の仲町芸妓・新藁(しんわら)美代吉に助けられる。新助は美代吉に一目ぼれし、源左衛門も惚れた美代吉の口利きであっさり手を引くが、こんどは美代吉に身請けしたいから言うことを聞けと迫る。ぴしゃりと断られた腹いせに、美代吉の腕に彫られた新の字は誰だとなじる。縮屋新助が、俺がその新に字だというので、怒った源左衛門に眉間を叩き割られる。美代吉は予て穂積新三郎という浪人と言い交わし、腕に新の字を彫っていたのだが、新三郎は、失われた主家の家宝のつぼを探して浪人していたのであるが、もともと「おきし」という許婚がいて、家宝の壷を探し出し主家への帰参が叶えば「おきし」と結婚することになっていた。
新助と源左衛門が美代吉を巡って恋の鞘当を演じた深川八幡の祭りの日に、永代橋が落ちた。美代吉も祭りの山車を見に行って事故に巻き込まれたらしい。新助が小舟を出して様子を見に行くと丁度そこへ美代吉が落ちてきて新助に助けられる。美代吉に命の恩人と感謝されるが新助は美代吉に一緒になってくれと口説く。美代吉は新三郎の壷が見つかって帰参が叶うまで待ってくれと言い逃れる。
新三郎が探している家宝の壷は、おきしの兄で剣の達人である小天狗正作が苦心の末探し出す。しかしその壷を手に入れるには、五十両というまとまった金が要るということが判った。すると新助がその五十両は私に出させてくれという。美代吉もそんならといってその五十両を新三郎に渡すと、おきしが美代吉と新三郎の仲を知り、尼になるという。新三郎はおきしへの義理立てから美代吉に向かってこの金はお前が新助に体を売って作った金かと、美代吉に愛想づかしをし、起請の入った守り袋を美代吉に投げ返す。新三郎に愛想づかしをされた美代吉は、こんどは新助に当り、新助が出した五十両を新助に突き返し、満座の中で新助に恥を掻かせる。結末は、可愛さ余って憎さ百倍。裏切られたと知った新助は、五十両の金で村正の刀を求め、洲崎の土手に美代吉を呼び出し、自らの手にかけて美代吉を殺した。美代吉の守り袋の中から美代吉が長い間探していた実の妹であることがわかって新助はその刀で喉を突いて死ぬ。
この芝居の見所は、男心一筋の新助もさることながら、何と言っても美代吉の艶っぽさと気っぷ良さであろう。深川生まれの伊東深水は、昭和24年10月、東京劇場で、初代中村吉右衛門の新助、先代中村歌右衛門の美代吉でこの舞台を見て感激し、美代吉の中に辰巳芸者の真骨頂を見出し、「辰巳の左褄」を作詞したと言う。なお伊東深水には、大正末期に作った「辰巳ゃよいとこ」があるが、「辰巳の左褄」と好一対をなすものである。
大正末期、伊東深水作詞、常磐津三蔵作曲「辰巳ゃよいとこ」の歌詞:「辰巳ゃよいとこ 素足が歩く 羽織ゃお江戸のほこりもの 八幡鐘が鳴るわいな」
昭和31年、伊東深水作詞、清元寿兵衛作曲「辰巳の左褄」の歌詞:喧嘩は江戸の花笠や 町の揃いの半纏に 幅を利かせた秋祭り 揉んだ神輿のおさまりも つかぬ気性の勇み肌 宵宮にかかる永代の 浮名も辰巳深川や 八幡鐘の後朝(きぬぎぬ)に 仲町結ぶ富が岡 御神酒が利いた酔いと酔い 競う素足の意地っ張り あっしや辰巳の左褄」
〔語句解説〕
辰巳:深川が江戸城から見て辰巳(東南)の方角に当たることから、富岡八幡宮の門前に出来た遊女町を、吉原の仲之町に なぞらへて門前仲町と呼んだ。吉原は女郎が主で芸者は従、主として町人遊び場所であった。深川の芸者は、辰巳芸者と呼ばれ、気っぷの良さが身上であった。
羽織:吉原の芸者は羽織を着ることが許されず、座敷では白足袋が定めとなっていた。これに対し辰巳芸者は座敷で羽織を着ることが許され、年中素足で通すことを自慢にしていた。
八幡鐘;八幡神社の向かって右側に鐘楼があり、明け六つに鐘を突いて午前六時を知らせた。明治初年、神仏混淆の禁止
により、八幡鐘は仏式であるとの理由で撤去されていまい、以後、男女の朝の目覚めの機微を現す「八幡鐘の後朝」と言う言葉は死語となった。
左褄:芸妓や舞妓が長く裾を曳いた着物を着るときは、必ず左手で褄を持つ。これに対し花魁や遊女は右手で褄を取る。右手で褄を持てば着物の合わせ目は右。長襦袢の合わせ目も右にあり、男性の手が裾に入りやすい。これに対し左手で褄を持てば、着物と長襦袢の合わせ目は反対になるから男性の手が入り難くなる。つまり左褄とは、芸は売っても体は売らないという意味。因みに花嫁さんは右褄です。お分かりですか? ガッテン!