月の砂漠 | 八海老人日記

月の砂漠

          


 森浩一の「考古学が語る日本の古代」を、暫く脇へ置いといて、これからのお話は、私の畏友・Y氏が偽装された日本の官製歴史から離れて、古代アジアの文献を色々調べ、私に語ってくれた物語である。


 紀元前200年頃、中国では、秦が滅亡して前漢の時代となり、劉邦が皇帝の位に就いた。その頃の日本は、縄文時代の末期で、人々は、黒曜石の矢じりを付けた矢や、木の先を削った手槍で獲物を獲り、石器を使って皮から肉を削ぎ、なめし皮にして衣服を作り、土器の中に木の実や穀物を貯蔵したりして暮らした。住み易く食糧の多い土地には、先住部族が割拠し、勢力争を繰り返していた。


 その頃、朝鮮の辰韓(後の新羅)地方の斯慮(サラ)という小国の王に二人の聡明な王子がいた。この国の人々は孔孟の教えを守り、平和に暮していた。父王が急病で没した後、23歳の兄王子が王位を継ぐことになったが、兄王子は王位を継ぐ前に、当時の中国を統一した漢の皇帝に誼を通じ、漢王朝の新しい文化を学んで来たいと弟王子に言った。漢の首都・長安は、西洋の新しい文化がシルクロードを通ってやって来て、辺鄙な小国・サラから見ると、目もくらむような新世界であった。


 サラ国の兄王子はその名を朴居世といい、弟王子に後を託し、単身、長安に向かって旅立った。朝鮮半島の南岸を迂回して済州島に達し、そこからは船で青島に上陸、陸路を何日もかかって漸く長安に着いた。朴王子は早速、漢の皇帝・劉邦に拝謁して貢物を差し出し、交誼を賜りたいとお願いをした。劉邦は一目で朴王子が気に入り、屋敷を与えて長期の滞在を許した。


 朴王子が故郷に帰る時が近づいたある日、劉邦は朴王子のために別れの宴を催してくれた。そのとき、劉邦の後宮であったお妃が一人の美しい娘を連れて席に連なった。この二人は、ここから2500キロも離れた天山山脈の麓に在った小国の妃とその一人娘で、国が隣国に攻められ国王が殺されたため、命からがら劉邦に救いを求めて逃げてきたのであった。そしてその後は劉邦の妃となり、娘共々幸せに暮らしていたのである。二人ともガンダーラ系の稀に見る美人であった。


 朴王子が故郷に向かって旅立つ日、劉邦に帰郷の挨拶に行くと劉邦は、朴王子に自分の名前の一字を与え、これからは朴世邦と名乗るよう、更に、朴王子と妃の娘・小桃が互いに好き合っていることを知った劉邦の粋な計らいで、小桃も朴王子と一緒にサラ国へ連れて行くようにと伝えられた。二人は二頭の駱駝に乗り、夫々の鞍には、劉邦から貰った宝物がが詰まった甕を載せていた。こうして二人は、月の砂漠をはるばると、故郷のサラ国を指して旅を続けた。この光景は、私たちが子供の頃よく唄った「月の砂漠」という童謡を思い出させる。


 長い旅の末、漸くサラ国へ辿り着いた朴王子は、早速弟王子や家来たちに、連れて帰った小桃姫を紹介し、この姫を自分の妃にすると宣言した。小桃姫は美しいだけでなく、賢くて武芸にも優れ、朴王子をよく助けた。ところが小桃姫は、朝鮮の女性が男性社会から虐待されていることに同情し女性を解放してやりたいと言い出すと家来たちは一斉に反対し、朴王子も苦しい立場に立たされた。


 そんなある日、朴王子の許へ、一人のタタール族の長老が訪ねて来て、一振りの立派な宝剣を貢物として差出し、「東の海を渡った処に倭国と云う大きな島国があり、小数部族たちが割拠し互いに勢力争いをくりかえして、国が乱れている。タタール族の一部が先王の許可を得てこの島国の出雲という処へわたってから、早や十年になる。この地方は豊富な砂鉄の産地で、本日持参した小剣は、この砂鉄から作られたものである。朴王子は国が乱れている出雲へ渡り、この地を治め王権を打ち立てて欲しい」と言った。そこで朴王子は妃や重臣たちと相談し、第一陣として朴王子が、単身出雲へ進駐することになった。


 紀元前195年、朴王子は三艘の軍船と二艘の帆船を仕立て、出雲に向かって船出した。出雲に上陸した朴王子の軍は、多少の小競り合いはあったが、出雲周辺の小部族たちは、朴王子の人徳を慕って一斉に降伏し、部族間の争いをやめ進駐後三ヶ月足ず出雲全域を平定した。出雲進駐の成功は弟王子に知らされ、第二陣として王妃を先頭に、五艘の船が海を渡り、朴王子たちと合流した。


 輝くばかりの美貌と聡明さを備え、武勇にも秀い出た王妃の凛々しい姿が、後世の伝説にも長く伝えられたであろうことは、想像に難くない。朴王子と王妃が出雲へ渡った後のサラ国は、弟王子及びその子孫が統治し善政を敷いたため、約千年に亘って栄えたが、小国の悲しさ、紀元935年頃高麗によって遂に滅ぼされた。


 出雲王国は、朴大王と小桃王妃を始祖として統治され、平和が続いた。大王と王妃の間に一人の王子が誕生し、その名をスサノオと言った。スサノオは成長するに従い、混血による優れた体格と、母から受け継いだガンダーラ系の美貌に恵まれ、母の育成により文武兼備の青年に仕上がった。朴大王は85歳でこの世を去り、母・子桃王妃も一ヵ月後には後を追った。スサノオは、朴大王と王妃の亡き後、出雲王国の統治の中心として活躍し、軍を率いて周辺のまつろわぬ者達を平定した。


 スサノオは、強いが好色でもあった。戦に勝つと、負けた部族の妃や娘を連れ帰り、多くの子供を生ませた。後から生まれたオオクニヌシは、スサノオの正妻の子であるが、大勢の異母兄・八十神(やそがみ)達にいつもこき使われた。八十神達が播磨の国へ嫁探しに行った時、気の優しいオオクニヌシがワニにいじめられた兎を助けたという童謡はこの時のことを歌った物である。八十神達の中には謀反を企てる者がいて出雲から追い出された。この造反部隊がやがて紀元二世紀頃には吉備地方を支配し、更に勢力を広げ、紀元三世紀頃には、熊襲や隼人などの九州豪族たちを制圧し、更に東征して出雲王国に政権の割譲を迫った。このようにして今の天皇家の祖先である大和政権が誕生したのであるが、昔々、あったとさ・・・という「月の砂漠」のロマンスは、日本偽装官製歴史の神話時代の伝説の中に埋没されてしまった。