八海老人日記 -10ページ目

天皇の歌

           (香具山)


 「春過ぎて夏来るらし 白たへの衣干したり 天の香具山」(1-28)。有名な持統天皇の歌で、百人一首にも選ばれているから、知らない人もいないだろう。但し、百人一首の方は、「春過ぎて夏来にけらし白たへの 衣干すてふ 天の香具山」となっている。いずれにしても古今の名歌とされている。他にも天皇の歌は幾つかあるが、この歌ほどポピュラーな歌は無い。


 この歌の現代語訳は、「春が過ぎて夏が来たらしい。白い布でつくった衣が干してある。香具山よ」とでもいうのであろうか。この歌が作られた場所は、飛鳥から移った藤原宮と言われるが、東に一番近いのが香具山、北に耳成山、西に畝傍山、所謂大和三山に囲まれた地である。香具山は橿原市と桜井市の境にあり、高さは僅か148mの小山である。三山の中で古代から神聖な山として敬われ、天から降ってきたという伝説によって天の香具山と呼ばれる。


  大浜厳比古氏は、ある日、同じ万葉学者仲間の吉井巌から、「春が過ぎれば夏が来るに決まっているのになぜわざわざこんな持って廻った言い方をする必要があるのだ。白たへの衣とはどんな衣か。干したとは何処に干したのか。何故こんな神聖な山に、衣なぞ干すのか。」などと訊かれて答えられなかったという。


 NHKライブラリーの「万葉秀歌探訪」の著者・岡野弘彦氏は、持統天皇の「春過ぎて・・・」の歌について、この一首からは、季節の移り変りに対する日本人特有の緊張感があり、鮮やかな色彩や風光が生き生きと躍動し,清新な感動を受けると述べている。そう言われるとそんな感じがしないでもない。しかしそれは、吉井巌氏の質問に対する答えとしては、何一つなっていない。


 七世紀頃の女性天皇が、何を感じ、何を思ってこんな歌を作ったのか。一説によると、香具山の麓に昔「埴安」という池があって(今は無い)、そこで人々は禊(みそぎ)をしたであろう。そして水に濡れた白い衣を香具山の麓で干したであろう。その風景を見て天皇が感動してこの歌が作られたのではないか。初夏の緑豊かな中に、白い衣を干している風景は、確かに美しく感動的であろう。しかし天皇の歌としては、すこし安っぽ過ぎないか。又古説では、卯の花の盛りを白い衣に喩えたものと解釈しているが、これも当てにはならない。この歌は季節感の中での風景を詠んだ歌と考えた後の人には理解できない歌なのである。


 この歌は、「春夏秋冬」の四時と「天地」を詠い込んだ天皇賛歌の歌なのである。どういうことかというと、「天」は日月星辰の運行を意味し、「地」は四方の四神(東は青竜、西は白虎、南は朱雀、北は玄武)が天皇を守護し、四時順行して民も潤う意味が込められているのである。即ち「天の香具山」の天は将に《天》であり、香具山は《地》である。「《春》過ぎて《夏》来たるらし 《白=秋》たへの衣干したり 天の《香具山=別名・向南山(きたやまと詠む)=北=冬」と四時も詠み込まれていると言う訳である。大浜厳比古氏は、この歌の解釈について、高松塚古墳の石室の四方の壁に描かれている壁画の研究者・渡瀬昌忠氏からのヒントに負うものであるといっている。

法隆寺ー隠された十字架ー5

          

           法隆寺夢殿 (法隆寺夢殿)

  

 梅原猛著:法隆寺論「隠された十字架」を読み進んで、もうあと少しで読み終える。前回は、「五重塔」について書いたが、今回は夢殿についての話。法隆寺が、聖徳太子及びその一族、子孫の怨霊を封じ込めるため、藤原一族によって再建された寺であることを述べた。再建された当座、藤原一族も、藤原の息のかかった持統帝の血筋たち(不比等の娘・宮子は持統帝の孫・文武帝に嫁し、宮子の異母妹光明子は持統帝の曾孫・聖武帝に嫁し、臣下として異例の皇后となる)と共にしばらくは平穏であった。ところが、720年に不比等が急死し、729年に起きた長屋王の変の後あたりから次々と不幸が藤原氏の上に襲い掛かる。


 長屋王の変については、一昨年12月8日のブログで書いたから記憶も新しい。藤原一族が、朝廷における政治権力を握るため、邪魔になる長屋王を排除しようとして仕組んだ陰謀であった。その後、732年の大干ばつ、734年の大地震、735年の疫病大流行、737年には、長屋王を陥れた藤原四卿が次々天然痘で死ぬという惨事が続き、民衆はこれを長屋王の崇りと恐れた。


 法隆寺の東側の聖徳太子やその一族が住んだ斑鳩宮跡は、一族が滅びた後、荒れ果てていたが、そこに夢殿を中心とする東院伽藍の建設を光明皇后に勧めたのは、法隆寺の僧・行信である。藤原家の人々は法隆寺を再建して手厚く太子の霊を祀ったが、まだ太子の霊は十分に慰められていない。そのため太子の崇りである異変が続いている。斑鳩宮跡に、伽藍や八角円堂を建て、更に手厚く太子を祀るべしと説いた。八角円堂は中国ではお墓を意味する。


 光明皇后は、この説得に逆らへず、行信に資金を提供し、739年から747年にかけて、東院伽藍や夢殿が完成した。等身大の仏像を祀った夢殿の厨子は、このあと1200年間一度も開けられたことがなかった。その理由はこれを開けると天変地異が起きるとか、仏像を見ると眼がつぶれるよか信じられて来たからである。明治17年、夢殿の厨子を開き、白布で巻かれた救世観音の像を取り出したのは、岡倉天心の師・フェノロサである。フェノロサはこの像を見て、ダヴィンチのモナリザのようだといって驚嘆したという。今は春秋二回一般に公開され、誰でも拝観することが出来るが、天変地異も起きないし眼もつぶれない。


 

雪あかり

          

 「邦楽の友」社守谷社長主催、「江戸の名所を歩こう会」には、支障のない限り参加することにしている。6月24日の「歩こう会」は、10時に都営地下鉄大江戸線本郷三丁目駅集合、東大安田講堂、三四郎池など構内を散策し、それから白山神社まで歩いて、最後は五右衛門という豆腐料理屋の二階で打ち上げ昼食会をやって解散した。当日お天気は小雨もよい。参加者は二十名足らず。


 その中に小唄の家元さんが一人、それが華兆史乃さんだった。実は、華兆さんの会には、前に一度、出させて貰ったことがあるのだが、二十年位前のことだから、何を唄ったか全く覚えていない。その華兆家元さんから、つい先日、お手紙を頂いた。12月15日の会に出ていただけませんかというお誘いのお手紙である。「歩こう会」でお目にかかっただけで、家元さんや華兆会の近況など何も伺っていないので、試しにネットで検索して見たら、華兆史乃小唄教室「小唄を一緒に唄いましょう」というHPが出てきたので嬉しくなってしまった。それで華兆会一門の写真や活動状況を見ることが出来た。

 

 早速メールで、12月15日の会に出させて頂きたい、出し物は、松峰照の「雪あかり」を唄わせて欲しいと返事を出した。石川啄木が釧路で恋をした小奴という芸者のことを唄った「雪あかり」という小唄を一遍唄って見たかった。啄木が釧路へ赴任したのは明治41年1月である。その時啄木は、「最果ての 駅に下り立ち 雪あかり 寂しき町に 歩み入りにき」という歌を残している。啄木は、釧路には2ヵ月半しか居なかったが、その間に小奴と激しい恋愛をしたのである。


 啄木が、明日は東京へ帰るという夜、小奴は啄木の下宿を訪ね、別れの酒を死ぬほど飲んで、啄木と共に、尽きぬ別れの一夜を過ごした。菊田一夫が、「悲しき玩具」(昭和37年10月芸術座で初演)という劇を作り、二人の恋を美しく画いている。小唄は、「悲しき玩具」の中の儚い別れの情景を小田将人が「最果ての 今宵別れて何時会えるやら 尽きぬ名残を一夜妻 帯も十勝にこのまま根室 灯を消して足袋脱ぐ女(ひと)に 雪あかり」と作詞した。


 小田将人の奥さんは、市川八百蔵の娘で、小唄蓼派四葉会の重鎮・蓼胡奈美である。小田将人は、長生松美、蓼胡競、佐々舟澄枝などの作曲した名曲に優れた歌詞を数多く作詞した。昭和45年、松峰照(当時は竹枝せん照)が、小唄酣春会で自作の「雪あかり」を唄い、最後の一節、「灯を消して足袋脱ぐひとに雪明り」を唄うと、満場の聴衆は、水を打ったように、せん照の唄に酔いしれたと言う。その翌年、せん照は竹枝派から独立し、松峰派を興し、初代・松峰照が誕生した。


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鎮魂の歌集・「万葉集」

 優れた万葉歌人の一人に数えられる志貴皇子(しきのみこ 660~715)について、大浜厳比i古しは、その著「万葉幻視考」の中で、かなりのページを割いている。彼は天智帝の第四皇子で、男性の子としては一番後の子である。四人の皇子の母は、夫々異なり、一番上の建皇子(たけるのみこ)の母は、蘇我倉山田石川麻呂の女・越智娘であるが、8歳で夭折、次兄の大友皇子の母は、伊賀の采女・宅子娘(やかこのいらつめ)、三番目の川島皇子の母は、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、そして四番目の志貴皇子の母は、名もない宮女(宮廷に仕える女)であったらしい。


 彼は、天智帝の皇子の中では、歌人としても優れ、人物も賢者であった。母が卑しい出であったせいか、あまり目立った経歴は残されていない。万葉に収録された彼の歌は、僅か六首に過ぎない。671年、天智帝が没すると、志貴皇子の身辺に血なまぐさい風が吹き始める。壬申の乱が勃発し、皇太子である二番目の兄・大友皇子が叔父の大海人皇子(おおあまのみこ)に斃され、天武帝が出現する。天武帝が没し、皇后が即位して持統帝の時、天武帝の第三皇子・大津皇子が、志貴の兄・川島皇子の密告により謀反の疑いを掛けられ、一味三十余名と共に死を賜る。


 694年、都が明日香宮から藤原宮に移された時、志貴皇子が作った歌がある。「采女の袖吹き返す明日香風 都を遠みいたずらに吹く」(宮仕えの女官の袖を吹き翻す明日香の風よ 都が遠くへ移ったので虚しく吹いていることだろうよ)。1-51のこの歌は、万葉の名歌とされているが、歌に隠された「カタリ」の部分を幻視すると、「母が天智帝の愛を受けて、自分が生まれた明日香の都を想うと、若い皇太子を残して死んだ父・天智帝や、叔父に討たれた兄・大友皇子や謀反の疑いで死んだ友・大津皇子の死霊たちが瞼に浮ぶ。今は藤原京に移り、明日香も遠くなったが、虚しい風が吹き抜けて行くようだ」と、このようになる。


 志貴皇子は、賢明にも自己を抑え、権力から遠ざかっていたため、災いに巻き込まれることなく、生涯を全うし得た。更に、子孫にも恵まれ、やがて自らの子孫、即ち天智帝の子孫に皇統が再び巡って来ることになる。志貴の子・49代・光仁から53代・惇和まで、天智系の天皇が続いた。志貴の最晩年の歌に、「神奈備(かむなび)の磐瀬杜(いわせのもり)のほととぎす 毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ」という一首がある。これを陳腐な歌と評する人がいる。これを大浜流に読むと、毛無の岡というのは、自分の父・天智の子孫を意味し、磐瀬の森の杜鵑というのは、天智がわが子に継がせたかった皇位のことであると幻視することになる。するとこの歌は、父・天智や兄・大友への鎮魂の歌であり、この歌は陳腐どころか、キラキラと輝いてくるのである。


 

法隆寺・隠された十字架ー4

           (法隆寺五重塔)


 7月22日のブログ・隠された十字架ー3で、法隆寺金堂について書いた。次は五重塔である。仏教寺院には、塔が付き物である。特に大きな寺院には、三重乃至五重の塔が建てられる。塔は、釈迦の骨を祀る所である。中国では塔の上部に骨を祀るが、日本では、塔の柱の下に穴を掘って、そこに骨を祀る。昭和24年、法隆寺五重塔の解体修理の際も、柱の下から火に焼かれた人骨が発見された。聖徳太子の子・山背大兄皇子の骨ではないかと云われたが、未だにそれは謎である。


 法隆寺は、聖徳太子及び殺された一族の鎮魂の寺とされているが、太子の一生を画いた絵巻物には、太子の子供たちが、五重塔から西方浄土に向かって飛び立って行く姿が画かれていて、この五重塔は、現身往生の塔と云われる。聖徳太子の子孫が、この世で死んでも、あの世、即ち極楽浄土で生き返ることを意味し、阿弥陀信仰に通ずるものである。


 法隆寺五重塔の一階から四階までの壁面には、細長い四角の木札が貼り付けられている。これは魔除の札と云われてきたが、このような例は他の塔にはない。これは、法隆寺の塔を建てたものが、聖徳太子一家の死霊に対し、強い恐怖を抱いていたことを示すものである。法隆寺は670年に尽く焼けて、その後再建されたが、焼ける前は、若草伽藍の中に在ったもので、そこで山背大兄皇子及びその一家二十五人が惨殺された。恐らくその塔の中は血の海であったに違いない。その跡に建てられた塔は、殺された聖徳太子一家の呪いの篭った塔であり、魔除の札が貼られた意味が理解できる。


 法隆寺五重塔には、もう一つの謎がある。それは、法隆寺の公式の財産目録である「資材帳」には、塔の高さは十六丈(約48.5m)と記されているが、実際は十丈(約33m)しかない。これは、資材帳の記録が間違っているのだろうか。いや、そんなことはあり得ない。法隆寺五重塔は、建前として、十六丈でなければならない理由があったのである。法隆寺のあらゆる建物は、死霊と怨念の篭る建物として、寸法はすべて偶数によって仕切られていた。従って塔の高さは、四(死)の二乗、即ち十六丈でなければならないのである。だが、十六丈ではあまりに高過ぎ、技術上の理由などにより、十丈となったものであろう。


 

私と糖尿病

           (太田君、八海老人、森君)


 昨日、8月9日、茨城県守谷市に住む大学のクラスメート森君の家まで、同じクラスメートの太田君と共に、森君のお見舞いに行ってきた。森君は、糖尿病に関しては、私の大先輩で、今から15年ほど前、東京都済生会中央病院に渥美先生と云う糖尿病の名医がいると教えてくれたのみならず、私をその先生紹介してくれ、教育入院の世話までしてくれた。私が今でも元気でいられるのは、彼のお陰といってよい。さもなければ、とっくに心筋梗塞か何かで、あの世へ行っていたことだろう。


 だが、彼自身は、無類の酒好きで、脳梗塞を発病するまでは、中々酒が止められず、酒を止めるくらいなら死んだほうがましだなどと放言していた。だから、糖尿病科に通院治療に通っていても、口の悪い主治医の松岡先生にいつも叱られ、「あんたみたいな人がいるから日本の保険医療が赤字になるのだ」と悪態を突かれるのが部屋の外まで聞こえたりした。


 平成4年8月、森君が東京都済生会中央病院に、2週間の教育入院中、NHKの取材が入ったことがあった。苑頃、糖尿病は国民病といわれ、患者が急増していた。NHK大阪文化部では、糖尿病週間と銘打って、NHKスペシャル「糖尿病」という番組を企画し、その映像編成に当り、糖尿病教育入院の模様を取材するため、糖尿病に関しては日本で一番権威があるとされている東京都済生会中央病院を選んだのであった。


 取材は、2週間、放送は、11月4日、19時30分から20時44分まで。その間に約10分間、東京都済生会中央病院における糖尿病患者の教育入院風景が放映された。最初、大阪NHK文化部が取材に来た時、入院患者でもない人を「やらせ」として台詞を覚えこませて連れて来た。糖尿病の入院患者にいきなりマイクを向けても、碌に喋れないだろうと考えたらしい。ところがその「やらせ」を断固拒否したのが森君であった。入院の動機から入院生活の詳しい様子、患者としての感想など、殆ど一人で喋り捲り、「やらせ」の出る幕はなかった。


 NHKスペシャル「糖尿病」は、11月4日、全国に向けて放送された。私はこれをビデオに収録し、クラス会で再生してみんなに見せた。教育入院中のNHKの取材に対し、森君の孤軍奮闘振りにみんな拍手喝采した。その翌年、2月28日からの教育入院に、私も森君の紹介で参加した。その時、同室だった星野さんという人とは、15年もたった今でも、毎年年賀状を交換し、お互いの健勝を確かめ合っている。残念ながら森君は、脳梗塞を発病し、現在、要介護ー1でリハビリを続けながら私たちの健康を気遣ってくれている。私たちにとっては有難いかけがえのない友である。


 

仇名草

 八月十五日の城南友の会で、蓼静奈美さんの糸で唄うことになった「仇名草」は、四世・富士松亀三郎作曲の新内小唄である。新内鶴三郎作曲の同じ曲名の新内小唄があって、時々間違えられる。こちらは、「縁でこそあれ・・・・」という唄いだしで、古くから知られた唄である。


 新内小唄は、一頃、大変流行し、「仇名草」、「蘭蝶」など、小唄会で盛んに唄われたが、最近は、それ程でもなくなった。「新内は、蘭蝶に始まって、蘭蝶で終わる」と云われるほど、蘭蝶は、新内節の代表的な曲とされている。新内小唄というのは、新内節を取り入れた小唄で、四世・富士松亀三郎(1911~1986)という人は、新内節の家元であるが、新内小唄を数多く作曲している。


 仇名草と云うのは、桜の異名で、今から230年ほど前に作られた新内節「蘭蝶」を基にして脚色された芝居「若木仇名草」(わかぎのあだなぐさ 1855年、大阪で初演)の名題から来ており、蘭蝶(男芸者・桜川蘭蝶)と深い仲となり、桜のように若くして散った新吉原の遊女・此糸(このいと)を指している。


 物語は、此糸が四谷で郭勤めをしていた頃、紫頭巾が良く似合う男芸者・蘭蝶に一目惚れしたことから始まる。その後二人は、人目を忍んで遭う瀬を重ねるうちにすっかり深い仲となり、抜き差しならぬ恋の虜となってしまった。此糸は遊女であるが、蘭蝶にだけは、身も心も許し、本気で愛し合ったのである。


 蘭蝶には、元深川の芸者・お宮という女房がいて、彼女が深川の芸者時代、ふとした縁で知り合い、夫婦となったが、今は、此糸に夫を奪われ、夫が稼ぎを此糸に入れあげ、女房に金を渡さないため生活も苦しくなり、蝉の抜け殻のような虚ろな毎日を送っていた。ある日、お宮は意を決して、此糸に会いに行き、縁があって蘭蝶と夫婦になったが、この侭では、到底夫婦でいることは出来ない。どうか夫を返して欲しいと涙ながら頼むのであった。情に弱い此糸は、お宮の真実の訴えにほだされ、女の意地も捨てて、蘭蝶とは切れるとお宮に誓う。

 

 然し、蘭蝶は、此糸とは別れられず、此糸も、一旦お宮に誓ったものの、蘭蝶に逢えば、恋の炎は再び燃え上がるのであった。結局二人は抱き合ったまま、四つ(午後十時)の鐘を最後に、お羽黒どぶで心中してしまう。


 仇名草の歌詞(横山花生作詞)。 「粋も不粋も恋路には 苦労するのが世の習い 今更云うも過ぎし秋 四谷で始めて逢うた時 好いたらしいと思うたは 因果な縁の糸車 廻る浮世の柵に 若木の色香儚くも その泡沫や桜川 廓に浮名を仇名草」


 唄い方としては、「今更云うも過ぎし秋 四谷で始めて逢うた時 ・・・・」の所は、義理と恋との板挟みで、死を決意した此糸の口説きを、新内節でたっぷりと聞かせる。


 


 

万葉の歌と怨霊

       (大浜厳比古著「万葉幻視考」)

 前j回「万葉の世界」は、大浜厳比古著「万葉幻視考」について、その所説の紹介を試み、手始めとして、万葉集巻一の一、二に掲げられた歌が何を示唆するかについた、大浜氏の述べるところを書いた。万葉の歌の文字と文字の間からは、非命に斃れた人々の慟哭と怨念が蘇ってくるという。万葉集巻一の一、二の歌は、その入口の扉を意味し、扉を開けると、無数の死霊の怨念が犇めいている。古代人は、非命に斃れた人の死霊は、死の国で怨霊として存在し、斃した者へ崇りを為すと堅く信じられていた。


 万葉は、愛、力、生、死などについての古代人の考え方を理解した上で読まれなければならないが、更に、文字に記された部分だけでなく、より深く、文字にされなかった部分、歌と歌との間の空白を読むのが大浜氏の読み方である。その読み方は、幻視による方法から生まれたという。例えば、雄略天皇と舒明天皇の間には、凡そ170年の年数差があり、その間、文字に伏せられた、言わば、「カタリ」の部分が万葉の母胎であり、幻視によりその中の諸々の像を蘇らせ、それらとの対話から始まる「万葉」の読み方を幻視による方法と、大浜氏は言うのである。


 万葉集巻一の一に掲げられた「籠(こも)よ み籠持ち ・・・・」の歌は、雄略帝の御製とされているが、暴虐非道で好色の帝として知られた雄略帝が、こんな長閑な歌を作る筈がない。昔から民間で伝承されていた歌謡を抱えの歌人がもじって作ったものであろう。野で若菜摘む処女は、帝の目に止ったばかりに、あたら青春を奪われた。吉野でも、美しい娘を一目見て、これを犯してしまった。雄略は、自らが帝位を奪うため、異母兄の眉輪(まよわ)王と円大臣(つぶらのおおきみ)を殺し、黒彦、白彦の兄たちも殺し、それでも足りず、市辺押磐皇子(いちべのおしはのみこ 十七代履中天皇の皇子)も殺し、暴虐の限りを尽くした


 万葉集巻一の二の歌は、三十四代舒明天皇の御製と伝えられる「大和には群山あれどとりよろふ天の香具山・・・・」と、よく知られた歌である。何故この歌が雄略帝の歌と共に巻頭の置かれているのか。この二つの歌の間の空間には、一体何があるのか。大浜氏は、雄略帝と舒明帝の間には、皇位争いや謀略のため、非命の死を遂げた人々の死霊が彷徨っていると言う。例えば、眉輪王(前出 二十代安康天皇を拭殺 自分も雄略に殺される)であり、山背大兄王とそのいちぞくであり、崇峻天皇であr、蘇我蝦夷や入鹿であり、斉明天皇ふぇあり、健王であり、孝徳天皇であり、有間皇子や大津の皇子や大友の皇子や古人皇子である。数えたら切りがない。


 「怨霊信仰は、孝徳天皇の頃から始まる。 天智天皇の頃には、それがはっきり出てくる。万葉集も、その事を念頭に置かないと、空虚な文学になってしまふ」とは、折口信夫博士の言葉である。

法隆寺ー隠された十字架ー2

          法隆寺金堂 (法隆寺金堂)


 法隆寺に関する梅原猛氏の説を、その著書「隠された十字架」を読みながら追いかけて行く。先ず、法隆寺の本尊が安置されている金堂は、日本最古の木造建築として国宝に指定されているが、梅原説によるとそれは眉唾で、現存する法隆寺は、670年の火災で旧法隆寺は跡形も無く焼けてしまった後、時の権力者・藤原氏によって和銅年間(708~714)かそれ以後に再建された可能性が強いと言う。


 普通本尊は一体でよい訳であるが、法隆寺金堂には三体の本尊が置かれている。向かって右から薬師如来(国宝)、釈迦如来(国宝)、阿弥陀如来(重要文化財)と並べられている。この内、阿弥陀如来は、平安時代に原物が盗まれ、鎌倉時代に擬古仏として作り直されたものである。法隆寺金堂に何故本尊が三体もあるのかというのは、一つの謎であるが、仏像の光背に記された銘文を読むと、先ず釈迦如来が聖徳太子及びその一族の鎮魂のため安置され、その後、薬師如来は用明天皇(聖徳太子の父)のため、阿弥陀如来は太子の母・間人太后

(はしひとのおおきみ)のためにつくられたとある。


 法隆寺金堂とその中に安置された薬師如来と釈迦如来の仏像は、飛鳥時代の作品として何れも国宝に指定されているが、その根拠とされたのが薬師如来及び釈迦如来の光背の銘文である。ところがこの二つの銘文は何れも後世の法隆寺の僧による偽作であることが立証された。梅原氏の説は、釈迦如来は670年の法隆寺全焼の際、一緒に焼け落ち、その後、他の寺、恐らく橘寺あたりから移され、次のその様式に似せて薬師如来が作られたと考えられる。法隆寺の釈迦と薬師が全くよく似ているのは、多分そのためであろう。


 梅は説によると、法隆寺の金堂は、聖徳太子一家の死霊に満ち満ちているという。そして金堂は、太子一家の死霊が極楽往生するための場所であると言う。従って金堂の主役は、阿弥陀如来でなければならない。かつて金堂内の12面の壁には、阿弥陀如来の来迎と浄土の図が描かれていたが、昭和24年に焼失してしまった。阿弥陀如来は、死霊を極楽浄土へ導く仏なのである。ここへ来て初めて法隆寺金堂の本当の本尊が阿弥陀如来であることが分かる。


 梅原説は、日本のその筋によってオーソライズドされたものでなく、一つの仮説という立場に過ぎないが、説得力は極めて高い。法隆寺に限らず、日本の古代史については、敗戦後の自民党政府は、歴史の真実を明らかにすると言う国民にとって大切な事業をなおざりにしてきた。戦前は、歴史の真実を追究する学者たちは、容赦なく弾圧された。そして日本は取るべき道を誤った。政治家たるものは役人の怠慢を許してはならない。なすべきことをなさないで、空々しく「美しい日本」などと言うべきではない。


 

北海道旅行記

         納沙布岬 (日本の最東端 納沙布岬 遥か彼方国後島が霞む)


 七月4日(水)~8日(日)の4泊5日、家内と共に近ツリの北海道ツアーに参加した。5月には沖縄を訪ねたが、一転して今度は北海道。すべてこれ小生の体が動かなくなるまで、ガイドとしてこき使うという家内の謀略である。この次はハワイへ行くなどと言い出すのではないかと怖れている。


 7月4日11:30、羽田を飛び立ったJAL521便は、13:00新千歳空港に到着。14:00バスで空港をあとにする。総勢47名。花に囲まれた美瑛町の新栄の丘を経由して、一日目の宿泊地・層雲峡温泉へ向かう。途中は見渡す限り緑の大地。これぞ北海道の源風景。かつて旅をしたドイツの風景を思い出した。ホテル層雲という宿に入って驚いたことは、部屋のエアコンの冷房が効かないことである。北海道は真夏でも温度は18度以下と相場が決まっていたため、冷房は不要であった。今は地球温暖化で内地よりも温度が高い。現にこの日も26度。暑いのを我慢して休む。


 二日目は午前中旭山動物園で時間をつぶし、午後はサロマ湖、ワッカ原生花園で散策。幸いお天気は晴れ。最後は網走番外地。旭山動物園はツアーの目玉らしいが、殆どの動物たちは客に無関心。涼しい木陰に陣取って昼寝三昧。ワッカ原生花園では、浜茄子の花は殆ど終わっていたが、地平線に沈む夕日がうつくしかった。

網走番外地では、かつて明治の頃、多くの政治犯たちが、過酷な開拓労働に血と汗をしぼられたところ。仲代達也と岩下志麻が主演し、森進一が首題歌を歌った「北の蛍」というエロチックな映画を思い出す。


 三日目、小雨の中、午前中は知床ウトロ港から遊覧船で出発して知床半島北側の人を寄せ付けない断崖の連なる風景を見物。「乙女の涙」という滝やアイヌ語で「湯の滝」をいみするカムイワッカの滝などが目を楽しませる。船から降りてバスでオシンコシンの滝を見物。今日の宿泊地・川湯温泉へ行く途中、摩周湖で小休止したが、それまで霧に包まれていて何も見えなかったのが一瞬霧がはれて神秘的に美しい湖が見えたときは感激した。


 四日目、快晴。今日の行程は長いので30分早く7時半に出発。最初に訪れた野付半島では、一面にハマナスやハマキスゲやヒメアヤメなどが色とりどりに咲いていて美しかった。バスの中で弁当を頂き、日本の最東端になるという納沙布岬の灯台の向うに遥か国後の島影が霞んで見えた(写真参照)とき、北方領土への思いが急に沸いてきた。このあと世界遺産・釧路湿原のある釧路平野を丘の上から眺め、最後の宿泊地・十勝川温泉へと向かう。そこの十勝川国際ホテルの夕食で飲んだ十勝ワインは美味しかった。


 五日目、ツアー最後の日は8時にホテルをあとにし、日勝峠を越えて夕張に至り、ここが最後の休憩地。夕張はかつて炭鉱で栄えた街。今の夕張は財政破綻の市として知られ、市を挙げて財政再建に取り組む街としてしられている。人口もかつての十分の一程度に減少している。しかしこの街の高い知名度を利用し、観光都市として蘇らせる方策は無いものかと思う。観光地として沖縄と比較すると、北海道には沖縄のような若者を惹きつける「海」がない。その代り北海道には冬の「雪」が」ある。この辺を足がかりにもう少し近代化を図れば道は開けると思う。


 今回の北海道旅行でもう一つ大きく感じたことは、北方領土問題である。根室市から目と鼻の先にある歯舞、国後、択捉、色丹の四島は元々日本の領土であるのに、ロシヤがどさくさに紛れ、不法占拠し、日本人を追い出して何処吹く風。まるで泥棒猫同然。日本人は、北朝鮮の拉致問題以上に、四島を取り戻すことに熱心であってもよいのではないか。