八海老人日記 -8ページ目

髪結新三

(髪結新三の家の場面 左が新三 右が大家の長兵衛 押入れにお熊)


 「何事も言わぬが花の山吹や 昔ながらの黄八丈 十両に五両で十五両 貰う鰹の片身さえ 名も刺青の藍上り」。ご存知、芝居小唄「髪結新三」である。歌舞伎での題名は「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」。明治六年、河竹黙阿弥が書き下ろした世話物で、五世菊五郎がイナセな新三を演じ、大当たりを取った。


 芝居の粗筋は、江戸深川の材木問屋白子屋の娘お熊は黄八丈の着物がよく似合う器量好であるが、家の主が亡くなり、妻女が女主人で切り盛りしてきたが、次第に身代が傾いたため、お熊に持参金付の婿を取ることになった。所がお熊は既に手代の忠七と人目を忍ぶ仲となっていた。


 お熊と忠七の秘密を嗅ぎつけたのが床店を持たない髪結いの新三。実は新三は刺青者(前科者)で、もぐりで髪結いをやっているが、一皮剥けば、人の弱みに付け込んで強請り騙りを働く根っからの悪であった。早速新三はお熊と忠七を唆し、二人に夜の闇にまぎれて駆け落ちすることを勧め、二人がその気になって永代橋の近くまで来ると、そこで本性を現し、忠七を殴り斃し、お熊を担いで深川の我家へ連れ込み、猿轡を食わせて押入れに放り込む。お熊をさんざん慰んだ上、女郎に叩き売る積りであった。


 翌朝、新三は、かつお! かつお!の売声を聞き、大枚三分(今の金で約6万円)

を叩いて初鰹を一本買い、これを刺身にして朝から一杯やる積り。そこへ浅草乗物町の源七親分がやって来る。親分は、橋の上から身投げしようとしている忠七から訳を聞き、新三からお熊を取り返すため手切れ金十両を持って来たのであるが、新三に散々辱められ、金も投げ返される。


 困り果てた白子屋の女主人は、新三の家主長兵衛に泣きつくと長兵衛は三十両で引き受ける。悪の新三も、老獪な長兵衛には歯が立たず、三十両でお熊を返すことを承知する。長兵衛が新三に、「鰹は片身貰ってゆくぜ」と謎めいた事を言い、新三には十五両しか渡さず、あとの十五両は自分の骨折り賃で取ってしまうのであった。この場面が冒頭の小唄で唄われているのであるが、出だしの三味線が「さつまさ」の三味線になっているのは、この芝居の出囃子が「さつまさ」の三味線だからである。この小唄は新内調で、歯切れよく唄うのがコツであると木村菊太郎の「芝居小唄」に書いてある。髪結新三の小唄はまだ他にもあるが今回はここまで。 


 

森浩一が語る日本の古代ーその三

(弥生時代の集落)

  

 考古学者・森浩一が語る日本の古代ーその三は、弥生時代についてである。前回のブログ、日本古代史(2008-03-25)で、日本列島の豊かな森や海の恵みを受けて生活し、弓矢を発明して獣を狩り、煮炊きの出来る土器や災いを払う土偶などを開発し、エネルギッシュな文化を展開した縄文人が、歴史の舞台から忽然と消えたことについて書いた。ところが、最近DNA鑑定の結果、なんとアイヌ人が縄文人の子孫であることが判明したというのである。


 弥生時代の弥生と云う言葉は、東京大学の敷地内にある本郷弥生町で、縄文時代の土器と全く異なった様式の土器が発見されたことから、この土器が作られた時代にこの名が付けられたもので、今から二千数百年前~三世紀中頃迄の時代を言う。この時代の最大の特徴は、中国・揚子江流域で発達した水田による稲作技術が渡来人によって日本列島に齎されたことである。


 水稲技術を持った、大陸からの渡来人が、日本列島にやって来た主なルートは、中国の揚子江流域から朝鮮半島経由対馬海峡を渡って北九州へ達するルートと、三東半島などから東シナ海を渡り、直接有明海などに達するルートで、水田稲作文化は、日本列島の西部・九州や近畿から東へと、比較的速い速度で広がっていった。縄文文化が東に偏っていたのに対し、弥生文化はむしろ西が中心であった。


 大陸からの渡来人が日本列島に持ち込んだ技術は水稲技術ばかりではなかった。渡来人が齎したもう一つの先端技術は、銅や鉄など金属の精錬、鋳造の技術である。これは、当時の縄文人から見ると革命的技術であった。渡来人の集団は、青銅や鉄で武器や農具などを作った。これにより縄文人と渡来人の力の差は歴然で、縄文人は渡来人に対し、奴隷となって労力を提供するか、渡来人のいない北東へ逃れるかどちらかであった。


 渡来人が齎した水稲栽培の技術は、縄文人にも瞬く間に吸収されていった。それと共に、弥生文化も縄文人の間に浸透して行き、生活様式も変わった。山や森の生活から、低い平らな土地で暮らすようになった。青森県の砂沢遺跡から、弥生前期の水田跡が発見されており、渡来人の集団がが此処までやって来たとは考えにくく、津軽半島に住み着いた縄文人が水田による稲作をやった跡と考えられる。


 弥生時代の中期から後期にかけて、渡来人を先祖とする集団が次第に勢力を蓄え、九州から近畿にかけて多くの豪族が発生したことは想像に難くない。その中で覇権を握ったものが王となり、周辺の地域を統治した。或は、日本列島を統治するため、朝鮮半島から渡来する者もいたであろう。そうした権力者たちは中国の皇帝に朝貢し、倭乃国王という金印を貰って安堵した。女王・卑弥呼もその一人であった。次回日本古代史は、女王・卑弥呼について検証する。




卯の花

         

         (卯の花)


 私の好きな小唄の一つに伊東深水作詞、清元寿兵衛(三世清元梅吉)作曲の「卯の花」というのがある。この小唄が作られたのは、木村菊太郎の昭和小唄その三によれば、昭和38年~39年頃としてあり、寿兵衛が亡くなる2~3年前のことである。伊東深水の作詞は、「目に青葉 茄子のはしりに花落ちの 高値は承知 初鰹 一杯飲んだ酒機嫌 オット危ねえ 長箱の 乙な二上り桟橋や 船は屋根船佃節 是非に御見と画いた文 また後船の日和下駄 嬉しい首尾の仲町で 一声聞いたほととぎす。」で、時代は江戸末期頃、深川は門前仲町辺りの情緒を唄ったもの。


 作詞の伊東深水(1898~1972)は、ご存知日本女性の美しさを画いた日本画家。生まれが深川のせいか、辰巳芸者、門前仲町、八幡鐘などの情緒をこよなく愛した。踊り姿の若い芸者などを画いている内にいつしか常磐津、清元、小唄などに馴染み、「辰巳よいとこ」、「辰巳左嬬」など作詞し、常磐津三蔵、清元寿兵衛などの曲付けにより、粋な江戸小唄が生み出された。


 作曲の清元寿兵衛(1889~1966)は、明治中期から昭和中期にかけて、清元三味線方として活躍した人で、人間国宝にも指定された。深水を始めとし1ダースほどの小唄を作曲しているが、いずれも名曲である。深水とは踊りのイメージが清元の所作事にピッタリすることから、「辰巳左嬬」などの名曲が生まれた。


 ここで言う「卯の花」とは、豆腐のおからのことではない。初夏の垣根などに雪のように真っ白な花をつけるウツギの花のことである。「卯の花の匂う垣根に ホトトギスの早も来鳴きて・・・」と子供の頃唄ったことがある。卯の花は初夏を代表する花のようである。不思議なことに深水の歌詞の中には、「卯の花という言葉は一度も出てこない。出だしの「目に青葉」は、江戸時代の山口素堂の有名な俳句・目には青葉 山ほととぎす 初鰹を思い出させる。万葉集にも卯の花の歌が24首も詠まれており、多くがほととぎすとセットになっているところを見ると、深水もこの小唄の最後に出てくる「一声聞いたほととぎす」を強調するため題を「卯の花」としたのかも知れない。


 何でも初物の好きな江戸っ子は、走りの茄子の浅漬や花が落ちたばかりの胡瓜のもろきゅうや初鰹などを肴に一杯やることが最高の贅沢であった。無論高値は承知。江戸っ子は宵越しの金は使わない。仲町の馴染みの妓から、是非逢いたいと言って来たので、仕事帰りに遊び船に連れ出し、一杯機嫌で、「吹けよ川風 上れよ簾 中のお客の顔みたや」など佃節をうたいながら楽しんで、あとはまた船で仲町まで戻って朝のほととぎすの一声を聞くまで一夜を共にする。江戸町人のなんと風流なことよ。今のサラリーマンはこういった気散じを知らないで仕事ばかりしているからウツになる人が多い。


 小唄本の千種の「卯の花」の項を見て、二つ疑問点があることに気が着いた。一つは「是非に御見」というところを「是非に御免」としてある。これは明らかなミス。もう一つは、「また後船の日和下駄」というところを「未だ後船の・・・」としてある。日和下駄が若い女性を現しており、その女と又仲町へ戻って一夜を共にするのだから「未だ」ではなく「また」でなければならない。こんな小唄本を見て深水が歎くだろう。


 

異説・額田王ーその三

           (中年時代の額田王)


 異説・額田王ーその二を書いてから、間もなく二ヶ月になる。この所身辺多忙で、落ち着いてブログに向かう時間が少ないのが残念だ。小林恵子(やすこ)の「万葉集」をテキストにして、異説・額田王ーその二では、百済の武王が倭国にやってきて田村皇子となり、聖徳太子の子の山背大兄皇子と皇位を争い、蘇我蝦夷の後押しで34代・舒明天皇(天智天皇、天武天皇の父)となる話を紹介したが、その前に、万葉集巻一の冒頭を飾る21代・雄略天皇が、元々は百済の王族で、倭国を支配するために渡ってきた人物であるという。従って百済と倭国とはかなり前、恐らく縄文時代頃から、太いパイプで繋がっていたものと思われる。


 舒明天皇が倭国で新羅系の女性に産ませた末娘が額田王であった。舒明天皇には四人の子がいた。即ち、百済の武王時代に、翹岐(ぎょうき 日本名・中大兄皇子 後、天智天皇)、蓋蘇文(がいそぶん 日本名・大海人皇子 後、天武天皇)、宝姫(日本名・鏡王、天智天皇に仕えたが、後、藤原鎌足の夫人)、文姫(日本名・額田王 大海人との間に十市皇女を儲ける)の四人である。文姫は少女の頃、新羅の王族・金春秋(きんしゅんじゅう 後の武列王)と政略結婚させられたが、新羅との間が不調となり、倭国に戻される。


 鏡王も額田王も、絶世の美女だったらしく、鏡王が藤原鎌足に下賜された時、「われはもや 安見児得たり 皆人の得がてにすてふ安見児得たり」と鎌足は歌っている。「安見児得たり」と二度も繰り返してるところを見ると余程嬉しかったのであろう。


 額田王は、大海人皇子との間に、十市の皇女を設けたが、古代では近親結婚は珍しいことではなかった。後、天智天皇に仕えるようになってから、天智七年五月(668年)、天皇始め百官が蒲生野に集まって狩をした。その中に大海人も皇太子として侍っていた。その時、額田王が作って大海人に与えた歌が有名である。「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」。この唄は万葉仮名で「茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流」と書かれているが、この万葉仮名というのは、未だ日本に固有の文字が無く、漢字を借りてきて言葉を表現したもので、この万葉仮名を朝鮮語で読むと、「茜色をしたホト(女性の持物)が標野を行きます。野守は見ていないでしょうか、貴方が私の股を広げるのを)となり、額田王が大海人を挑発した歌であるという。「之袖布流」は、朝鮮語でガサボルヨと発音し、股を広げるという意味。朝鮮語が第二母国語であった額田王だからこそこんなことが出来た。(小林恵子著「本当は恐ろしい万葉集」41ページ参照)


 

 

消えた縄文人

         縄文人 (縄文人)


 旧石器時代が過ぎて、日本列島は、凡そ二万年前に地球を襲った厳しい寒冷期が去った後、次第に暖かくなり、氷が解けて海面が上昇し、約七千年前頃には、気候も地形も、現在とほぼ同じような状態になった。日本列島は大陸と完全に切り離され、対馬海峡が開いたため日本海に南から暖かい黒潮がながれこむようになった。その結果、日本列島の気候に四季の変化が生まれ、夏には南から大量の湿気が流れ込んで雨を降らせ、冬には、日本海地方に大量の雪を降らせるようになった。この雨と雪が日本列島に多くの「森」を発達させた。


 縄文人が何処から日本列島にやってきたのかということは定かではないが、恐らく自然の恵みを求めて南から北から或は大陸からなど、色んな方面からやってきて日本列島に根を下ろしたものであろう。縄文人が来る前に日本列島にも原人がいたことは、今日、ほぼ確定的となっているが、縄文人が原人と違うことは、かなり発達した文化を持っていたということであろう。例えば、弓矢と土器は縄文人の一大発明品である。特に土器は注目に値いする。縄文人は土器の器で食物を煮炊きすることが出来た。


 狩猟に適した草原が少なくなり、それに代わって森林が発達したため、人々は森に適応した生活をするようになった。獲物を追って転々とする移動型から、クリ、クルミ、ドングリ、キノコなど森の恵みを利用した定住型へと変化した。生活を支えるものが、「狩猟」から「農耕」へと移っていった。「農耕」と云っても米作は未だで、クリ、クルミ、ヒエなどの栽培と豚犬などの飼育が大半である。オングリやトチの実など森から採れるものはアク抜きをして口にした。縄文人がどんな物を食べていたかと云うことは、全国各地の遺跡から手がかりを得ることが出来る。それによると、凡そ300種の貝類、70種の魚類、70種の獣類35種の鳥類などである。


 こんなに色々なものを食べていても、縄文人の平均寿命は14~15歳であった。生後1年未満の子供の死亡率が凡そ八割で、生き残っても35歳頃迄に寿命を終わるのが大半であった。日本人男女の平均寿命が50歳を越えるのはなんと昭和23~24年になってからである。主な理由は結核など感染症の病気、天然痘などの疫病、戦争などである。話を元に戻して、縄文時代の最盛期の日本列島の総人口は凡そ30万人といわれており、その大部分が東国の住人で、西はガラガラであった。降って弥生時代になると、縄文人は日本列島から忽然と消えてしまった。その理由は今でも謎とされているが、新しい大陸からの渡来人が齎した疫病の所為と云う人もあるが、最近のDNA鑑定の結果では、縄文人の子孫がアイヌ人であることはほぼ間違いが無いという。恐らく新しい武器を持った渡来人が縄文人を北方へ追い払ったに違いない。興味あるこである。


 

 

凍る夜

           (晩年の久保田万太郎)


 小説、劇作、演出、俳句、小唄作詞などの分野で知られた久保田万太郎が作詞し、長唄三味線の名人・山田抄太郎が作曲した「凍る夜」という小唄は、凡そ小唄を嗜む人なら知らない人はいない。然しこの小唄の歌詞は、万太郎が辿った人生の縮図を滲ませており、辛くせつない唄なのである。それを理解しないと唄えない。抄太郎が万太郎から歌詞を貰ってから出来上がるまで10年も掛かった唄である。


 久保田万太郎(1889~1963)は、明治22年、浅草田原町の袋物屋に生まれた。明治36年、府立三中に入学、三年生の頃から、誰に教わる訳でもなく俳句を始めた。両親の意に背いて家業をつがず、慶應義塾大学文科へ進み、森鴎外、上田敏、永井荷風らの影響を受け、作家を志した。在学中に創刊された「三田文学」に発表した小説「朝顔」が注目を浴び、継いで戯曲「遊戯」でも劇作家としての才能を認められた。


 大正3年、慶大を卒業した万太郎は、兵隊に取られるのが厭で、俳句仲間と遊蕩に耽り、屡々吉原へ通った。そこで出会ったいく代という吉原芸者にぞっこん惚れてしまった。いく代は、顔が奈良興福寺の阿修羅の像に似ていたという。芸者は、遊女と違って、芸は売るが身体は売らない。その上、いく代には立派な旦那がいて、貧乏学生上がりの手の出せる相手ではなかった。まして万太郎は男前でもなく、結局、片思いで終わるのであるが、このとき味わった女に対するコンプレックスが一生万太郎につきまとうのでくぁる。


 大正8年に万太郎は母校の講師となったのを機に、いく代の面影を求めて芸者に憧れたのか、浅草芸者の今竜(本名・大場京子)と結婚して所帯を持った。そして長男・浩一が生まれた。だがいく代を忘れられない万太郎に、昭和8年、万太郎44歳のとき、黒木はるという愛人が出来る。そしてそれから2年後、黒木はるに子が出来て、やがて出産するという前月、正妻・京子が睡眠薬を飲んで自殺する。昭和11年、黒木はるとも別れ、今度は京子の妹・小夜子と一緒に暮らす。


 昭和21年、万太郎57歳で三田きみと結婚。そのあとで、小唄「サングラス」(2006-07-24ブログ参照)の主人公となった三隅一子(かずこ)と知り合い、妻とは別居、一子と同棲したが、一子も昭和37年にはくも膜下出血で亡くなり、万太郎も翌年、一子の後を追うように、梅原龍三郎邸で赤貝を喉に詰まらせ、窒息死した。万太郎は昭和22年には日本芸術院会員に推され、昭和32年には文化人として最高の栄誉である文化勲章受賞に輝いた。このように万太郎は社会人としては文芸や演出などで大きな足跡を残したが、女性関係は生涯満たされることが無かったようである。


 昭和19年、太平洋戦争の末期、一人息子を戦争に狩り出され、暗澹としていた万太郎が、凍るような寒い冬の夜、忘れることの出来ない片思いの女・いく代の夢をみた。夢の中で、いくよが立っていて、帯を解いている。その帯揚げの朱の色が鮮やかに目に映る。手を延ばして引き寄せようとすると、夢はスーッと消えてしまった。翌日、万太郎はこれを歌詞にして、こんなものが出来たと言って飲み友達の抄太郎に渡した。抄太郎は何時でもすぐその場で三味線の手を付けるのであるが、この歌詞だけは、最期の「片思い」が引っかかってどうしても三味線の手が出てこない。昭和29年になって漸く「片思い」の謎が解けたのであった。万太郎の人生は、女性に関する限りまさしく「凍る夜」だったのである。


(二上り)「凍る夜の 帯をこぼるる帯揚げの 朱(あけ)の色こそ辛気なれ 片思い」




 


異説・額田王ーその二

                              

(額田王の父とされる舒明天皇の陵)

 

 万葉集という歌集は、その後に編纂された古今集や新古今集などの歌集と違って、はっきりした政治的意図を持った歌集である。万葉集の歌が作られた当時、日本という国は、倭国と呼ばれて、朝鮮半島の小国たちと同様、まだ完全な独立国とは言えなかった。皇帝という絶対権力者のいる中国の隋や唐に貢物を差し出して、倭国王などどいうお墨付きを貰い、属国のような振りをしていた。だから聖徳太子が対等みたいな国書を送って隋の皇帝を怒らせた。小国は小国同士、仲良くしたり喧嘩したりしていた。仲良くしている国とは、王族同士行ったり来たり、まるで親戚のようなものであった。 言葉も地方の方言のようなもので、それほど大きな壁ではなかった。当時、大和王朝が最も仲良くしていたのが百済という国で、百済とは、王族だけでなく、一般の豪族たちとも往来が盛んで、六世紀半ば、仏教という新しい文化が伝えられたのも百済からであった。


 額田王が生まれたのは七世紀前半の頃と推定される。額田王の父は、百済の王族で武王といい、内紛を逃れて日本に亡命し、新羅系の妻を娶り、翹岐(ぎょうき)、蓋蘇文(がいそぶん)、宝姫、文姫などの子が生れた。武王は、大和王朝でも幅を利かせ、聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇などの実力者が没した後、34代舒明天皇(在位629~641)となった。子供等は、それぞれ数奇な運命を辿る。翹岐は日本で中大兄皇子となり、やがて蘇我を倒し、大化改新を成し遂げ、斉明天皇の後、38代天智天皇となる。蓋蘇文は、新羅へ渡って武将となり、日本に戻って大海人皇子となり中大兄皇子を助けたが、兄の没後、兄の子、大友皇子と皇位を争い、大友を死に追いやり、40代天武天皇に即位。宝姫は、鏡王(かがみのおおきみ)となり、藤原鎌足の妻となる。文姫が額田王で、13歳の頃、政略結婚で新羅王の妻となったが、新羅との関係が不調となり日本に戻る。はじめ大海人に愛され十市皇女を生み、あとから天智天皇の妃となる。万葉歌壇に華々しく登場。


 額田王の歌は、万葉集巻一と巻二に集約されており、時代でいうと、額田王が斉明天皇と一緒に紀伊の温泉にお供をした658年から天智天皇が没した671年までの12年間に集中している。その間、額田王は、大海人と天智帝に愛されて幸せだったのだろう。処が、天智帝亡きあと、大海人と天智帝の子で娘の夫でもある大友皇子との間で皇位争いで壬申の乱が起こり、大海人が新羅からの援軍を得て勝利し、大友皇子を死に至らしめた。こんな悲劇があって、671年以降20年間、額田王の歌は、万葉集に一つも載っていない。歌が作れなかったのか遠ざけられたのかそれは分からない。690年代になって、天武帝を父に持つ弓削皇子との間に取り交わされた贈答歌を最期に額田王の歌は万葉集から消えた。波乱多きクレオパトラも老化と共に人生の終焉を迎えたのであろう。


 万葉初期で、額田王の代表的名作と言われる、「秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処(みやこ)の仮庵し思ほゆ」という歌は、万葉仮名で「金野乃 美草刈葺 屋濡礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念」と記してある。これを朝鮮語で読むと、「新羅が刀を磨いで戦の準備をしている。襲ってこなければ良いが。百済の都は戦に備えて陣地を固めなさい」という意味になるそうだ。両方の言葉に堪能な額田王であるからこそこんなことが出るのだろう。 


 もう一つ額田王の代表的名歌として知られる「塾田津(にぎたつ)に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出な」は、白村江の戦に船出しようとする中大兄皇子の軍隊を励ます歌だと思っていたら、朝鮮語で読むと、「誰のせいだろう? 船に乗ろうよと皆に宥められて、嫌々ながらついて行く者もいる。いまこそ漕ぎ出そうよ」という意味になって、励ますどころかけちをつけるようなものである。そのせいか、白村江では、唐、新羅の連合軍に散々にやられてしまった。この結果、東国の農民たちが徴用されて「防人」となり、北九州の防備をやらされることになった。


 


 


                     

森浩一が語る日本の古代ーその二

             

          (岡本太郎が製作した「太陽の塔」、縄文土偶のイメージそっくり)


 「森浩一が語る日本の古代」ーその二は、森浩一著「日本の古代」の入門編をテキストにしている。日本列島に人々が住み始めたのは、凡そ数万年前の旧石器時代。今より7~8度も気温が低く、氷河時代とも言われる。氷で覆われた部分が多かったため、海面も今より100m以上低かった。日本列島は、その頃、大陸とは繋がった土地で、大陸から大型獣がやってきて、それを追って人々もやって来たと思われる。その証拠に、北海道や長野県でマンモスやナウマンゾウの化石が発見されている。


 旧石器時代に続く縄文時代は、その後の弥生時代から現代までの4倍以上の長い期間である。凡そ12,000年前頃から、気候も大分温暖化し、地上には豊かな林森が広がり、人々は洞窟から出て地上に穴を掘り、草葺屋根を付けた竪穴式住居に住むようになった。土を焼いて土器や土偶を作った。この土器と云うのが縄文人の偉大な発明品で、世界の古代にも見られない独特の文化であった。人々はこれで煮炊きすることが出来た。それは食糧事情の緩和に大いに寄与した。


 縄文人というのは、色々な部族の混合と考えられる。ルーツを辿って見ると、北方系、大陸系、南方系に大きく分けられるが、北方系は、沿海州や樺太方面から、宗谷海峡、津軽海峡を経て本州に達するルート、大陸系は、モンゴルヤ中国大陸から朝鮮半島を経由して、北九州や山陰地方に達するルート、南方系は、南方海路から来て、瀬戸内海、豊後水道、紀伊水道などを経由して各地に達するルートなどで、これらのルートの中で、圧倒的に渡来の多かったのは大陸系で、朝鮮半島経由であった。


 それにしても、縄文時代の土器や土偶の造形に見られるあのエネルギッシュな活力は、何処から生まれ出たのであろうか? 弥生時代には見られない独特な火焔土器や宇宙人のような土偶たちは、私たちに何を語りかけようとしているのだろうか。考古学者の森浩一は、それについては何も応えてくれない。


 推理作家の黒岩重吾は、日本の古代史に興味を持ち、優れた洞察をしている。彼は、縄文人がエネルギッシュな活力に満ちていたのは、人々の生き様から来ているという。縄文人が生きるということは、獣との闘い、自然との闘い、他部族との闘いなど、全て命がけであった。5人の子を産んでも一人しか生きられなかった時代を生き抜くには、エネルギッシュな活力が不可欠であったのである。火焔土器を作り、神への供え物を飾り、病気や怪我をすると、災いを土偶に肩代わりして貰うよう祈った。


 縄文式土器検索して驚いたことがある。それは、前衛画家・岡本太郎がパリから帰国して間もない40歳の時(1951年)で、まだあまり知られていなかった頃、偶然何の気なしに入った上野の国立博物館の考古学資料展示室で、縄文式土器に巡り合って、「コリャなんだ!!!」と叫んだ。そこにある不思議なもの、ものすごい迫力で迫ってくるもの見た。身体中の血が沸き立つのを感じた。それが先史時代の土器である。それが岡本太郎の日本発見であったと同時に自己発見でもあった。以来、縄文土器は岡本太郎のモチーフになった。1970年の大阪万博で岡本が作った「太陽の塔」は、まさに岡本太郎のモニュメントであり、「顔は宇宙だ」と叫んでいる。私たちも命がけで生きた縄文人から、多くを学ばなければならない。

月の砂漠

          


 森浩一の「考古学が語る日本の古代」を、暫く脇へ置いといて、これからのお話は、私の畏友・Y氏が偽装された日本の官製歴史から離れて、古代アジアの文献を色々調べ、私に語ってくれた物語である。


 紀元前200年頃、中国では、秦が滅亡して前漢の時代となり、劉邦が皇帝の位に就いた。その頃の日本は、縄文時代の末期で、人々は、黒曜石の矢じりを付けた矢や、木の先を削った手槍で獲物を獲り、石器を使って皮から肉を削ぎ、なめし皮にして衣服を作り、土器の中に木の実や穀物を貯蔵したりして暮らした。住み易く食糧の多い土地には、先住部族が割拠し、勢力争を繰り返していた。


 その頃、朝鮮の辰韓(後の新羅)地方の斯慮(サラ)という小国の王に二人の聡明な王子がいた。この国の人々は孔孟の教えを守り、平和に暮していた。父王が急病で没した後、23歳の兄王子が王位を継ぐことになったが、兄王子は王位を継ぐ前に、当時の中国を統一した漢の皇帝に誼を通じ、漢王朝の新しい文化を学んで来たいと弟王子に言った。漢の首都・長安は、西洋の新しい文化がシルクロードを通ってやって来て、辺鄙な小国・サラから見ると、目もくらむような新世界であった。


 サラ国の兄王子はその名を朴居世といい、弟王子に後を託し、単身、長安に向かって旅立った。朝鮮半島の南岸を迂回して済州島に達し、そこからは船で青島に上陸、陸路を何日もかかって漸く長安に着いた。朴王子は早速、漢の皇帝・劉邦に拝謁して貢物を差し出し、交誼を賜りたいとお願いをした。劉邦は一目で朴王子が気に入り、屋敷を与えて長期の滞在を許した。


 朴王子が故郷に帰る時が近づいたある日、劉邦は朴王子のために別れの宴を催してくれた。そのとき、劉邦の後宮であったお妃が一人の美しい娘を連れて席に連なった。この二人は、ここから2500キロも離れた天山山脈の麓に在った小国の妃とその一人娘で、国が隣国に攻められ国王が殺されたため、命からがら劉邦に救いを求めて逃げてきたのであった。そしてその後は劉邦の妃となり、娘共々幸せに暮らしていたのである。二人ともガンダーラ系の稀に見る美人であった。


 朴王子が故郷に向かって旅立つ日、劉邦に帰郷の挨拶に行くと劉邦は、朴王子に自分の名前の一字を与え、これからは朴世邦と名乗るよう、更に、朴王子と妃の娘・小桃が互いに好き合っていることを知った劉邦の粋な計らいで、小桃も朴王子と一緒にサラ国へ連れて行くようにと伝えられた。二人は二頭の駱駝に乗り、夫々の鞍には、劉邦から貰った宝物がが詰まった甕を載せていた。こうして二人は、月の砂漠をはるばると、故郷のサラ国を指して旅を続けた。この光景は、私たちが子供の頃よく唄った「月の砂漠」という童謡を思い出させる。


 長い旅の末、漸くサラ国へ辿り着いた朴王子は、早速弟王子や家来たちに、連れて帰った小桃姫を紹介し、この姫を自分の妃にすると宣言した。小桃姫は美しいだけでなく、賢くて武芸にも優れ、朴王子をよく助けた。ところが小桃姫は、朝鮮の女性が男性社会から虐待されていることに同情し女性を解放してやりたいと言い出すと家来たちは一斉に反対し、朴王子も苦しい立場に立たされた。


 そんなある日、朴王子の許へ、一人のタタール族の長老が訪ねて来て、一振りの立派な宝剣を貢物として差出し、「東の海を渡った処に倭国と云う大きな島国があり、小数部族たちが割拠し互いに勢力争いをくりかえして、国が乱れている。タタール族の一部が先王の許可を得てこの島国の出雲という処へわたってから、早や十年になる。この地方は豊富な砂鉄の産地で、本日持参した小剣は、この砂鉄から作られたものである。朴王子は国が乱れている出雲へ渡り、この地を治め王権を打ち立てて欲しい」と言った。そこで朴王子は妃や重臣たちと相談し、第一陣として朴王子が、単身出雲へ進駐することになった。


 紀元前195年、朴王子は三艘の軍船と二艘の帆船を仕立て、出雲に向かって船出した。出雲に上陸した朴王子の軍は、多少の小競り合いはあったが、出雲周辺の小部族たちは、朴王子の人徳を慕って一斉に降伏し、部族間の争いをやめ進駐後三ヶ月足ず出雲全域を平定した。出雲進駐の成功は弟王子に知らされ、第二陣として王妃を先頭に、五艘の船が海を渡り、朴王子たちと合流した。


 輝くばかりの美貌と聡明さを備え、武勇にも秀い出た王妃の凛々しい姿が、後世の伝説にも長く伝えられたであろうことは、想像に難くない。朴王子と王妃が出雲へ渡った後のサラ国は、弟王子及びその子孫が統治し善政を敷いたため、約千年に亘って栄えたが、小国の悲しさ、紀元935年頃高麗によって遂に滅ぼされた。


 出雲王国は、朴大王と小桃王妃を始祖として統治され、平和が続いた。大王と王妃の間に一人の王子が誕生し、その名をスサノオと言った。スサノオは成長するに従い、混血による優れた体格と、母から受け継いだガンダーラ系の美貌に恵まれ、母の育成により文武兼備の青年に仕上がった。朴大王は85歳でこの世を去り、母・子桃王妃も一ヵ月後には後を追った。スサノオは、朴大王と王妃の亡き後、出雲王国の統治の中心として活躍し、軍を率いて周辺のまつろわぬ者達を平定した。


 スサノオは、強いが好色でもあった。戦に勝つと、負けた部族の妃や娘を連れ帰り、多くの子供を生ませた。後から生まれたオオクニヌシは、スサノオの正妻の子であるが、大勢の異母兄・八十神(やそがみ)達にいつもこき使われた。八十神達が播磨の国へ嫁探しに行った時、気の優しいオオクニヌシがワニにいじめられた兎を助けたという童謡はこの時のことを歌った物である。八十神達の中には謀反を企てる者がいて出雲から追い出された。この造反部隊がやがて紀元二世紀頃には吉備地方を支配し、更に勢力を広げ、紀元三世紀頃には、熊襲や隼人などの九州豪族たちを制圧し、更に東征して出雲王国に政権の割譲を迫った。このようにして今の天皇家の祖先である大和政権が誕生したのであるが、昔々、あったとさ・・・という「月の砂漠」のロマンスは、日本偽装官製歴史の神話時代の伝説の中に埋没されてしまった。




 


 



 





編笠

            (夕霧伊左衛門)


 木村富子作詞、春日とよ作曲の小唄「編笠」は、冬の季節になると、何処の小唄会場でも出し物として必ず一つや二つ出てくる小唄である。私も1月16日三桜会の新年唄い初めの会でこれを唄ったが、考えてみるとこの唄の出自や内容について、本当の所余り良く知らないことに気がついた。ただ、中学生の頃芝居好きだった父が時々歌舞伎を見に連れて行ってくれて、たまたま「郭文章」の舞台で、伊左衛門の編笠姿がおぼろに目に浮ぶだけ。そこで、木村菊太郎の「芝居小唄(増補版)」を開いてみる。


 江戸の吉原、京の丸山と並んで、三大遊郭の一つである大阪の新町で、元禄年間、全盛を極めた名妓・夕霧が延宝六年(1678年)一月、二十二歳(一説では二十七歳)の若さで亡くなった。どんな名妓だったかといえば、江戸吉原の高尾太夫,京丸山の吉野大夫と並び称されたとある。その頃、大阪で活躍した和事の名人・坂田藤十郎が、近松門左衛門と組んで、夕霧がなくなった翌月、「夕霧名残の正月」という芝居を上演し、藤十郎は伊左衛門役で大当たりを取った。彼はその後、亡くなるまでの31年間に18回もこの役を演じたと言う。


 藤十郎が没した翌年(1710年)、夕霧の三十三回忌に当り、近松門左衛門は、名妓夕霧と伊左衛門役者の藤十郎を偲んで「夕霧阿波鳴門」を、竹本義太夫と組んで人形浄瑠璃に仕立て、大阪の竹本座で上演した。この浄瑠璃は、上、中、下の三段に分かれており、上段は、「吉田屋」の場面で、親に勘当され落ちぶれた伊左衛門が揚屋の吉田屋へ昔馴染みの夕霧に逢いに行く場面、奥座敷には、夕霧の彼氏の積りでいる阿波の侍・平岡左近が夕霧といちゃついている。中段は、 夕霧が、伊左衛門との間でなした子供を、左近の子だといって騙し、

左近に預けた子供を訊ねて阿波へ行く場面。伊左衛門が親子と名乗ったため左近が怒り、親子を追い出す。


 下段は、伊左衛門親子が、門付けをしながら大阪の町を彷徨い歩くが、夕霧が病で死にそうだと聞いて一目愛に行く場面。夕霧を囲んで涙の別れをしていると、伊左衛門の母がやってきて、勘当が許されたことを知らせる。そればかりか、夕霧の身請けの金も持ってきて、嫁として引き取るというので夕霧も元気が出て病もよくなる。


 芝居の名題「郭文章(くるわぶんしょう)」というのは、「夕霧阿波鳴門」の上段と下段を一つに纏めたもので、夕霧が文章に優れ、伊左衛門にせっせと手紙を書いたことに因んだ名題である。なお、夕霧は実在の人物で、夕霧の書いた手紙が揚屋に後あとまで残っていたという。


 この小唄は、昭和17年に、木村富子の作詞に春日とよが曲を付けて開曲されたもので、春日とよは、この唄を「小唄ぶり」の唄として曲付けしたという。最初の「編笠の~しみじみと」は、伊左衛門が紙子の着物を着て編笠をかぶり、落ちぶれた様で花道から出てくるところで、園八調の節でじっくり唄う。編笠というのは、通常夏場に被るものであるが、身をやつすため、冬でも被ることがある。これを冬編笠という。紙子は紙に柿渋を塗って作った着物で貧乏人が着る。伊左衛門は夕霧から貰った手紙の紙でこの着物を作った。


 「可愛い男に逢坂の関より辛い世の習い」は、地唄「ゆかりの月」の一節。去年の夏、夕霧と一緒に連れ弾きしたのを思い出し、心変りしたに違いないと、夕霧と恋敵の左近に対する恨みに胸も張り裂ける思い。「逢わずにいんではこの胸が」は、夕霧に逢うのを諦めて花道を戻りかけるが、それではこの胸が治まらないよというセリフ。

「済まぬ心の置炬燵」、やっぱり逢うと決心する。「粋が取り持ちようようと」 揚屋の主人夫妻の粋な計らいで漸く夕霧に逢うことが出来て、明日は元日、伊左衛門も夕霧と結ばれて目出度し目出度しと「明けりゃ夫婦の松飾」

で明るく閉める。