異説・額田王ーその二 | 八海老人日記

異説・額田王ーその二

                              

(額田王の父とされる舒明天皇の陵)

 

 万葉集という歌集は、その後に編纂された古今集や新古今集などの歌集と違って、はっきりした政治的意図を持った歌集である。万葉集の歌が作られた当時、日本という国は、倭国と呼ばれて、朝鮮半島の小国たちと同様、まだ完全な独立国とは言えなかった。皇帝という絶対権力者のいる中国の隋や唐に貢物を差し出して、倭国王などどいうお墨付きを貰い、属国のような振りをしていた。だから聖徳太子が対等みたいな国書を送って隋の皇帝を怒らせた。小国は小国同士、仲良くしたり喧嘩したりしていた。仲良くしている国とは、王族同士行ったり来たり、まるで親戚のようなものであった。 言葉も地方の方言のようなもので、それほど大きな壁ではなかった。当時、大和王朝が最も仲良くしていたのが百済という国で、百済とは、王族だけでなく、一般の豪族たちとも往来が盛んで、六世紀半ば、仏教という新しい文化が伝えられたのも百済からであった。


 額田王が生まれたのは七世紀前半の頃と推定される。額田王の父は、百済の王族で武王といい、内紛を逃れて日本に亡命し、新羅系の妻を娶り、翹岐(ぎょうき)、蓋蘇文(がいそぶん)、宝姫、文姫などの子が生れた。武王は、大和王朝でも幅を利かせ、聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇などの実力者が没した後、34代舒明天皇(在位629~641)となった。子供等は、それぞれ数奇な運命を辿る。翹岐は日本で中大兄皇子となり、やがて蘇我を倒し、大化改新を成し遂げ、斉明天皇の後、38代天智天皇となる。蓋蘇文は、新羅へ渡って武将となり、日本に戻って大海人皇子となり中大兄皇子を助けたが、兄の没後、兄の子、大友皇子と皇位を争い、大友を死に追いやり、40代天武天皇に即位。宝姫は、鏡王(かがみのおおきみ)となり、藤原鎌足の妻となる。文姫が額田王で、13歳の頃、政略結婚で新羅王の妻となったが、新羅との関係が不調となり日本に戻る。はじめ大海人に愛され十市皇女を生み、あとから天智天皇の妃となる。万葉歌壇に華々しく登場。


 額田王の歌は、万葉集巻一と巻二に集約されており、時代でいうと、額田王が斉明天皇と一緒に紀伊の温泉にお供をした658年から天智天皇が没した671年までの12年間に集中している。その間、額田王は、大海人と天智帝に愛されて幸せだったのだろう。処が、天智帝亡きあと、大海人と天智帝の子で娘の夫でもある大友皇子との間で皇位争いで壬申の乱が起こり、大海人が新羅からの援軍を得て勝利し、大友皇子を死に至らしめた。こんな悲劇があって、671年以降20年間、額田王の歌は、万葉集に一つも載っていない。歌が作れなかったのか遠ざけられたのかそれは分からない。690年代になって、天武帝を父に持つ弓削皇子との間に取り交わされた贈答歌を最期に額田王の歌は万葉集から消えた。波乱多きクレオパトラも老化と共に人生の終焉を迎えたのであろう。


 万葉初期で、額田王の代表的名作と言われる、「秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処(みやこ)の仮庵し思ほゆ」という歌は、万葉仮名で「金野乃 美草刈葺 屋濡礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念」と記してある。これを朝鮮語で読むと、「新羅が刀を磨いで戦の準備をしている。襲ってこなければ良いが。百済の都は戦に備えて陣地を固めなさい」という意味になるそうだ。両方の言葉に堪能な額田王であるからこそこんなことが出るのだろう。 


 もう一つ額田王の代表的名歌として知られる「塾田津(にぎたつ)に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出な」は、白村江の戦に船出しようとする中大兄皇子の軍隊を励ます歌だと思っていたら、朝鮮語で読むと、「誰のせいだろう? 船に乗ろうよと皆に宥められて、嫌々ながらついて行く者もいる。いまこそ漕ぎ出そうよ」という意味になって、励ますどころかけちをつけるようなものである。そのせいか、白村江では、唐、新羅の連合軍に散々にやられてしまった。この結果、東国の農民たちが徴用されて「防人」となり、北九州の防備をやらされることになった。