継体・磐井戦争
(福井市に立つ継体天皇像)
再び、「森浩一が語る日本の古代」へ戻る。今回は、527年頃起きた継体天皇と九州の豪族・筑紫君磐井の戦争がテーマ。 大和政権を揺るがした672年の壬申の乱と並ぶ古代最大の争乱、それが継体・磐井戦争であった。その模様を語る前に、26代継体天皇が出現する六世紀始め頃の日本列島内外の情勢について振り返ってみたい。
21代雄略天皇が、ヒトラーみたいな独裁主義者で、意に添わない多くの皇族、豪族を滅ぼしたため、これまで大和政権を支えてきた有力者達は、畿内から手の届かない地方に離散し、大和政権はすっかり力を失ってしまった。その間に、九州の豪族・磐井が勢力を伸ばし、朝鮮半島との交易を独占しようとしていた。一方、朝鮮の新羅が磐井と同盟を結び、北九州の一部を領土にしようと画策していた。まさに大和政権としては最大のピンチで、強力なリーダーシップが必要であった。
日本書紀では、継体天皇の前・25代武烈天皇のことを暴逆な天皇で、数々の非道を行い民を苦しめたと記述している。武烈二年九月、妊婦の腹を割いて胎児を取り出して見たとか、武烈三年十月、人の生爪を剥がして山芋を掘らせたとか、武烈四年四月、人の頭の毛を抜いて樹の上に登らせ、樹を切り倒し人が死ぬのを見て喜んだとか、ブログにも書きたくないようなもっと酷い事もしている。これは継体が立派な天皇であることをPRするためかもしれない。
武烈天皇には、男の子も女の子も無かったので、大和王朝の皇統は、25代の武烈で一旦途絶えた。そこで、大伴、物部、蘇我、巨勢など大和の豪族達は、次の王を誰にしようかと相談をした。雄略で懲りているから、独裁者では困る。色々探した挙句、越前三国の豪族の王で、応神天皇五世の孫とかいう男大迹大王(おおどのおおきみ)なる王に白羽の矢を立て、大和の大王になってほしいと懇請した。
此処で、男大迹大王の出自について、若干触れてみたい。記紀では、25代武烈天皇までは、真偽は別として、詳しい系図が記されているのに、応神から継体までは,不詳を示す△が四個並んでだけで、五代目に継体の名が出てくる。記述も五世孫とあるだけで、その間が全くぼかされている。そのため、継体の出自に色々疑問が生じた。しかし継体の父・坂中井彦主人(さかないひこうし)が、近江の息長(おきなが)氏系の豪族で、母は朝鮮・伽耶国の出身という説が有力である。息長氏については、別の機会で触れる積りであるが、百済との交易で鉄の輸入を独占していたらしい。
男大迹大王が、当時、大和朝廷の実力者・大伴金村に説得されて、河内の楠葉宮で即位したのが507年であるが、大和へ入ったのは、19年後の526年である。これは、大和の豪族の一部が継体に反対したからだと考えられる。継体が大和入りをした二年後に、大和政権の命運を賭けた、磐井・新羅連合軍との戦争が起きた。
戦争が始まった切っ掛けは、新羅が任那などを含む伽耶諸国を併合しようとしたので、任那が大和に助けを求めてきたからである。継体天皇はこれに応じ、近江毛野臣(おうみけのおみ)に六万の兵を持たせ、任那に向かわせた。新羅が筑紫君磐井にこれの妨害を依頼し、磐井は大陸への海路を抑え、毛野臣軍の通過を遮った。そこで継体は、物部大連(もののべのおおむらじ)に磐井討伐を命じ、527年6月、磐井との戦が始まった。翌年11月、両軍は、筑紫の御井(みい)という所で決戦し、その結果、磐井が敗北し、筑紫君は殺された。(一説では、逃げ延びたともいう)。継体も531年2月に没した。
古墳時代に築かれた数多くの前方後円墳の中で、被葬者が分かっているのは二基だけで、その二基というのが、奇しくも継体・磐井戦争の勝者と敗者の墓であると森浩一は指摘する。即ち、勝者・継体天皇の墓は、大阪府高槻市の今城塚古墳(宮内庁は茨木市の太田茶臼山古墳としているが考古学的には間違い。)で、敗者・磐井の墓は福岡県の岩戸山古墳である。
笠森おせん
(鈴木晴信画 笠森お仙)
小林栄作詞、春日とよ作曲の小唄「笠森おせん」を唄うということは、小唄学校などというものが若しあれば、卒業演奏みたいなもの。この小唄は、春日派の人でも、滅多に唄わせてもらえない唄であるが、春日派でもない気楽さで、八月の天声会の小唄会で、鶴村寿々豊師匠の糸で唄わせて頂くことになった。
この小唄は、芝居小唄に分類されていて、小林栄の歌詞は次の通り。
(三下り)「鐘一つ売れぬ日もなし江戸の春 花の噂の高さより 土の団子の願事(ねぎごと)を かけた渋茶のお仙茶屋 私ゃ観られて恥ずかしい 掛行燈に灯をいれる 入相桜ほんのりと 白きうなじの立姿 晴信画く一枚絵」
この小唄には強い思い出がある。銀座八丁目に「一好」という普茶料理の店があった。そこのママは若い頃、伊東深水の美人画のモデルになって、サンデー毎日の表紙を飾ったほどの美人で、その店は面食いの客が多かったが、ママが小唄が好きで、菊地派で小唄を習っていたから、今の菊地派の家元・菊地満佐さんなんかも時々客で見えていた。「一好」のことは、05.11.07のブログに書いたから省略するが、強い思い出というのは、ママの旦那でもあり、お店の常連の客でもあった相山武夫氏のことである。
彼は、今生きていれば九十歳位。幾つものゴルフ場のオーナーで、金持ちぶらない、もの静かな紳氏であった。菊地派の小唄会で、ホテル・オークラなどでママや私が出演するときは、何時でも聴きにきてくれていた。その相山氏がママの勧めで小唄を始めたと思ったら、半年位であっという間に旨くなって、ある日、春日とよ栄芝さんの小唄会が国立劇場で催された時、栄芝さんの糸で唄ったのが「笠森おせん」だったのである。新橋か赤坂の芸者さんが立方の小唄ぶりだったが、その小唄の身震いするような歌声が今でも私の耳の底にのこっていて忘れられない。後でママから聞いた話で、彼は若い頃、声楽家を志し、本格的に声楽を学んだ人だという。
予備知識を得る為、木村菊太郎の芝居小唄で「笠森おせん」を引いて見る。慶応元年八月、守田座、河竹黙阿弥作 名題は「怪談月笠森」(かいだんつきのかさもり)とあり、梗概は、武州草加在の名主・忠右衛門の二人娘・姉がおきつで妹がおせん。いづれ劣らぬ器量好し。だが、姉のおきつが恋の縺れから市助という男に殺され,おきつは幽霊となって化けて出る。気丈なおせんが市助を殺し、姉の恨みを晴らすという筋だが、芝居としてはあまり面白ものではない。
次はネットで検索すると、笠森お仙というのは、今から凡そ240年前、十代将軍家冶の時代、江戸一番の美人と謳われた実在の人である。江戸・谷中の笠森稲荷の前に一軒の水茶屋があり、十四歳のお仙という美しい娘がそこで働いていた。鈴木晴信という浮世絵師が、お仙の立姿を錦絵に刷って売り出したところ、これが大評判となり、お仙のいる水茶屋には、連日、お仙を一目見ようと、江戸の町人が押し寄せたという。お仙を画いた絵草紙、双六、手拭などが飛ぶように売れ、手毬唄、川柳、芝居の主人公にされたり、人形まで作られた。十八歳の時、忽然と姿を消したが、或る旗本の妻に迎えられ、76で没するまで幸せにすごしたという。
何のことはない、晴信画く美人キャラクターが一人歩きしたというだけで、ロマンスもドラマもない。芝居だってお仙の人気を当て込んだ場当たり的なものに過ぎない。
小林栄作詞、春日とよ作曲の小唄「笠森おせん」という小唄は、芝居小唄なんかじゃなく、強いて言えば「風俗小唄」とでも言うべき物である。しかし、この唄は、同じ春日とよ作曲で三下りの「朧夜」と続けて謳われ、名曲、難曲の一つとされる。
《歌詞解説》
「鐘一つ売れぬ灯もなし江戸の春」:江戸中期、芭蕉第一の弟子・其角の俳句か
ら取ったもので、江戸の賑わいを謳った句。
「土の団子の願事」;笠森稲荷は瘡を病む人を治してくれると信じられ、始めに
土の団子を供え、治してくれたら本物の団子を供える習慣があったという。
《唄い方》
晴信画く春の夕暮れ、桜の花びらの散る中で、掛行燈に灯を点す、白いうなじの
、お仙の立姿を思わせるよう、あとに続く「朧夜」と共に情緒たっぷりに歌い上げ
る。
消された天皇
(黄泉の花・山吹)
神武天皇から始まる万世一系の天皇の系譜なるものは、実は、八世紀の頃、天武天皇の命で日本書紀が編纂された時、時の権力者・藤原不比等などによって偽装されたものであるという認識は、今や歴史家の常識である。日本書紀では、第一代から、整然と歴代天皇の名を連ねているが、実際は架空の人物だったり、実在の人物でも、権力者の都合で、即位を消されたりした。今回は、日本書紀で「消された天皇」の例として、小林恵子の「高市皇子物語」を紹介する。
672年に勃発した壬申の乱で、父・大海人皇子(おおあまのみこ 後の40代天武天皇)のため夫・大友皇子(39代弘文天皇)を殺された十市皇女(とおちのみこ)は、24歳の若さで未亡人となった。その6年後の天武七年(678年)、十市皇女は宮中で急死した。死因は判然としない(自害、他殺、急病など諸説あり)が、この時高市が作った三首の挽歌が万葉集巻二-156,157,158に収録されている。
「三諸(みもろ)の神の神杉(かむすぎ)は 夢にだに見んとすれども いねぬ夜ぞ多き」(亡くなった十市を夢にでも見ようとするが眠れぬ夜が多い)
「三輪山の山辺真麻木綿(まそゆう) 短木綿(みじかゆう) かくのみ故に長しと思いき」(短い契りであった 長かれと思っていたのに)
「山吹の立ち装いたる山清水 汲みに行かめど道の知らなくに」(山吹の立ち装いたる山清水=黄泉のこと。黄泉の国まで十市に逢いに行きたいが行く道を知らない)
十市の皇女は、大海人皇子が恋人・額田王に生ませた子で、母に似て美貌であった。高市皇子は、その後、大海人皇子が、身分の卑しい采女に産ませた子、つまり十市皇女の異母弟という訳だが、小林恵子説では、高市皇子は大海人皇子の兄・中大兄皇子が百済の内紛を逃れて済州島に亡命していた時、その国の高氏という氏族の娘に生ませた子で、天智天皇の直系の男子ということになり、このことが後で重要な意味を持つことになる。
万葉集巻二の前掲三首の挽歌を読めば、高市皇子と十市皇女とは既に相思相愛の仲であったと直感される。日本書紀では、高市皇子と十市皇女は、姉弟の恋愛だが、本当は、父も母も違うから不自然ではない。しかし二人の恋愛は、まるで生木が引き裂かれるように、運命に弄ばれてしまうのであった。十市皇女が天智天皇の長子・大友皇子に嫁すこととなり、壬申の乱という悲劇へと発展して行く。
高市皇子と十市皇女との関係は、十市が大友皇子の妃となってからも続いていたようで、壬申の乱で夫を失って未亡人になってからはより一曽燃え上ったらしく、その証拠に、天武四年、十市皇女が伊勢神宮に参詣した時、同行した采女から暗に高市皇子との関係を窘められたことがあった。そして天武七年四月、十市皇女が伊勢神宮の斎宮に就くことになり、その出立の日に急死したのは、高市皇子に逢えなくなるのを悲観しての自害としか考えられない、とは「万葉とその世紀」の著者・北山茂夫の説(上巻209頁)である。伊勢神宮の斎宮に就くとは、一切の男性を近づけないことであり、女性にとっては配流と同じことであった。
壬申の乱は、天智帝の弟・大海人皇子と天智帝の長子・大友皇子の皇位争いとされているが、本当は、高市皇子と大友皇子の皇位争いだった。高市皇子は大海人側に加担し、英雄的な働きで大海人側を勝利に導いたが、鳶に油揚げ。大海人(天武帝)に皇位を横取りされてガックリ。然し天武十五年九月、天武帝が病没すると高市皇子にも漸くチャンスがやってきた。やっと高市皇子が即位し天皇の位についた。ところが日本書紀の何処を見てもこのことは記述されていない。代わりに天武帝の皇后・鵜野讃良皇女が持統天皇として即位し、高市皇子は太政大臣として死ぬまで持統天皇に仕えたことになっている。これが「消された天皇」なのだ。
日本書紀に高市皇子の即位が記録されなかった訳は、高市皇子が本当は天智帝の直系であり、天武ー持統ー文部と続く天武系の天皇を担ぎ、その外戚となって政治の実権を握ろうとする藤原氏としては、天智ー高市皇子ー長屋王と皇位が続かれては困る。然し高市皇子は壬申の乱の最大の功労者だから抹殺する訳にもゆかず、天皇としては消したが、長屋王は罪も無いのに謀反を企てたことにして謀殺してしまったというのが真相のようだ。
馬上の神武天皇
(馬上の神武天皇)
前回ブログ・日本古代史「邪馬台国の謎」で、筆者は、邪馬台国が何処にあったかという謎を解くことよりも、三世紀の頃、邪馬台国という国が日本列島のどこかに存在し、そこに卑弥呼という女王がいたという事実を認識することの方が大切であると述べた。ところが何かの拍子に、手帳のカレンダーを見ていて、二月十一日が国民の祝日で「建国記念日」となっているのを見て驚いた次第。記紀などの日本古代史が偽装であると分かっているのに、根拠の無い「建国記念日」が法律で定められているのは、どうして???と疑問を持つのは筆者だけではないだろう。
国民の祝日と言うのは、敗戦後間もなく、昭和23年法律第178号第2条により政令で定められた日ということになっている。そして建国記念日を二月十一日とすることが、昭和41年政令第376号によって定められたのである。この二月十一日と言う日は、敗戦前は「紀元節」といい、偽装歴史書。「日本書紀」に、神武天皇が橿原宮で即位した日で、「辛酉年の春正月庚辰の日」と太陰暦で書かれているのを太陽暦に換算すると西暦紀元前六百六十年二月十一日となるのである。
敗戦前は、日本書紀が日本の正史としてまかり通っていたから、二月十一日を「紀元節」としても止むを得ないが、日本が神国でなくなった現在、西暦紀元前六百六十年二月十一日を建国の日とし、神代時代の偽装歴史を曳きづっているのは全くおかしい。西暦紀元前六百六十年の日本列島はまだ縄文時代で文字も暦も無かった。神武天皇も伝説上の人物で、即位した日が二月十一日だなんて算定できる訳も無い。八世紀頃にデッチ上げられた記述であることは間違いが無い。だから二月二十一日などどいうのは、何の科学的根拠も無い日なのである。
こんな日を「建国記念日」として法律で定めるなんて、八海老人としては文化人の端くれとして恥ずかしいよ。文部科学省や宮内庁のお役人たち、政治家や有識者達は一体なにを考えているのだろうか。因みに、世界の主要先進国の建国又は独立記念日を調べてみると、日本のように科学的根拠を持たない国は一つも無い。
(国 名) (月 日) (名 称) (由 来)
アメリカ 7月4日 独立記念日 1776年イギリスからの独立宣言
イギリス(1066年~仏ノルマンディ公が占領支配し、建国記念日は無い。
フランス 7月14日 パリー祭 フランス革命が始まった日
イタリヤ 6月2日 共和国記念日 国民投票により共和制を選んだ日
ドイツ 10月3日 ドイツ統一の日 東西ドイツが再統一した日
ロシア 6月12日 主権宣言日 ソビエト連邦からの独立を宣言した日
中 国 10月1日 国慶節 毛沢東が建国宣言をした日
スイス 8月1日 建国記念日 スイス誓約同盟が結ばれた日
インド 8月15日 独立記念日 イギリスから独立した日
八海老人に言わせれば、二月十一日は「偽装記念日」であり、そんな日を国民の祝日とするなんて忸怩たる思いがする。いっそ八月十五日を以って、日本国民が皇国史観の犠牲になって一億玉砕から救われたという意味で「救国記念日」とするか、七転び八起の達磨の精神で「八起記念日」などとするのが適当だろうと思う。
小唄酒処「胡初奈」の思い出
(「小唄酒処・胡初奈」の看板)
平成八年頃、大学クラスメートで小唄やカラオケの趣味も一緒、無二の飲み友達であったS君が、肝臓を悪くして一緒に酒が飲めなくなり、仕方なく独りで新橋界隈をさ迷い歩くようになった。それまではよく「姉妹」というカラオケや「矢作」という飲み屋(ママがS君と小唄の相弟子)や「一好」という料理屋や「いくまつ」という和風バーなどを飲み歩いた。その頃のある日、機関車から煉瓦通りへ抜ける栄通りに「小唄酒処・胡初奈」という看板を見付けた。急な階段を二階へ上ると、入り口に「会員制」と書いてある。会員になればいいのだろうと、恐る恐る戸を開けたら、客は誰も居らず、ママとヘルパーだけ。壁に三味線が何棹もかけてある。会員になりたいんですがというと、何か一つ唄って見てと言われ、何を唄ったか覚えていないが、それから時々足を向けるようになった。
平成九年六月、目黒の八芳園で胡初奈開店三十周年記念小唄会が催され、私も出演させてもらった。それ以来、ゆかた会、忘年会、長生会(胡初奈のママは長生松奈美という名で長生会の師範)などにも出させて貰うようになった。平成十一年の忘年会が芝浦の「牡丹」で催され、私の出番で「今日一日」を唄って自分の席に戻り腰を下そうとしたら貫禄のある老人がつかつかと傍へ寄ってきていきなり名刺を出し、同姓の誼で今後ともよろしくと言われたので名詞を見たら、「鹿島建設㈱顧問 小島三雄」と書いてあった。「お名前は存じ上がております」とご挨拶したが、小島氏は、当時私が勤めていた「五洋運輸」という会社が、数年前、芝浦五洋ビルの建設を鹿島建設に発注した時の担当役員だった人である。小唄の前に常磐津を三十年もやったと言っておられた。
胡初奈のゆかた会は、毎年八月、旅行を兼ね、私が会員になってから、修善寺あさば旅館、千葉一宮館、鬼怒川温泉ホテルさくら、ジャンボオーナーズ軽井沢、信州小諸菱野温泉など、楽しい思い出が多い。特に、鬼怒川温泉からの帰り、日光の銘酒・杉並木の酒蔵を訪れ、絞りたて大吟醸をご馳走になった時は、こんな旨い酒が他にあるかと思った。それ以来毎年「杉並木」を送って頂き、お陰ですっかり杉並木のファンになっていまった。
平成十六年十二月末、六十年も続いた私のサラリーマン生活にもピリオドが打たれ、私は㈱五洋ロジテックを円満退職した。翌年早々、東京済生会中央病院のミニドックへ検査入院をした所、左の腹部に大腸癌が発見され、すぐ手術ということになり、二月一日に三十センチも結腸を切除した。その時、真っ先に見舞いに来てくれたのが胡初奈のママだった。その胡初奈のママが四十年も灯を点し続けてきた「小唄酒処・胡初奈」の看板も、昨年十二月二十八日限りで灯が消えてしまった。これから先、「小唄酒処・胡初奈」のような気楽に一杯やりながら小唄が唄える場所が無くなるのを惜しむ胡初奈の元の常連達が中心になって、本年二月、橋本喬さんのお世話で「新胡初奈会」が発足し、三ヶ月毎に新橋・烏森の「古今亭」に集まって、松奈美師匠やお弟子の奈美弘師匠の糸で小唄を楽しんでいる。、この会がいつまでも続くことを祈って已まない。
邪馬台国の謎
(邪馬台国へのルート)
前回ブログ「日本古代史」(08.06.09)では、弥生後期の倭国女王・卑弥呼について推理作家・井沢元彦氏の説を紹介したが、今回は再び考古学者・森浩一の「日本の古代」に戻る。森浩一は、その著「日本の古代」の入門編の中の「倭人伝が画いた日本」の項で、考古学的立場から、卑弥呼の都・邪馬台国へのルートについて、かなり詳細に検証している。
倭人伝には、邪馬台国へのルート関して次のように書かれている。「初めて一海を渡ること千余里、対馬に至る。居る所絶海。方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の経の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、云々」から始まり、卑弥呼の居る邪馬台国に至るまで、地名、距離、戸数、首長名、人々の生活などが極めて正確に記録されている。長崎県や福岡県で発掘された弥生時代の遺跡から、倭人伝の記録を裏付けるものが数多く出土している。
例えば、倭人伝には、「一支(壱岐)国の男は皆、顔や身体に入れ墨をし、衣類は男は横幅、女は貫頭(一枚布の真中に頭を通す穴を開ける)を着る」とあるが、長崎県壱岐市の「原の辻遺跡」から、そんな絵が画かれた弥生式土器が幾つも出土している。当時、壱岐島の男は、海に潜って魚貝を獲るのが得意であったが、鮫などから襲われるのを防ぐため顔や身体に入れ墨をする習慣があったという。
考古学者・森浩一は更に語る。倭人伝には、卑弥呼が住んだ宮殿には、高い楼観(物見を兼ねる)、大きな宮室、広い環濠、城柵が設けられてをり、卑弥呼が死んだ時、殉死した数百人の召使たちも一緒に埋葬されたと書いてある。鳥取県の「長瀬高浜遺跡」や佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」などの弥生時代遺跡は、規模では卑弥呼宮殿にふさわしいが、多数の殉葬者を伴った卑弥呼の墓は未だ何処からも発見されていない。
また、倭人伝には、魏国からの使者が最後に辿りついた邪馬台国の位置については、記述がぼやけ、その為はっきり比定出来ず、未だに論争が続いている。しかし、倭人伝が書かれた三世紀頃、北九州か近畿地方か、日本列島の何処かに邪馬台国があり、卑弥呼という女王が居たという事実が大事なのであって、邪馬台国が何処かという謎を解くことよりも、偽装歴史書・日本書紀に記載されている、その頃神功皇后が三韓征伐をしたなどという嘘を正す方がよっぽど大切なのではないだろうか。
なぜ舒明天皇の歌が雄略の次に出てくるのか
(万葉集巻一の二 舒明天皇の歌)
万葉集巻一の最初の歌が第二十一代雄略天皇の歌で、なぜ雄略の歌が最初に出てくるかについて、前回ブログ「万葉の世界」で書いた。それを要約すると、雄略帝は、本名を昆支(こんき)と言い、百済王族の出身で、五世紀後半、兄の百済王に命ぜられて、倭国を統治するために日本列島に渡り、初めて倭国全体を一つの政権で統一した大王で、「籠(こも)よ み籠持ち・・・・」と倭国支配宣言の歌を作った人である。八世紀中頃、第四十五代聖武天皇の発案で万葉集の編纂が始められた時、編者(大伴家持)が雄略帝を初代倭国王と位置づけたため、この歌が万葉集の最初の歌になったと言う訳。
巻一の二番目に何故舒明の歌が来るのか? その理由について小林恵子の説に耳を傾けて見よう。先ず聖徳太子の出自に遡る。聖徳太子は出生から青年期まで様々な伝説に飾られているが、彼が歴史に登場してくるのは、蘇我氏が守屋氏と戦った時、蘇我側の指揮官として力を発揮し、遂に守屋を滅ぼしたという記述からである。宮廷育ちの若者がいきなり実戦に参加して目覚しい働きをするなどと言うことは考えられない。本当は、彼の名は昆支(こんき)と言い、モンゴル系騎馬民族からなる半島北部の小国の王であった。百済と組んで隋に反抗したが戦に敗れ、その頃百済系実力者・蘇我馬子を頼って倭国に亡命した。蘇我が守屋を滅ぼしたあと実力を馬子に認められ、推古天皇を補佐する摂政として倭国の政治を委かされた。彼は馬子と共に帝を援け、数々の政治改革を断行し、また大陸文化の導入にも努め、日本書記の編纂者から「聖徳太子」という贈名を付けられた。
622年に聖徳太子が没し、628年には推古天皇も病没、そのあと629年に聖徳太子の息子・山背大兄皇子が即位したが、山背の即位は日本書紀から抹消され、中大兄皇子(後の天智天皇)や大海人皇子(後の天武天皇)の父である田村皇子が第三十四代舒明天皇として推古天皇のあとを継いだことになっている。何故そうされたかと言えば、山背大兄皇子は、騎馬民族の王であった聖徳太子の息子で、如何に人望が厚くても、百済系人脈から見れば異端の系譜で、排除、抹殺されても仕方がなかったからだと言えよう。
山背王朝が、自ら大王になろうとした実力者・蘇我蝦夷、入鹿親子によって、一人残らず皆殺しにされたことが、百済王朝の流れに繋がる中大兄皇子、中臣鎌足らに蘇我誅殺の絶好の口実を与えた。こうして乙巳(いっし)の変となり、蘇我氏は滅亡、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、天武、持統と百済系王朝が続き、蘇我氏に代わって藤原氏が政治の舞台にのし上がって行くのである。
第二十一代雄略帝から三十四代舒明帝まで、約一世紀半を経ており、その間、大和朝廷では、様々な事件(07・06・16ブログ{万葉の世界』参照)が起きており、政治的には不安定な時代であった。日本書紀には、その間十三代の天皇名が記されているが、その殆どが百済や高句麗の王族に血脈関係のある人達である。08・06・03ブログ「万葉の世界」で、「万葉集」が日本列島や朝鮮半島の政治の裏面史を暴くと述べたが、万葉集巻一の歌と二の歌、つまり雄略と舒明の間に、恐ろしい近江王朝の裏面史が隠されている。万葉集の編者が、舒明に続く百済系王朝の正当性をアピールするため、雄略の次に舒明を持って来たのだと小林恵子氏は主張する。万葉集巻一の二の歌はあまりにも有名な舒明天皇の「大和には群山あれど・・・・」という国褒めの歌である。
管丞相
(菅原道真公)
5月1日の室町小唄会で、世話役の柳田さんが「管丞相」を唄われた。私が習ったことの無い唄で、上村幸以さんの「小唄とはなし」にも出ていないし、同じ上村さんの「小唄百五十番」のテープにも収録されていない。天神様の小唄は幾つかあるが、管公自身を唄った小唄は珍しい。しこで興味を覚えたので、木村菊太郎の「芝居小唄」を開いてみた。なんと江戸時代の作で、歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」から採られたものであることが分かった。
歌詞を紹介すると、「管丞相は筑紫の配所(はて)に流されて 牛に召されて安楽寺 牛に召されて安楽寺 御供申すは白大夫 平馬が首は飛び梅の 怒りの顔色あるわいやい ここから睨ましゃましても 都の方へは届きゃせぬ」。
間丞相は(かんしょうじょう)と読む。岩波漢語辞典を引くと、丞相とは「天子の執政を補佐する大臣」とある。管とは菅原道真のことで、この小唄は歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」の中の筑紫配所の場を唄ったもので、管公が筑紫へ流されてから二年後の延喜三年(903年)二月下旬、是まで一度も外へ出たことの無かった管公が牛の背に乗り、白大夫(しらだいう)を供にして大宰府の安楽寺に詣でた時の話。
政治の権力を独占しようとする左大臣・藤原時平が、ライバルで右大臣の管公を
讒言によって筑紫へ流させ、更に鷲塚平馬という刺客を送り亡き者にしようとする。管公が時平の野望を知り、思わず梅の枝で平馬の首を打つと首はぱったりと前に落ちる。管公はハッタと都の方を睨み、それから天拝山の頂に登り、帝の平安を祈る三日三晩の荒行祈願を行い、挙句二月二十五日、遂に昇天して雷紳となり、時平らを悩ました。御年五十九歳であった。
《歌詞解説》 「飛び梅」:管公が都で愛でた紅梅が管公を慕って筑紫の配所まで飛んできたという伝説と、平馬の首が飛んだのを掛けている。
「睨ましゃましても」;(睨ましゃんしても)の古い言い方。
《唄い方》この唄の節廻しは「梅が枝さん」と同じ。三味線は三下りで、ト・テンチンリン ト。テンチンリンの二度目チンリンに乗せて「かんしょうじょう」と唄い出す。「うしにめされてあんらくじ」を二度繰り返すが、二度目は前より低く唄う。「へいまがくび・・・・あるわいやい」まではセリフのようにうたう。
因みに、「菅原伝授手習鑑」や「仮名手本忠臣蔵」などの、江戸庶民に愛された芝居の作者が、いずれも「いろは」という字母歌(歌の中に特別なメッセージが隠されている歌)のメッセージ「咎無くて死す」によって体制批判をしていたとは驚くべきことである。「菅原伝授手習鑑」の「手習鑑」とは「いろは」のことで、「仮名手本忠臣蔵」の「仮名手本」も同じく「いろは」を意味し、いずれも秘かに時の権力を揶揄した芝居なのである。(2007。05.07 ブログ「古代からのメッセージ」参照)
卑弥呼の謎
(卑弥呼のイメージ)
前回のブログ「万葉の世界」で、弥生後期の倭国の女王・卑弥呼に触れ、その記事は「日本古代史」に譲るとしたので、今回、「逆説の日本史」の著者で推理作家の井沢元彦氏の所説を紹介して約束を果たす。
古代、いや現代においてさえも、日本人の中には、神や霊魂や怨霊などに対する信仰が根強く存在している。神や霊魂や怨霊などは、人の力を遥かに超えたものである。神は、太陽、月、星などの宇宙や、雲、雷,火、水、土、山、海、湖、森、林などの自然の中に普く宿り、人が死ぬとその霊魂は霊界にいつまでも生き続け、時には怨霊となって神や霊魂を害した者に崇りをなすと信じられ、恐れられてきた。
人でありながら神の力を身につけ、人と神との橋渡しをし、それで以って人々を統べ治めるのが王である。神々を祀る祭祀が王の最も大事な役目であった。だから政治は「まつりごと」と言った。王から委託されて祭祀を取り仕切る女性を巫女(みこ)と言い、その所作を鬼道と証した。中国で記述された「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は鬼道を行なう者で、選ばれて倭国の女王となったという。
武力で周囲の国々を制圧した者が王となり、「まつりごと」を行なって人々を治めたが、王は自分と神々をシンクロナイズさせることが出来ると信じられ、その故に王は現人神と崇められた。日本が1945年に敗戦するまで、天皇は現人神とされていたことは、記憶に未だ残っている。「いざと言う時には神風が吹く」という台詞は耳に蛸が出来る程聞かされた。
古代では、この世に、天災や飢饉や疫病などの災いがあると、それは王の責任とされた。王が神とシンクロナイズする力が衰えた所為と考えられた。その時は王は人々によって消され、新しい王が立てられた。これを中国では「命改まる」、即ち革命と言った。弥生時代の日本でも例外ではなかった。卑弥呼は、倭国と不仲であった狗奴国との戦に敗れたため、責任を取らされ、248年に以って死す。つまり殺されたのだと言う。
現代の天文学で「古天文学」という分野がある。コンピューターの発達により膨大な計算が可能となったため、いくらでも過去に遡って太陽や惑星の軌道が正確に計算できるようになった。その結果、紀元248年っという年は、中国の記録で倭国の卑弥呼が亡くなった年と記されているが、古天文学によると、90年に一度の皆既日食が日本列島西部で見られた年であることが分かった。太陽が次第に欠けて行き、昼間だと言うのに真っ暗闇となる。古代の人々にとって、大変な災いの前兆と恐れられたに違いない。敗戦もさりながら卑弥呼の女王としての霊力が衰えたと思われても不思議ではない。卑弥呼に代わって壱余(とよ 又は台余と書く)が次の女王に立てられた。
井沢氏の所説は、やがて卑弥呼の伝説が「天照大神」の神話となり、皇祖紳とされ、偽装天孫降臨、万世一系の皇室の先祖にデッチ上げられたという。因みに、王が全ての災いの責任を取らされるという制度は、後の聖徳太子によって、王や天皇は統治の単なる象徴とされ、責任を取らされない制度に改められ、これが幕府政治の始まりで江戸時代まで続くことになる。
何故雄略天皇から始まるのか
(雄略天皇陵)
八海老人のブログ「万葉の世界」も、小林恵子の「万葉集」をテキストにして回を重ね、次第に朧ろげながら幻視の中から、本当の姿が見えてくるような気がする。政治の権力者たちによって偽装された日本の古代史から仮面を剥ぎ取り、文字の無い余白の中に、赤裸々な真実を視ることができる。それが「万葉集」である。政治の権力者たちも、「万葉集」までも偽装することは出来なかった。それは同時に、「万葉集」は、日本列島や朝鮮半島の政治の裏面史を暴くものだとも言える。
日本の皇室の万世一系の系譜は、藤原氏が四十年も掛けて創作偽装したものだということは、歴史家の常識である。藤原氏は、古代日本の記録を尽く焼き捨てさせたが、日本の偽装歴史を暴露する反面資料が、中国や朝鮮には残っている。これらの資料や考古学やDNA鑑定などの技術を駆使し、中国、朝鮮、日本の学者たちが協力すれば、かなり真実に近い姿が見えてくる筈だ。
日本列島が中国の人たちから倭国と呼ばれていた頃、倭国に「卑弥呼」という女王がいたことが「魏志倭人伝」に記されている。「卑弥呼」が実在した三世紀の中頃は、倭国は百余の国に分かれ、まだ混沌としていた時代である。日本書紀では、在りもしない天皇の名を十も二十も並べ万世一系などど粉飾し、「卑弥呼」が居た頃は、十五代応神天皇の御代で、摂政が神功皇后となっており、勿論「卑弥呼」の名前など出てこない。ここでは、「卑弥呼」の詮索はブログ「日本古代史」に譲って、「万葉集」が何故雄略天皇から始まるのか、小林恵子の記述を紹介したい。
日本列島の歴史は、五世紀頃まで政治的には混沌とした状態が続き、雄略天皇の頃に初めて一つの政治権力によって統治されたと見られている。雄略天皇というのは後から付けられた名前で、日本名を「ワカタケル」と言い実在した人である。「ワカタケル」は、百済の王族の出身で、百済での名は「昆支(こんき)」、兄の蓋歯王から倭国への遠征を命ぜられてやって来た。「ワカタケル」は東奔西走、従わざるものを征伐し、倭国全体を統治するようになった。そして自分は倭国の王であると宣言したのが、「万葉集」巻一の一の歌なのである。本当に「ワカタケル」が作った歌かどうか疑問視されているが、百済の方言が使われていると言うから本当に作ったのかも知れない。
百済の蓋歯王の先祖は、南匈奴(モンゴル系の騎馬民族)で、その身内が日本列島にやって来て倭国の王となった訳で、日本の皇室は、先祖が大陸から来た騎馬民族であることを隠蔽したいために、天孫降臨、万世一系などという筋書きをデッチ上げたという。お陰で後々日本国民がひどい目にあった。