八海老人日記 -9ページ目

異説・額田王

          

          (若き日の額田王)


 万葉初期の代表的女流歌人として人気の高い額田王(ぬかたのおおきみ)は、生没年不詳、出自も詳らかでない。日本書紀には、額田姫王は鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、天武帝の妃となり十市皇女を生んだとたった一行記してあるだけである。額田王の名前が万葉集に初めて現れるのが658年、斉明天皇が紀温湯(きのゆ)行幸に従駕し歌を詠んだ時である。その後、宮廷歌人として煌めく才能を発揮し、693年、最期の歌を残したあと万葉からはぷっつりと消えた。その間、政治の世界では、中大兄皇子が鎌足と組んで蘇我を滅亡させた乙巳(いっし)の変、大海人皇子が天智帝の子・大友皇子を倒した壬申(じんしん)の乱、有間皇子、古人皇子、大津皇子殺害など、血なまぐさい事件が次々と起きた。


 これら日本の古代史を記した正史・「記紀」は、勝者・藤原によって偽装された歴史書であり、真実とは程遠いものである。そこで、1936年生まれの古代史研究家・小林恵子の「異説・額田王(ぬかたのおおきみ)」を紹介したい。彼女は、岡山大学で東洋史を専攻し、卒業後は、中国、朝鮮の膨大な資料を駆使し、古代日本の歴史に光を当ててくれるのであるが、その所説には、少なからず驚かされる。


 当時の政治情勢を振り返ってみる。国内では、622年(推古三十年)、聖徳太子が没し、大使の子・山背大兄皇子が後を継いだが政情は不安定であった。というのは、蘇我稲目から馬子、蝦夷、入鹿と四代に亘って蘇我王朝が強大な勢力を築き、遂には山背大兄皇子始め聖徳太子の子孫一族を皆殺しにするに至り、その勢は大和政権を凌ぐ程になった。


 一方、大陸では、唐が隋を滅ぼし、朝鮮半島の各国も政治が不安定になり、643年、百済の武王の子・翹岐(ぎょうき)が内紛を逃れて大和へ来た。644年には、翹岐の弟で高句麗の武将をしていた蓋蘇文(がいそぶん)も、唐に対抗するため大和の援助を求めてやってきた。この頃、大和王朝と百済、高句麗の王室間は、密接な交流があり、日本書紀に出てくる歴代天皇は殆ど百済か高句麗の王室の血を引く人部であった。例えば、雄略天皇は百済の蓋絽王(がいろおう)の子の昆支(こんき)であり、敏達天皇は、高句麗の威徳王だり、欽明天皇は百済の聖明王であり、舒明天皇は百済の武王である。大和朝廷内では、翹岐は中大兄皇子、蓋蘇文は大海人皇子と名乗り、いずれも倭国の王への野望を燃やしていた。


 蘇我政権がのさばるのを阻止しようとする中大兄皇子は、645年、鎌足と組んで板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿の首を撥ね、蘇我蝦夷も死に追いやり、ここに蘇我氏は滅亡した。大和朝廷では孝徳天皇が(百済の議慈王)が即位し、中大兄皇子は皇太子となった。しかし実権は中大兄が握っていた。654年、孝徳天皇が没し、皇極帝が再び斎明天皇として重酢したが661年、病で没した。一説では「トリカブト」の毒で殺されたという噂もあり、糠田王がこれに関与したとの説もある。。翌年、天智帝が即位し、671年、天智帝が没すると、天智帝の子・大友皇子と大海人との間に皇位を巡る壬申の乱が起こり、大海人が新羅からの援軍を得て勝利し、大友皇子を死に追いやった。大海人は、鵜野讃良皇女(うののさららのみこ)を皇后とし、天武王朝を起こす。


 東洋のクレオパトラとも言うべき額田王について、昨日一日悪戦苦闘。舞台は大和だけに限らず百済、新羅、高句麗にも及び、中大兄も大海人も百済武王の子供で、勝者・藤原によって、万世一系のなどど面白くも無い歴史に偽装されたが、真実は、額田王というヒロインを巡って恋ありロマンありの一大ドラマで、到底一回のブログに書ききれるものではない。面白いエピソードがあったらその内にまた紹介したい。



「森浩一の考古学」その一・考古学者の嘆き

           (2007年の世相漢字)



 私のブログ「日本古代史」も、段々と色んなことが見えてきて、佳境に入った感じ。今回は、ちょっと視点を変えて、考古学者・森浩一の「日本の古代」を覗いて見よう。


 我々の住む日本列島は、天然資源に乏しい国と云われてきたが、それは必ずしも正しくない。日本列島を考古学的に見ると、第一に水資源、動植物資源は極めて豊かであった。第二に金、銀,銅、鉄などの鉱物資源は、かなり豊富であった。第三にそこに移り住んだ部族はかなり活動的で、東西南北の交流、大陸との交易などが盛んであった。


 動植物は腐敗して残らないことが多いが、石器、土器、金属、構築物、建物、木の道具、漆製品ばどは、かなり古いものが発見される。日本列島で人が使用したと見られる石器で、凡そ三万年前の地層から発見されたものがあるという。その頃は氷期で、海面が今より1メートルも低く、大陸とは地続きであったらしい。


 考古学という学問は、人が住んだ土地などを掘り返して、遺構や遺跡や遺物などを見出し、これらを科学的に調査し、そこに住んだ人達の生活や社会を再現する学問である。考古学は、正しい歴史を作るのに、無くてはならない学問で、遺跡を発掘すると、色々な遺物が語りかけてくる。現代の科学をもってすれば、日本各地から掘り出される遺物について、年代、原産地、用途、経歴、その他色々な情報や資料が得られる。それを正しく解読するのが考古学者の使命である。


 森浩一氏(昭和3年大阪生まれ、同志社大名誉教授)は、小学生の頃、考古学に興味を持ち、それ以来、考古学一筋に生きてきた。専門は古墳時代・日本文化史で、数々の著作がある。 その人が、どうにも手が出せないと嘆いていることが一つある。それは、天皇陵古墳の大部分の学術調査を宮内庁が拒否していると言う事実である。


 ここでちょっと横道にそれるが、日本漢字能力検定協会が今年全国公募で決定した世相漢字は「偽」である。この字が選ばれた理由の多くは、仕入れや賞味期限など食品の「偽」や、建築の「偽」や政治家や防衛省役人の「偽」で、何処であろうとどんな世相であろうと許されるものではない。まして学問の世界においておや。国家権力がその国の文化遺産の学術調査を拒否している国がどこにあろうか。これは国家権力の「偽」と言わざるを得ない。どんな理由があろうと、こんな偽装は許せないと思う。


 今年の元旦の読売新聞に、「陵墓の立入り調査容認」と云う記事が出て読んで見たら全くの子供だましで、陵墓に近づける距離を少し短くしたと言うだけで学術調査には程遠い。読売の記者の寝ぼけぶりには驚いた。10月に宮内庁の職員が、ネット上に現れた天皇陵に関する批判的記事を削除すると言う事件が起きた。なお、世論を気にしたのか、10月6日に、京都の明治天皇陵と奈良の神宮皇后陵の二陵に限って学術調査を認める記事が出たが、歴代天皇、皇后、皇太后の陵は全国に百八十八もあり、宮内庁が国民の血税を使って管理している。八世紀に勝者・藤原氏が作った「偽装歴史」に、真実の光を当てるため必要な陵墓の学術調査を一日でも早く認めるべきである。

権九郎

 来年2月8日の室町小唄会第30回記念会で、小唄の縁で時々お付き合いしているEさんの注文で、「権九郎」を唄って欲しいと言われて、人がいいからすぐその気になった。この小唄は、清元小唄で以前は良く唄われたが最近はそれほどでもない。作詞は、芝居小唄で定評のある英十三、作曲は、山口こう(明治22年~昭和38年)。山口こうという人はあまりよく知らないが、昭和26年頃、彗星のように小唄界に現れ、数多くの名曲を残されたかたである。


 山口こうは本名で、浅草千束町の生まれ。幼い頃から踊りと三味線を習い、芸事が好きだったから小学校を出ると自分から浅草の花街に入って雛妓となり、義太夫、長唄、常磐津、新内、歌沢、小唄、清元とあらゆる稽古事を習った。特に清元は、清元太兵衛、正太夫に師事し、声が良かったから「清元芸者」の名を高めた。昭和11年に娘・徳子が、神楽坂に「徳の家」を興したのを期に芸者を止め、芸事に専念した。昭和26年頃から、清元の合い弟子だった草紙庵や市川三升、英十三などに薦められて小唄の作曲をするようになった。「権九郎」は、英十三の作詞による、歌舞伎五題に山口こうが作曲した中の一つである。


 木村菊太郎の昭和小唄その二の553頁に「権九郎」の解説が出ており、「黒手組の助六」を題材にした小唄であると書いてある。歌舞伎座の新春公演の夜の部に上演される「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の助六と同じ筋だと思っていたら、全く違うので驚いた。今まで迂闊にも助六の芝居が二つあることを知らなかった。「江戸桜」の助六は、1713年頃に出来た曽我物で1813年に七代目団十郎が、「市川家歌舞伎十八番」を定めた時、その一つが「江戸桜」で所謂「荒事」。1858年に幕末の名優四世市川小団次が「江戸桜」の助六をやりたいと望んだ時、その柄でなかったので河竹黙阿弥が「和事=世話物」の「黒手組の助六」に改作したのだという。その序幕が白玉権九郎の道行なのである。この時、黙阿弥は主役で色男を演ずる助六役者に、醜男で三枚目役の権九郎を一人二役で演じさせるという、所謂パロディーを演出して観客を驚かせた。泥にまみれかれたはすの葉を頭に被った権九郎がほうほうの態で池から這い上がって来たのを見て観客はどっと沸いた。


《あらすじ》

 序幕の舞台は、上野の忍ヶ岡(今の上野公園辺り)。吉原・三浦屋の遊女・白玉が、大店の番頭でブス男の権九郎を唆し、廓から逃げ出してくる。そこに待ち構えていた白玉の情夫・牛若伝次は、権九郎が店からくすねてきた五十両を奪い取り、権九郎を不忍池へ突き落とす。うまくいったと喜ぶ二人だが、追っ手に取囲まれ、白玉は捕まり伝次は辛うじて逃れる。このあと、二段目、三段目が続くのだが、「江戸桜」に出てくる人物が名前を変えて同じような役に出てくるので詳細は省略。


《歌詞》

 「咎めなば露とや消えん白玉と 上野の鐘の権九郎 人目忍ぶの岡越えて 胸の思惑世迷言 二人一緒に暮らすなら 仲良く箸を取膳に 一つ肴を毟りあい さいつおさえつ小鍋立て 嬉しい仲ではあるまいか 首尾もよしずの後より 戴く金を鷲摑み やらじとするを突き放し 池へどんぶり水煙」「伝次さんか」「ア、コレ」「伝次さんうまくうまくいったね」「そうよ」。英十三の作詞は「ア、コレ」までだが、そのあとは「おまけ」。 




大津皇子と二上山

            (吉備池から二上山を望む)


 大津皇子の悲劇については、昨年9月13日のブログに書いたが、今年11月5日から二泊三日で万葉の故郷・奈良を訪ねた際、思いがけなくタクシーの運転手さんが古代史に詳しい方で、大津皇子が持統天皇から死を賜った時、泣きながら辞世の歌を詠んだという磐余(いわれ)の池の跡地(いまはない)であまり人の行かないところへ連れて行ってくれたり、大津皇子の墓がある二上山を眺めたりして感慨を新たにしたので、その思いを改めてブログに書きたいと思った。


 大津皇子の事件は、父の天武帝が686年9月9日、56歳で没した直後、大津皇子の親友であった川嶋皇子の密告により謀反の疑いを掛けられ、自殺させられた事件であるが、これに関する日本書紀の記述には大きな疑問がある。何故と言えば、日本書紀は勝者の書であり、万葉集は敗者の書で、日本書紀が「偽」を語り、万葉集が歌と歌の間に、より多くの真実を語っているからである。大津皇子の事件は、持統帝が、自分の腹を痛めた草壁可愛さの余り仕組んだ陰謀だったのであろう。


 大津皇子には、母を同じくする一人の姉がいた。母は大田皇女(持統帝の姉)で姉の名は大来(おおくのひめみこ)。大来皇女は、13歳の時から、伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)に任ぜられ、都を遠く離れた伊勢にいた。

天武帝が病篤く死の床につくや、朝廷内では後継者問題で騒然となり、大津皇子はライバルの草壁一派から抹殺されるのではないかと、薄々身の危険を感じていた筈である。そんな頃、大津皇子が、秘かに伊勢にいる姉を訪ねたのである。


 その時、皇太子の草壁を擁立する持統帝は、14年前の壬申の乱をまざまざと思い出していたに違いない。あの時、夫である大海人皇子は、兄の天智帝が没するや、皇太子・大友皇子を擁立する朝廷から抹殺される危険をを察知して吉野に逃れ、遂に挙兵して大友皇太子を敗死させた。今度は自分が朝廷側であるが、同じことが二度起きないという保証は無い。人望厚い大津皇子が謀反を起こすという疑心暗鬼に持統帝が取り付かれたとしても不思議は無い。


 伊勢に長くいると疑われると言う弟を都へ帰してやる時に大来皇女が作った歌二首が万葉集巻2に載せられている。「わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて 暁露にわが立ち濡れし(105)」(弟を都へ帰してやり、見送りがてら佇んでいると、夜も更けて、明け方の露に私は濡れてしまった)、「二人行けど行き過ぎ難き秋山を 如何にか君が独り越ゆらん(106)」(二人で行っても行き過ぎ難い秋の山道を、今頃はどのようにして弟は独りで越えているのだろうか)


 都へ帰った大津皇子を待ち受けていたのは、謀反の疑いによる逮捕であった。こともあろうに親友の川嶋皇子の密告により10月2日に捕えられ、その翌日に自決を強いられた。このとき作られたという辞世の歌・万葉集巻3-416については、昨年9月13日のブログに書いたから省略する。そして大津皇子の遺体は大和盆地を見下ろす二上山の頂に葬られた。その知らせを聞いた大来皇女の、弟の死を悲しみ悼む歌二首が万葉集巻2に残されている。「うつそみの人にあるわれや 明日よりは 二上山を弟世(なせ)とわが見む(165)」(生きてこの世に残っている私は 明日からは二上山を弟と思って眺めよう)、「磯の上に生うる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言わなくに(166)」(磯のほとりに生えている馬酔木の花を手で折ってあなたに見せようと思うが 貴方がこの世にいるとは誰も言ってくれないのに)。




聖徳太子の謎

            (聖徳太子)


 梅原猛の法隆寺論「隠された十字架」を漸く読み終えた。著者がその中で、良く分からないと言っていた聖徳太子の実像について少し触れて見たい。学者でもなく、一ブロガーに過ぎない私が、そんなことを言うのはおこがましいが、興味本位であるにしても、私なりに想像をめぐらし、知らないエピソードを拾ったりするのは楽しいことである。


 三世紀の頃、鉄や銅を武器や農具に使った好戦的な部族が北九州から大和に侵入して来て、多くの先住部族たちを滅ぼしたり服従させたりして、遂に覇権を握り、大和王朝を打ち立てるのであるが、その傘下で大伴,物部、蘇我などの部族が、武力や財力を蓄え、大きな豪族となって飛鳥や斑鳩周辺を占拠していた。その中の蘇我氏が、稲目ー馬子-蝦夷ー入鹿と四代に亘り、大和王朝で脚光を浴びるようになったのは、六世紀に入ってからであるが、蘇我氏の先祖は、朝鮮半島からの渡来氏族であったようである。


 私のブログ・日本古代史では、聖徳太子のことについて、昨年の11月3日の「異説・所得太子」で、晩年の聖徳太子が強度のノイローゼになって49歳の若さで死んだと云う井沢元彦の「逆説の日本史」や、今年11月23日の「法隆寺ー怨霊を封じ込める寺」で、法隆寺の再建は、聖徳太子の怨霊に苦しめられた藤原氏がその怨霊を慰め、再び出られないよう封じ込めるために建てたものであるという梅原猛の所論を紹介した。


 聖徳太子と云う呼び名は、死後贈られた贈名で、元々厩戸皇子(うまやとのみこ)という名であった。厩戸は574年、31代用明天皇と穴穂部間人皇后との間に長子として生まれた。用明天皇の母も皇后の母も蘇我稲目の娘で馬子とは兄妹の間柄。厩戸には蘇我の血が色濃く流れている。早くから仏教を崇拝する蘇我氏は、大和朝廷の外戚となり権力を増大させたが、強力な軍事力を持つ神道派の物部氏と対立して争い、遂に物部を滅ぼした。


 592年に起きた32代崇峻天皇の暗殺事件は、蘇我馬子の娘で30代敏達天皇の妃であった刀自古郎娘(とじころのいらつめ 33代推古帝)の陰謀であった。崇峻帝の後、推古帝が即位し、厩戸が推古帝の摂政となり、蘇我馬子と共に政治を取り仕切った。梅原猛の聖徳太子についての講演の記録を読むと、厩戸は、冠位十二階や憲法十七条を制定し、日本国家の骨組みを創り上げたばかりでなく、身分制を打破し、能力と徳で人を登用すると言う人事改革を実行したため、身分制や階級性に固執する保守勢力の反発を買うことになったという。


 更に梅原は続ける。厩戸は、当時先進国であった中国の政治や文化を摂取することに熱心であった。然し国の統治に関しては中国とは一味違っていた。中国では、皇帝の権力は絶大で、軍事を統括し、臣下の任命権はもとより、人民の生殺与奪も思いのままであった。皇帝を退けば臣下に格下げさせられた。だから誰も皇帝には逆らえなかった。暴君が出ると革命が起きた。厩戸は日本の政治の仕組みを天皇に大きな権力を持たせない方式にした。重要なことは、上皇、皇太后、大臣などが口出しをして決めた。だから天皇は言わば判こを押すだけの象徴天皇であった。厩戸が何故こんな仕組みを作ったかは謎で、梅原もこの点には触れていないが、私は厩戸の国家統治の理想がそうさせたあものと思う。即ち憲法十七条の「和」の精神と仏教を柱とする国作りを理想としたからだと思う。


 厩戸は、中国で屡々起きた革命の恐ろしさを知り、厩戸自身や子孫が天皇になるかもしれないし、日本に中国のような革命が起きないことを考えたとしても不思議は無い。しかし私に言わせると、理想を持つことは悪くないが、日本統治の仕組みを律令化するには少し甘過ぎたと思う。藤原氏がこの仕組みを巧に利用し、自分達一族が政治の中枢に座ることで、何百年もの間、藤原の栄華の基になった権力の座を築くのに資したのである。


 その後の日本の歴史を振り返ってみても、鎌倉、室町、安土桃山、江戸時代以降現代まで、権力者は皆この仕組みを利用した。そしてこれを変えようとした長屋王は藤原に殺され、後醍醐天皇は足利尊氏に殺され、明治以後も軍閥という勢力のため無謀な太平洋戦争まで起こしてしまった。この国の仕組みを最初に作った聖徳太子にその責任が無かったとは言えまい。これは私の考えである。

保名

             (保 名)


  平成六年にビクターから出された「竹苑せき作品集」という小唄のCDがある。これには15曲が収録されているが、その第一曲が「振りの小袖」である。これは清元の名曲「保名」から来ているが難しいせいか会などではあまり出ない。でも私は、この唄は竹苑せきさんの名曲の一つだと思う。今度の江戸小唄友の会で唄って見たい。実はこの唄は、昭和32年の江戸小唄社創立三周年記念作曲コンクールで2位になった曲なのである。 


 享保十九年(1734)大阪竹本座で竹田出雲作「蘆屋道満大内鑑」という人形浄瑠璃が初演された。これは朱雀帝の御代(930~946)、陰陽師の跡目相続争いに巻き込まれて恋人を亡くし、頭が狂ってしまった安倍保名

が狐が化けた美しい娘を恋人が戻ってきたと思い込んで妻にし子供を生ませるが、この子供が成長して安倍晴という有名な陰陽師になるという粗筋であるが、この仲の保名が狂って桜の下で、恋人の形見の振小袖を抱きしめて踊る場面を六世菊五郎が清元の所作事として完成させた。これの外題を「深山桜及兼樹振(みやまのはなとどかぬえだぶり)」という。


 この安倍保名の伝説物語が、昭和26年、内田吐夢監督によって映画化され、題名は「恋や恋なすな恋」で、踊りの名手・大川橋蔵の保名、嵯峨三智子の一人三役(最初の恋人の榊の前、その妹に化けた葛の葉、葛の葉の正体狐)が主演で、これに宇佐美淳、日高澄子、月形龍之介、小沢栄太郎などが助演している。嵯峨三智子はご存じ山田五十鈴の娘。私は昭和五十年頃、銀座の「一好」という茶屋で、嵯峨三智子と彼女の親友であった「一好」のママと三人で膝つき合わせて飲んだことがある。その頃すでに彼女はアル中で苦しんでいたようだ。彼女は、昭和50年までに137本の映画に出演したが、その後はアル中と戦い、昭和63年の138本目を最後に映画界から消えた。今はもう嵯峨三智子も「一好」のママもあの世へ旅立ってしまった。

法隆寺ー隠された十字架6-救世観音像の謎

          救世観音像 (救世観音)


 梅原猛の法隆寺論を読み進んできたが、今回で終りにしたい。11月5日から二泊三日の奈良の旅で、最初の日、法隆寺を訪れ、主な建物や仏像を見て廻り、夢殿の秘仏・救世観音にも対面したが、内部が暗く、仏の表情など、詳しく見ることができなかった。聖徳太子一族を滅ぼした藤原氏から出て、皇族以外から始めて皇后の位に付いた光明皇后が不比等亡き後、聖徳太子一族の怨霊が未だ十分に慰め足りないと説く怪僧・行信の勧めで夢殿を建てた経緯については10月5日のブログに書いた。


 この夢殿の中には、からだを木綿のさらしでぐるぐる巻きにされた救世観音(ぐぜかんのん)の像が納められていた。この仏像は秘仏とされ、作られてkら1200年間、一度も人目に曝されたことが無かった。明治17年の夏、岡倉天心の師・フェノロサによって、この仏像のヴェールが剥がされた。廃仏毀釈の風が吹く中で,寺院側としては、政府の許可を貰ったフェノロサを拒否できなかった。フェノロサが仏像の白布を解き始めると、寺院の僧たちは一斉に外に逃げ出したという。この仏像を見るものは眼がつぶれるとか天変地異が起きるとか言い伝えられてきたからである。


 聖徳太子と等身大で、太子の風貌に似せて作られたというこの仏像は、フェノロサによって初めて人目に曝されることになったが、フェノロサはこの仏像の不気味な微笑みの表情を見て、ダヴィンチのモナリザのようだと言ったという。この仏像は乾漆作りで、胴は空胴になっており、頭と胸に太い釘が打ち込まれ、それで光背が支えられている。こんな仏像は他には無い。両手は太子の骨を入れたと思われる骨壷を抱えている。一本の釘で頭を貫かれ、もう一本の釘で重い光背を打ち付けられて、如何に執念深い太子の怨霊であろうとも身動き出来ないようにされたともの考えられる。


 救世観音は、以上の様子で分かるように、太子の人形(ひとかた)であり、行信が、太子の怨念を恐れた光明皇后のために行った呪詛の結果なのである。太子の崇りをおそれるあまり、太子の人形をつくり、これに太い釘を打ち付け怨霊の消滅を祈祷したのである。このような方法で人を呪うことは古代の法律では厭魅(えんみ)といって重い罪に当たる。行信は他でも同じことをやったため失脚し、天平勝宝六年(754)、下野の薬師寺に流された。


 法隆寺には、年に一度、聖霊会(しょうりょうえ)という聖徳太子の霊を慰める法要が行われる。聖霊会には、 50年毎に行われる大会式と毎年行われる小会式があり、最近の大会式は昭和46年であったかあら、次の大会式は昭和96年即ち平成33年になる。梅原猛は、昭和46ねんの大会式を見ることが出来て、この法要が聖徳太子及びその一族の怨霊を慰める法要であることを確信した。


 大会式法要のクライマックスは、聖徳太子の骨壷と太子七歳像が飾られた講堂前の広場で廻れる蘇莫者(そまくしゃ=蘇我一族の亡霊、太子は蘇我の出であり、蘇莫者は太子の亡霊を現す)の舞であるが、この風貌がどこか太子の風貌に似ている。頭から垂れ下がっている白い毛の間からぎらりと見開いた目がみえる。梅原猛はこれを聖徳太子の亡霊と見る。太子七歳像は殺された太子一族の象徴である。世阿弥の能にはしばしば亡霊が登場するが亡霊が冥界から地上に姿を現す時、必ずその亡霊に縁のある依代(よりしろ)を通じてやってくる。後世、室町時代に世阿弥によって大成された能は、舞楽・蘇莫者の舞と同じ構造をもっている。能の始まりは、恐らく死者の鎮魂の儀式から来ていると思われる。世阿弥は、おそらく職業的鎮魂者の家系の出だったのではないかと梅原猛はいう。


 梅原猛の「法隆寺論」をテキストにした日本古代史のブログは一応ここで終りとするが、梅原猛は、日本古代史において怨霊となって藤原一族をこれほど苦しめた聖徳太子の実像については、未だあまり明らかではないとしている。私は次のブログ「日本古代史」で、聖徳太子の実像について一歩近寄ってみたいと思う。仁徳天皇、聖徳太子、救世観音、大宰府に流して殺した菅原道真を天神と称えるなど、歴史を偽造し、だまし討ちと褒め殺しは皇室、藤原氏始め総ての権力者のお家芸である。「聖徳」の美名の影に何が隠されているのか。太子は何故「天皇」とされなかったのか。次回は坂口安吾や半藤一利の所論を紹介する。 

万葉のふるさと・奈良の旅

法隆寺 (法隆寺中門前にて)


 11月5日からに白三日で万葉の故郷・奈良を旅した。一行は、写真で左から二人私と家内、その隣が大学同窓のH氏、その次が山友達のIさん、その隣が同窓のM氏、一番右が山友達で絵の巧いK氏で、以上6名。もう一人山友達のI氏が参加する予定であったが、直前になって奥様が病気で入院されたため参加できなくなり残念であった。今回の旅行計画については、M氏のお婿さんのN氏に大変お世話になった。N氏は奈良新聞社におられた方で、今は東京で観光関係の仕事をしておられ、奈良に詳しく、現地の情報を提供して頂き、ホテルの手配までして頂いた。この紙上を借り厚く御礼申し上げる。


 一日目、東海道新幹線ひかり号で新大阪まで行って、それから東海道・山陽本線、大阪環状線外回り、関西本線と乗り継ぎ、法隆寺駅の手前、王寺でJRを降りた。タクシーを拾って法隆寺南大門前の松鼓堂という茶店の前でタクシーを降り昼食。梅定食を注文したら、梅干を練りこんだ麺のかけうどんに古代米のご飯が付いて、更に自家製のひじきと漬物が付いて1200円。これがこの店の名物らしい。


 昼食後、小雨もよいの中、傘を差しながら、いよいよ、八世紀の始め藤原一族が聖徳太子一族の怨霊を封じ込めるために再建したと言う法隆寺の五重塔、金堂、講堂、大宝蔵院、夢殿など不気味な建物を見て廻り、釈迦三尊、阿弥陀三尊、薬師三尊、夢違観音、百済観音、救世観音などの仏像を拝観したが、建物の内部は暗く、仏像の姿かたちははっきりと見ることが出来なかった。1000円も拝観料を取って何だと言いたい。


 法隆寺拝観を終り、午後2時半、予約していた奈良近鉄のジャンボタクシーが南大門前に到着、これに乗り込んで御殿のような天理教本部の前を通って先ず邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかといわれる黒塚古墳を訪ねたが、月曜日で資料館はお休み。そのあと箸塚古墳、崇神天皇陵、仁徳天皇陵など山之辺の道に沿って南下し、午後5時頃今日明日二日間宿泊予定の橿原ロイヤルホテルに到着、温泉風呂で旅の疲れを癒した。


 二日目、7時頃バイキングの朝食。8時ジャンボが迎えに来て出発。今日一日は飛鳥周辺をジャンボで廻る。天気予報では一日中雨と云うのでその積りいたが、殆ど傘も要らないほどで大助かり。これから訊ねる予定の万葉文化館の開館が10時からなので、その間、藤原京跡を訊ねることにした。藤原京は持統天皇が、有名な「春過ぎて夏きたるらし白たへの衣干したり天の香具山」と詠った所である。この歌は、長閑な叙景の歌とされているが、阿修羅の如く生きた持統帝がこんなのどかな歌を詠む訳がない。これは持統帝が自らの賛歌であるという説もある。この歌は、「天武朝の春も終り、大津の皇子の夏も来たが、結局白の私が天下人になった」と読むのだという。


 藤原京跡を後にし、明日香民族資料館、飛鳥資料館などをざっと覗いて、10時過ぎ、万葉文化館を訪れる。この文化館は、万葉集をテーマにした新しいミューゼアムで、N氏が手配してくれたボランティアの人が、解説付きで館の中を隈なく案内してくれた。特に印象深かったのは、この館の敷地の発掘調査で発見された飛鳥池工房遺跡で、金、銀、鉄、硝子、貨幣などがこの時代に既に此処で作られていたことを示すものである。ここを見終わってボランティアの人に丁重に礼を述べ、ここから程近い夢市茶屋という所で古代米御膳で昼食を摂る。


 三日間、我々と付き合ってくれたジャンボタクシーの運転手さんが、奈良の歴史をよく勉強していて、香具山のの東側の麓にある磐余池(いわれのいけ)の跡へ連れて行ってくれた。そこは普通の観光客が滅多に訪れない場所で、飛鳥時代ここに池があって大津皇子の屋敷があった処で、大津皇子が持統帝から死を賜った悲劇の場所である。大津皇子がそのとき涙を流しながら読んだという「ももつたう磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲がくりなむ」という歌は、後世の作ではないかと云う説もある。蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台や酒船石、亀石、高松塚壁画館などを見学、午後5時頃ホテルへ帰る。


三日目、奈良の旅の最後の日。昨日より1時間遅く9時ホテル出発。奈良市へ向かって真直ぐ北上し、白鳳文化の面影を残す世界文化遺産・薬師寺を訪れる。奈良薬師寺の歴史は、39代天武天皇が、皇后(後の持統帝)の病気平癒祈るため発願したのが始まりであるが、686年、天武帝が没し、持統帝、文武帝が志を継いで、飛鳥の地で堂宇が完成したのは文武帝の時代になってからである。710年、都が藤原京から平城京に移ると、薬師寺も現在の場所に移されたが、1528年の兵火で殆ど焼かれ、創建当時の建物で現在残っているのは東塔(国宝)だけである。


 最後に訪れたのは、世界文化遺産・平城京跡である。南端に朱雀門が復元され、鮮やかな朱色が眼を楽しませてくれる。更に第一大極殿が目下復旧工事中で、このほか平城宮資料館、東院庭園などを見学した。防衛省の軍備予算を縮小し、官・業癒着による税金の無駄使いを止めて、世界文化遺産の復元に投じたら、どんなにか素晴らしい文化遺産が出現し、世界中から観光客がやってきて、国益に資するのではないかと思う。


 今度の旅のテーマに掲げた「万葉の故郷」は、実は「怨霊の郷」なのである。奈良は単にのどかな美しいふるさとではなく、古代の政治権力を巡る争いの中で、抹殺された多くの犠牲者たち怨霊が犇めいている郷である。

雄略天皇の歌から始まる万葉集は、編纂者である大友家持が謀反に加担した疑いを掛けられ、一度は桓武天皇により抹殺された歌集である。古今集の時代に復活された「万葉集」は、史実の告発という恐ろしい側面を秘めた歌集である。「万葉集」は史実を改竄して作られた「古事記」、「日本書紀」を補う役割を持っていることを忘れてはならない。


 

友千鳥の死

 それは私の小唄人生の中での悲しい出来事であった。今まで、後になり先になりして、一緒に飛んでいた友千鳥が、水に落ちて死んだ。こんなことがあっていいものか。飛ばねばならぬ鳥が飛ぶ気力を失って、水に落ちて死んだ。どんな訳があってしんだのか。死なねばならぬ訳なんて無いじゃないか。まだまだこれからの年月、面白おかしく、時にははしゃぎながら生きられると言うのに、自分で自分の命を縮眼流なんて何と言うことだ。


 友千鳥は何故死んだ。ウツという病に冒され、可哀相に癒してくれる人も無く、自ら自分の殻に閉じ篭もって寂しく死んだ。ウツは誰でも罹り易い病気だ。だがウツを抱えて生きて行くことは、自分にとっても家族にとっても大変なことなんだ。ウツが進行すると、食欲が無くなり、毎日が憂鬱で無口になり、体力も衰え、死にたいと思うようになる。だから家族など周囲にいる者は、本人が自殺しないよう絶えず注意して、監視を怠らなくてはならない。


 ウツは軽い場合は通院治療で治るが、重い場合は入院が必要となる。重いウツが治りかけた頃が自殺の危険が最も高くなるのがこの病気の特徴である。不幸にしてウツを抱え込んでしまった人やその家族を支えてやるために、MDA-Japanという全国的組織があり、病気の治療、環境の改善、再発防止など有効な助言を与えてくれる。ホームページも持っているから、必要な人は誰でもアクセスすることが出来る。病気による自殺からは絶対に護ってやらなければならない。


 死んだ友千鳥と私は、それほど長い付き合いではないが、たまたま小唄という趣味の世界を共有し、お互いにgive and take の仲であった。私が熱海でクラス会の世話役をやった時、熱海にいる小唄の師匠で、現役の芸者でもある北野こと五和乃さんを紹介してくれたのが彼であった。それがきっかけで彼女との付き合いは今でも続いている。付き合いといっても、惚れた張れたの仲ではなく、専ら小唄とブログメイトの関係である。


 今月20日、浅草公会堂での鶴村派の小唄会で、彼はO氏の糸で「いちごう」というコミック小唄を唄う予定であった。殻が病気欠席のため代役で私がその唄を唄うことになった。その唄は「酒と女は二ごうまで とかなんとかおっしゃいますが わたーしゃ いちごうで もてあます」というものでした。今考えると、「わたーしゃ」と甲(かん)の声を高く張り上げるところで、私はその時、彼の代わりに悲鳴を上げていたのではないか。彼が私の肉体を借りて叫んでいたのではないかと思えるのである。それが若しかして彼が死んだ時刻だったとしたら!!! 彼は正しく唄の通り「いちごう」をもてあまして死んだのだ。

 

お祭佐七

          (神田明神) 


 もともとお糸、佐七の名は、古くから江戸に伝わる俗謡「本町二丁目糸屋の娘」から来ているらしい。今から300年ほど前に出された「松の落葉」という唄の本にこの唄が出ているそうだ。これが芝居に仕組まれたのは、250年ほど前の「本町糸屋娘」が始まりという。その後、浄瑠璃に取り入れられたりして、約200年前の文化7年に江戸市村座で、鶴屋南北、二代目桜田治助の合作による「心謎解色糸(こころのなぞとけていろいと)」という外題で三代目菊五郎の佐七、三代目沢村田之助の小糸で上演され、更に明治11年、三世河竹新七が脚色し直し歌舞伎座で五代目菊五郎の佐七、六代目梅幸の小糸で大当たりを取った。


 梗概:意地を命の柳橋の芸者・小糸が惚れたのは、神田連雀町の鳶頭の佐七という勢い肌の江戸っ子である。佐七は、一年前の九月の神田祭の晩、万世橋の近くで、加賀藩前田家の供廻りとの喧嘩で大立ち回りを演じ、それが仇名となりお祭佐七と呼ばれるようになった。小糸が客の倉田伴平という悪侍に手籠めにされそうになり、襦袢一枚で逃げ出して来たところを佐七に助けられた。佐七は小糸に自分の羽織を着せてやり、連雀町の吾家連れて帰った。


 この時以来、二人は夫婦気取りで楽しい所帯を持つようになった。小糸の養母・おてつは伴平から金を貰い小糸を騙す。小糸の父は加賀藩の侍で、佐七にとっては親の敵なのだと小糸に嘘を言う。小糸はそれを真に受けて、この先どうせ添われぬ身の上ならば佐七の手にかかって死にたいと覚悟の遺書を書き、佐七にわざと愛想尽かしをする。小糸の変心と思い込んだ佐七は恨み骨髄。小糸が四つ手籠に乗って来る所を柳原土手で待伏せし、籠から引きずり出して刺し殺す。その時懐からこぼれた佐七宛の遺書に気付き、辻行灯の光でこれを読んだ佐七は初めて小糸の本心を知って涙するが後のまつり、小糸の敵と憎い伴平を切り殺す。


 歌詞は英十三の作で、「しめろやれ 恋の色糸一筋に 神田勢いの勇み肌 行く秋の虫の音細る川端に 恨みは恋の秋潮や 染めた四つ手の紅しぼり 照らす火影に読む文も 涙に滲む薄墨に 遠見の橋の影おぼろ」。この唄の作曲は草紙庵で、唄い出しの「しめろやれ」は、木遣りで佐七が鳶の者であることを現す。「しめろやれ」から「勇み肌」までは清元から節を取った。佐七を題材にした小唄は他にも幾つかあるが、私はこの唄が一番好きだ。この唄を11月の天声会で蓼胡満和さんの糸で唄わせて貰えそうなので楽しみにしている。