邪馬台国の謎 | 八海老人日記

邪馬台国の謎

        

         

          (邪馬台国へのルート)


 前回ブログ「日本古代史」(08.06.09)では、弥生後期の倭国女王・卑弥呼について推理作家・井沢元彦氏の説を紹介したが、今回は再び考古学者・森浩一の「日本の古代」に戻る。森浩一は、その著「日本の古代」の入門編の中の「倭人伝が画いた日本」の項で、考古学的立場から、卑弥呼の都・邪馬台国へのルートについて、かなり詳細に検証している。


 倭人伝には、邪馬台国へのルート関して次のように書かれている。「初めて一海を渡ること千余里、対馬に至る。居る所絶海。方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の経の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、云々」から始まり、卑弥呼の居る邪馬台国に至るまで、地名、距離、戸数、首長名、人々の生活などが極めて正確に記録されている。長崎県や福岡県で発掘された弥生時代の遺跡から、倭人伝の記録を裏付けるものが数多く出土している。


 例えば、倭人伝には、「一支(壱岐)国の男は皆、顔や身体に入れ墨をし、衣類は男は横幅、女は貫頭(一枚布の真中に頭を通す穴を開ける)を着る」とあるが、長崎県壱岐市の「原の辻遺跡」から、そんな絵が画かれた弥生式土器が幾つも出土している。当時、壱岐島の男は、海に潜って魚貝を獲るのが得意であったが、鮫などから襲われるのを防ぐため顔や身体に入れ墨をする習慣があったという。


 考古学者・森浩一は更に語る。倭人伝には、卑弥呼が住んだ宮殿には、高い楼観(物見を兼ねる)、大きな宮室、広い環濠、城柵が設けられてをり、卑弥呼が死んだ時、殉死した数百人の召使たちも一緒に埋葬されたと書いてある。鳥取県の「長瀬高浜遺跡」や佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」などの弥生時代遺跡は、規模では卑弥呼宮殿にふさわしいが、多数の殉葬者を伴った卑弥呼の墓は未だ何処からも発見されていない。


 また、倭人伝には、魏国からの使者が最後に辿りついた邪馬台国の位置については、記述がぼやけ、その為はっきり比定出来ず、未だに論争が続いている。しかし、倭人伝が書かれた三世紀頃、北九州か近畿地方か、日本列島の何処かに邪馬台国があり、卑弥呼という女王が居たという事実が大事なのであって、邪馬台国が何処かという謎を解くことよりも、偽装歴史書・日本書紀に記載されている、その頃神功皇后が三韓征伐をしたなどという嘘を正す方がよっぽど大切なのではないだろうか。