編笠
木村富子作詞、春日とよ作曲の小唄「編笠」は、冬の季節になると、何処の小唄会場でも出し物として必ず一つや二つ出てくる小唄である。私も1月16日三桜会の新年唄い初めの会でこれを唄ったが、考えてみるとこの唄の出自や内容について、本当の所余り良く知らないことに気がついた。ただ、中学生の頃芝居好きだった父が時々歌舞伎を見に連れて行ってくれて、たまたま「郭文章」の舞台で、伊左衛門の編笠姿がおぼろに目に浮ぶだけ。そこで、木村菊太郎の「芝居小唄(増補版)」を開いてみる。
江戸の吉原、京の丸山と並んで、三大遊郭の一つである大阪の新町で、元禄年間、全盛を極めた名妓・夕霧が延宝六年(1678年)一月、二十二歳(一説では二十七歳)の若さで亡くなった。どんな名妓だったかといえば、江戸吉原の高尾太夫,京丸山の吉野大夫と並び称されたとある。その頃、大阪で活躍した和事の名人・坂田藤十郎が、近松門左衛門と組んで、夕霧がなくなった翌月、「夕霧名残の正月」という芝居を上演し、藤十郎は伊左衛門役で大当たりを取った。彼はその後、亡くなるまでの31年間に18回もこの役を演じたと言う。
藤十郎が没した翌年(1710年)、夕霧の三十三回忌に当り、近松門左衛門は、名妓夕霧と伊左衛門役者の藤十郎を偲んで「夕霧阿波鳴門」を、竹本義太夫と組んで人形浄瑠璃に仕立て、大阪の竹本座で上演した。この浄瑠璃は、上、中、下の三段に分かれており、上段は、「吉田屋」の場面で、親に勘当され落ちぶれた伊左衛門が揚屋の吉田屋へ昔馴染みの夕霧に逢いに行く場面、奥座敷には、夕霧の彼氏の積りでいる阿波の侍・平岡左近が夕霧といちゃついている。中段は、 夕霧が、伊左衛門との間でなした子供を、左近の子だといって騙し、
左近に預けた子供を訊ねて阿波へ行く場面。伊左衛門が親子と名乗ったため左近が怒り、親子を追い出す。
下段は、伊左衛門親子が、門付けをしながら大阪の町を彷徨い歩くが、夕霧が病で死にそうだと聞いて一目愛に行く場面。夕霧を囲んで涙の別れをしていると、伊左衛門の母がやってきて、勘当が許されたことを知らせる。そればかりか、夕霧の身請けの金も持ってきて、嫁として引き取るというので夕霧も元気が出て病もよくなる。
芝居の名題「郭文章(くるわぶんしょう)」というのは、「夕霧阿波鳴門」の上段と下段を一つに纏めたもので、夕霧が文章に優れ、伊左衛門にせっせと手紙を書いたことに因んだ名題である。なお、夕霧は実在の人物で、夕霧の書いた手紙が揚屋に後あとまで残っていたという。
この小唄は、昭和17年に、木村富子の作詞に春日とよが曲を付けて開曲されたもので、春日とよは、この唄を「小唄ぶり」の唄として曲付けしたという。最初の「編笠の~しみじみと」は、伊左衛門が紙子の着物を着て編笠をかぶり、落ちぶれた様で花道から出てくるところで、園八調の節でじっくり唄う。編笠というのは、通常夏場に被るものであるが、身をやつすため、冬でも被ることがある。これを冬編笠という。紙子は紙に柿渋を塗って作った着物で貧乏人が着る。伊左衛門は夕霧から貰った手紙の紙でこの着物を作った。
「可愛い男に逢坂の関より辛い世の習い」は、地唄「ゆかりの月」の一節。去年の夏、夕霧と一緒に連れ弾きしたのを思い出し、心変りしたに違いないと、夕霧と恋敵の左近に対する恨みに胸も張り裂ける思い。「逢わずにいんではこの胸が」は、夕霧に逢うのを諦めて花道を戻りかけるが、それではこの胸が治まらないよというセリフ。
「済まぬ心の置炬燵」、やっぱり逢うと決心する。「粋が取り持ちようようと」 揚屋の主人夫妻の粋な計らいで漸く夕霧に逢うことが出来て、明日は元日、伊左衛門も夕霧と結ばれて目出度し目出度しと「明けりゃ夫婦の松飾」
で明るく閉める。