聖徳太子の謎
梅原猛の法隆寺論「隠された十字架」を漸く読み終えた。著者がその中で、良く分からないと言っていた聖徳太子の実像について少し触れて見たい。学者でもなく、一ブロガーに過ぎない私が、そんなことを言うのはおこがましいが、興味本位であるにしても、私なりに想像をめぐらし、知らないエピソードを拾ったりするのは楽しいことである。
三世紀の頃、鉄や銅を武器や農具に使った好戦的な部族が北九州から大和に侵入して来て、多くの先住部族たちを滅ぼしたり服従させたりして、遂に覇権を握り、大和王朝を打ち立てるのであるが、その傘下で大伴,物部、蘇我などの部族が、武力や財力を蓄え、大きな豪族となって飛鳥や斑鳩周辺を占拠していた。その中の蘇我氏が、稲目ー馬子-蝦夷ー入鹿と四代に亘り、大和王朝で脚光を浴びるようになったのは、六世紀に入ってからであるが、蘇我氏の先祖は、朝鮮半島からの渡来氏族であったようである。
私のブログ・日本古代史では、聖徳太子のことについて、昨年の11月3日の「異説・所得太子」で、晩年の聖徳太子が強度のノイローゼになって49歳の若さで死んだと云う井沢元彦の「逆説の日本史」や、今年11月23日の「法隆寺ー怨霊を封じ込める寺」で、法隆寺の再建は、聖徳太子の怨霊に苦しめられた藤原氏がその怨霊を慰め、再び出られないよう封じ込めるために建てたものであるという梅原猛の所論を紹介した。
聖徳太子と云う呼び名は、死後贈られた贈名で、元々厩戸皇子(うまやとのみこ)という名であった。厩戸は574年、31代用明天皇と穴穂部間人皇后との間に長子として生まれた。用明天皇の母も皇后の母も蘇我稲目の娘で馬子とは兄妹の間柄。厩戸には蘇我の血が色濃く流れている。早くから仏教を崇拝する蘇我氏は、大和朝廷の外戚となり権力を増大させたが、強力な軍事力を持つ神道派の物部氏と対立して争い、遂に物部を滅ぼした。
592年に起きた32代崇峻天皇の暗殺事件は、蘇我馬子の娘で30代敏達天皇の妃であった刀自古郎娘(とじころのいらつめ 33代推古帝)の陰謀であった。崇峻帝の後、推古帝が即位し、厩戸が推古帝の摂政となり、蘇我馬子と共に政治を取り仕切った。梅原猛の聖徳太子についての講演の記録を読むと、厩戸は、冠位十二階や憲法十七条を制定し、日本国家の骨組みを創り上げたばかりでなく、身分制を打破し、能力と徳で人を登用すると言う人事改革を実行したため、身分制や階級性に固執する保守勢力の反発を買うことになったという。
更に梅原は続ける。厩戸は、当時先進国であった中国の政治や文化を摂取することに熱心であった。然し国の統治に関しては中国とは一味違っていた。中国では、皇帝の権力は絶大で、軍事を統括し、臣下の任命権はもとより、人民の生殺与奪も思いのままであった。皇帝を退けば臣下に格下げさせられた。だから誰も皇帝には逆らえなかった。暴君が出ると革命が起きた。厩戸は日本の政治の仕組みを天皇に大きな権力を持たせない方式にした。重要なことは、上皇、皇太后、大臣などが口出しをして決めた。だから天皇は言わば判こを押すだけの象徴天皇であった。厩戸が何故こんな仕組みを作ったかは謎で、梅原もこの点には触れていないが、私は厩戸の国家統治の理想がそうさせたあものと思う。即ち憲法十七条の「和」の精神と仏教を柱とする国作りを理想としたからだと思う。
厩戸は、中国で屡々起きた革命の恐ろしさを知り、厩戸自身や子孫が天皇になるかもしれないし、日本に中国のような革命が起きないことを考えたとしても不思議は無い。しかし私に言わせると、理想を持つことは悪くないが、日本統治の仕組みを律令化するには少し甘過ぎたと思う。藤原氏がこの仕組みを巧に利用し、自分達一族が政治の中枢に座ることで、何百年もの間、藤原の栄華の基になった権力の座を築くのに資したのである。
その後の日本の歴史を振り返ってみても、鎌倉、室町、安土桃山、江戸時代以降現代まで、権力者は皆この仕組みを利用した。そしてこれを変えようとした長屋王は藤原に殺され、後醍醐天皇は足利尊氏に殺され、明治以後も軍閥という勢力のため無謀な太平洋戦争まで起こしてしまった。この国の仕組みを最初に作った聖徳太子にその責任が無かったとは言えまい。これは私の考えである。