鎮魂の歌集・「万葉集」 | 八海老人日記

鎮魂の歌集・「万葉集」

 優れた万葉歌人の一人に数えられる志貴皇子(しきのみこ 660~715)について、大浜厳比i古しは、その著「万葉幻視考」の中で、かなりのページを割いている。彼は天智帝の第四皇子で、男性の子としては一番後の子である。四人の皇子の母は、夫々異なり、一番上の建皇子(たけるのみこ)の母は、蘇我倉山田石川麻呂の女・越智娘であるが、8歳で夭折、次兄の大友皇子の母は、伊賀の采女・宅子娘(やかこのいらつめ)、三番目の川島皇子の母は、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、そして四番目の志貴皇子の母は、名もない宮女(宮廷に仕える女)であったらしい。


 彼は、天智帝の皇子の中では、歌人としても優れ、人物も賢者であった。母が卑しい出であったせいか、あまり目立った経歴は残されていない。万葉に収録された彼の歌は、僅か六首に過ぎない。671年、天智帝が没すると、志貴皇子の身辺に血なまぐさい風が吹き始める。壬申の乱が勃発し、皇太子である二番目の兄・大友皇子が叔父の大海人皇子(おおあまのみこ)に斃され、天武帝が出現する。天武帝が没し、皇后が即位して持統帝の時、天武帝の第三皇子・大津皇子が、志貴の兄・川島皇子の密告により謀反の疑いを掛けられ、一味三十余名と共に死を賜る。


 694年、都が明日香宮から藤原宮に移された時、志貴皇子が作った歌がある。「采女の袖吹き返す明日香風 都を遠みいたずらに吹く」(宮仕えの女官の袖を吹き翻す明日香の風よ 都が遠くへ移ったので虚しく吹いていることだろうよ)。1-51のこの歌は、万葉の名歌とされているが、歌に隠された「カタリ」の部分を幻視すると、「母が天智帝の愛を受けて、自分が生まれた明日香の都を想うと、若い皇太子を残して死んだ父・天智帝や、叔父に討たれた兄・大友皇子や謀反の疑いで死んだ友・大津皇子の死霊たちが瞼に浮ぶ。今は藤原京に移り、明日香も遠くなったが、虚しい風が吹き抜けて行くようだ」と、このようになる。


 志貴皇子は、賢明にも自己を抑え、権力から遠ざかっていたため、災いに巻き込まれることなく、生涯を全うし得た。更に、子孫にも恵まれ、やがて自らの子孫、即ち天智帝の子孫に皇統が再び巡って来ることになる。志貴の子・49代・光仁から53代・惇和まで、天智系の天皇が続いた。志貴の最晩年の歌に、「神奈備(かむなび)の磐瀬杜(いわせのもり)のほととぎす 毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ」という一首がある。これを陳腐な歌と評する人がいる。これを大浜流に読むと、毛無の岡というのは、自分の父・天智の子孫を意味し、磐瀬の森の杜鵑というのは、天智がわが子に継がせたかった皇位のことであると幻視することになる。するとこの歌は、父・天智や兄・大友への鎮魂の歌であり、この歌は陳腐どころか、キラキラと輝いてくるのである。