笠森おせん
(鈴木晴信画 笠森お仙)
小林栄作詞、春日とよ作曲の小唄「笠森おせん」を唄うということは、小唄学校などというものが若しあれば、卒業演奏みたいなもの。この小唄は、春日派の人でも、滅多に唄わせてもらえない唄であるが、春日派でもない気楽さで、八月の天声会の小唄会で、鶴村寿々豊師匠の糸で唄わせて頂くことになった。
この小唄は、芝居小唄に分類されていて、小林栄の歌詞は次の通り。
(三下り)「鐘一つ売れぬ日もなし江戸の春 花の噂の高さより 土の団子の願事(ねぎごと)を かけた渋茶のお仙茶屋 私ゃ観られて恥ずかしい 掛行燈に灯をいれる 入相桜ほんのりと 白きうなじの立姿 晴信画く一枚絵」
この小唄には強い思い出がある。銀座八丁目に「一好」という普茶料理の店があった。そこのママは若い頃、伊東深水の美人画のモデルになって、サンデー毎日の表紙を飾ったほどの美人で、その店は面食いの客が多かったが、ママが小唄が好きで、菊地派で小唄を習っていたから、今の菊地派の家元・菊地満佐さんなんかも時々客で見えていた。「一好」のことは、05.11.07のブログに書いたから省略するが、強い思い出というのは、ママの旦那でもあり、お店の常連の客でもあった相山武夫氏のことである。
彼は、今生きていれば九十歳位。幾つものゴルフ場のオーナーで、金持ちぶらない、もの静かな紳氏であった。菊地派の小唄会で、ホテル・オークラなどでママや私が出演するときは、何時でも聴きにきてくれていた。その相山氏がママの勧めで小唄を始めたと思ったら、半年位であっという間に旨くなって、ある日、春日とよ栄芝さんの小唄会が国立劇場で催された時、栄芝さんの糸で唄ったのが「笠森おせん」だったのである。新橋か赤坂の芸者さんが立方の小唄ぶりだったが、その小唄の身震いするような歌声が今でも私の耳の底にのこっていて忘れられない。後でママから聞いた話で、彼は若い頃、声楽家を志し、本格的に声楽を学んだ人だという。
予備知識を得る為、木村菊太郎の芝居小唄で「笠森おせん」を引いて見る。慶応元年八月、守田座、河竹黙阿弥作 名題は「怪談月笠森」(かいだんつきのかさもり)とあり、梗概は、武州草加在の名主・忠右衛門の二人娘・姉がおきつで妹がおせん。いづれ劣らぬ器量好し。だが、姉のおきつが恋の縺れから市助という男に殺され,おきつは幽霊となって化けて出る。気丈なおせんが市助を殺し、姉の恨みを晴らすという筋だが、芝居としてはあまり面白ものではない。
次はネットで検索すると、笠森お仙というのは、今から凡そ240年前、十代将軍家冶の時代、江戸一番の美人と謳われた実在の人である。江戸・谷中の笠森稲荷の前に一軒の水茶屋があり、十四歳のお仙という美しい娘がそこで働いていた。鈴木晴信という浮世絵師が、お仙の立姿を錦絵に刷って売り出したところ、これが大評判となり、お仙のいる水茶屋には、連日、お仙を一目見ようと、江戸の町人が押し寄せたという。お仙を画いた絵草紙、双六、手拭などが飛ぶように売れ、手毬唄、川柳、芝居の主人公にされたり、人形まで作られた。十八歳の時、忽然と姿を消したが、或る旗本の妻に迎えられ、76で没するまで幸せにすごしたという。
何のことはない、晴信画く美人キャラクターが一人歩きしたというだけで、ロマンスもドラマもない。芝居だってお仙の人気を当て込んだ場当たり的なものに過ぎない。
小林栄作詞、春日とよ作曲の小唄「笠森おせん」という小唄は、芝居小唄なんかじゃなく、強いて言えば「風俗小唄」とでも言うべき物である。しかし、この唄は、同じ春日とよ作曲で三下りの「朧夜」と続けて謳われ、名曲、難曲の一つとされる。
《歌詞解説》
「鐘一つ売れぬ灯もなし江戸の春」:江戸中期、芭蕉第一の弟子・其角の俳句か
ら取ったもので、江戸の賑わいを謳った句。
「土の団子の願事」;笠森稲荷は瘡を病む人を治してくれると信じられ、始めに
土の団子を供え、治してくれたら本物の団子を供える習慣があったという。
《唄い方》
晴信画く春の夕暮れ、桜の花びらの散る中で、掛行燈に灯を点す、白いうなじの
、お仙の立姿を思わせるよう、あとに続く「朧夜」と共に情緒たっぷりに歌い上げ
る。