八海老人日記 -6ページ目

白村江の戦

 「白村江(ハクスキエ又はハクソンコウ)の戦」について、日本書紀では、天智二年(663年)八月二十七日~二十八日、朝鮮で起きた白村江の海戦で、日本・百済の連合軍が唐・新羅の連合軍に大敗を喫したとだけ書いてあって、それまでの経緯やその後の顛末について、納得の行くような記述は全く無い。然しこの事件は、東洋古代史上、特筆すべき出来事であったと、東洋史研究家の小林恵子(やすこ)は云う。何が特筆に価するのかと言えば、この事件は、中国、朝鮮、日本の三国の史書に、同時に記録されているからで、これらを比較検証することにより、より真実に迫ることが出来るということである。


 七世紀の中国では、隋が滅び、唐という巨大統一国家が出現し、所謂唐文化が花開いた時代である。その頃の唐、朝鮮三国(百済、高句麗、新羅)と日本との関係はどうであったか。唐では二代・太宗が即位し、国内が漸く安定するや、遠交近攻策により、周辺諸国に侵略の手を延ばし始めた。先ず、比較的遠い新羅とは手を結び、より近い国・高句麗への侵攻を始めた。612年のことである。 然し、高句麗の頑強なゲリラ戦的抵抗に手古摺り、戦況が泥沼化する内、645年、太宗が死去したため高句麗攻めは一時頓挫する羽目となった。


 その間に高句麗は、百済、倭と手を結び、唐の手先である新羅を挟み撃ちしようとした。新羅では、654年、13代・武烈王(金春秋)が即位し、高句麗、百済が新羅北部を侵略したと唐に訴えたので、唐の高宗は、大軍を以って高句麗、百済攻めを開始し、660年、百済の首都を陥落させ百済を滅亡させた。然し百済の旧臣たちが百済の再興を図るため蜂起し、倭国に援軍を求めて来た。倭国から3万近い援軍を派遣し、白村江という所で、唐・新羅の連合軍と戦い、百済・倭国の連合軍は将軍も戦死、全滅に近い大敗北となり、これで百済は完全に滅亡した。


 問題はその後、倭国と唐の関係はどうなったか。その頃、日本列島には、倭国と称する列島を代表する九州政権があり、大和政権は九州政権とは別に近畿地方に勢力を張る地方政権であった。その頃、唐と倭国間の力の差は、太平洋戦争時の日米の差以上に大きかったと思われる。敗戦した倭国には、唐から数千人の役人が大和政権にやってきてGHQを構え、九州政権を統治下に置いた。それを取り仕切る役所を設置したのが「大宰府」の始まりである。


 日本列島に、七世紀末まで、九州王朝があって倭国と呼ばれていたのは間違いない。魏志倭人伝に画かれた倭国は九州王朝の姿である。九州政権と大和政権が戦火を交えたのが、527年、26代継体天皇と筑紫君磐井との戦である。大和政権は次第に力を付け、列島を代表する政権となり、唐に対しては、毎年遣唐使を送り唐との交流を絶やさず、律令制など唐文化の吸収に努めた。やがて唐文化の模倣による大化の改新が行なわれ、大和政権は初めて年号を建て、「大化」と称したが、これに続く白雉、朱雀、白鳳などの年号は、なんと九州王朝の年号を盗んだものであった。「白村江の戦」と敗戦後の日唐関係が、太平洋戦後の日米関係とそっくりのようなきがする、歴史は繰り返すとはよう云うた。






直侍

 小唄の友達が、今度、中山小十郎の「直侍」を唄いたいと言うので、例によって、木村菊太郎氏の「芝居小唄」で調べてみることにした。「直侍」は、歌舞伎の「天依紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)という題名で、1881年(明治14年)河竹黙阿弥が江戸の情緒を偲んで作った狂言で、黙阿弥晩年の傑作と言われ、今でも時々上演される人気のある芝居である。初演の時は、九代目団十郎の河内山、五代目菊五郎の直侍、初代目左団次の市之丞、八代目半四郎の三千歳などの配役で、大当たりを取ったという。


この芝居の前半は、お数寄屋坊主の河内山が、松江出雲守の屋敷で強請を働く場面で、後半は、直侍と遊女三千歳とぬ濡れ場で、後半だけ上演されることもある。この場合題名は「雪暮夜入谷畦道」(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)となる。後半の場面から取った小唄で一番よく唄われるのは「上野の鐘」であろう。この小唄は、三千歳が身体を壊して、入谷の大口屋の寮へ出養生に来ているところに、直侍が逢いに行く場面で、この小唄については、06.04.12の八海老人日記に書いたから繰り返さない。


 次によく唄われるのが、今度友達が唄いたいと言う「直侍」、別名「春の雪解け」という小唄で、取材はやはり後半場面。捕手に追われる身となった直侍が、高飛びする前に、大口屋の寮にいる三千歳に一目逢おうと、腹拵いに寄った蕎麦屋から出た途端、さっと冷たい風に吹かれて、襟を立て、二度と合うことない相棒、暗闇の丑松に、裏切られるとも知らず、「丑や 達者でいろよ」と声を掛ける別れのセリフには泣かされる。この後、直侍は三千歳には逢うが、丑松の密告で、入谷の寮は捕手に取囲まれ、直侍は、生きて再び逢うことも無い三千歳の前から姿を消していまうのであった。


 「春野の雪解け」(直侍)の歌詞は、芝居を知り尽くした小島二朔(こじまじさく)の作で、「春の雪解け上野の鐘に 吉原下駄の田んぼ道 襟に冷てえなれえ風 丑や 達者でいろよ 逢いたさ見たさ一筋に 人目を包む芥子絞り 」


解説:「吉原下駄の田んぼ道」 江戸末期、浅草から吉原へ行くには、田んぼの畦道を、下駄を履き、尻を端折って歩いて行った。先代本木樹以さんのテープを聞くと「吉原下駄の田んぼ小道」と唄っておられるが、「小道」ではなく、単に「田んぼ道」である。


 「襟に冷てえなれえ風」 江戸なまりであるが、ならい風というのは、春先、東北の方角から吹いてくる冷たい風のことを言う。


「丑や 達者でいろよ」 これはセリフ。悪人でも想いはタップリ。なにか憎めない。


 木村菊太郎氏の「芝居小唄」を紐解いて見て驚いたことは、河内山、直侍、三千歳を唄った小唄がなんと1ダース以上もあることだ。大部分が清元から取った小唄で、「一日逢わねば千日の」などもよく唄われ、やや新内調の艶っぽい小唄である。


 



 


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日本古代史論争・猿蟹合戦

        八海老人日記

        (京都に近づこうとしなかった源頼朝)


 井上章一(1955年、京都市生まれ、京大工学部で建築学を学び、現在、国際日本文化研究センター勤務、専門は風俗史)著・「日本に古代はあったのか」(角川選書・平成二十年七月十日初版)を読んで初めて知ったことであるが、日本歴史学界に、東大学派と京大学派があるということである。その所為か、この本が私にとって新鮮に思えた。そして、日本古代史を巡る両学派の論争が、子供の頃読んだ猿蟹合戦のように、わくわくと面白かった。


 日本歴史の古代、中世、近世を通じて、私たちが学校の教科書で習ったのは、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代迄が古代で、1192年(イイクニ)、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時から中世となり、1868年、徳川幕府が政権を返上し、明治政府が発足した時から近世が始まると言う時代区分で、今でもそうなっていると思っていた。ところが、そういう時代区分は、京大学派に言わせると、関東史観と言って、まるで偏った見方なのだと言う。


 私もこの本を読み始めた当初は、少なからっず抵抗を感じたが、東と西の猿蟹合戦のような論争を読み進んで行く内に、西側の方にも理があると思うようになった。そして源頼朝なんて、大した人物ではないと思えてきた。中国を真似た律令制を採り入れ、国に入るべき荘園からの上がりをピンハネして、優雅に暮らした貴族や公家達が次第に堕落し農民を苦しめたため、内乱(応仁の乱)が起きて荘園制が壊され、東国を中心に反律令的な武士達が現れ、公家化した平家を打ち倒し、遂に鎌倉幕府という質実剛健な政権を樹立した。貴族や公家の世から武士の世に代わったというのが日本歴史の大きな分水嶺だというわけ。


 京大学派が原に据えかねるのは、東大学派が、事毎に、西は堕落、退廃、衰退であり、東が質実、剛健、新生。希望に満ちた新しい世は東から。光は当方より、という物言い。かの大阪生まれの司馬遼太郎ですら関東史観に毒されていると西側は歎く。司馬遼太郎は、「この国のかたち」という連載の中で、東国武士の台頭がこの国のかたちを大きく変えたと述べている。鎌倉だけではなく、江戸時代も滅んだのは大阪方,勝ったのは関東方、明治維新ですら新しい時代は先ず東京奠都からと、関東史観を裏付けするようなことばかり。


 結果がそうだからと言って、関東史観が正しいとは言えないと西側は反論する。鎌倉時代だって、武士は関東だけにいたわけじゃない。九州や四国や中国地方にも武士はいた。その証拠に元寇の時は、九州の武士が大いに働いた。足利尊氏は西側の武士に助けられて幕府を開いた。東側は改革派で西側は守旧派だなどと言う物の言い方はおかしいという。鎌倉幕府を開いた源頼朝をまるで改革派の大立者的な見方にも意義ありと西側はいう。偶々義経という野戦の天才がいたため平氏を打ち負かすことが出来たのであって、頼朝は運がよかっただけ。軍事権を奪っただけで、世の中を変える力などなかった。猜疑心が強く、肉親でさえ謀殺した。世の中は、頼朝が変えたのではなく、必然的な流れで自ら変るものなのだ。


 井上章一氏は、スケールの小さい猿蟹的論争に加わる積りは全く無く、彼は眼をもっと大きく世界に向けて、世界史的視野から発言する。世界史は、西洋史と東洋史に分けられる。西洋と東洋は、同じユーラシア大陸を共有し、西洋と東洋の歴史は、互いに独立したものではなく、西洋の歴史は東洋から分離するところから始まる。その後も互いに影響し合いながら進化して行っている。その中で井上章一氏は。ドイチ、イギリス、フランスなど西ヨーロッパ諸国と極東の国、日本の歴史との間の相似性に着目する。世界史の中で、封建時代=中世を経て、輝かしい近世へと脱皮したのは、ヨーロッパ諸国と日本だけである。


 西ヨーロッパ諸国の歴史は、いきなり中世から始まる。これらの国々は、古代ローマ帝国の衰退と共に、北方から南下してきたゲルマンなどの異民族によって起こされた国々なので、語るべき古代の文明など持ち合わせていなかった。ヨーロッパの古代文明は、古代ギリシヤ、ローマの独壇場であった。だから西ヨーロッパの諸国の歴史には古代が無い。日本も東洋史の中で、魏と交流のあった邪馬台国があり、卑弥呼という女王がいた。東洋史の中では、古代は三世紀、漢の滅亡までで、その後は中世である。従って魏も邪馬台国も世界史的には中世に含まれる。日本にも、弥生時代から古墳時代にかけて、大陸と交流のあった古代の大王や国があり、文化もあったかも知れないが、それらは詳らかではない。仏教が伝来し、律令制が取り入れられ、大陸文化がどんどん流入して来た頃は、世界史的には完全に中世であると言える。東側だの西側だのとミミッチイ議論はやめて、日本の歴史も「古代は無かった」ことにして中世から始めたらどうか。その方が余程すっきりすると井上氏は言う。




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第31回「江戸の名所を歩こう会」ー池上本門寺

        八海老人日記

        (本門寺此経難持坂の石段)


 平成20年12月23日(火曜、祭日、晴)、今日は天皇誕生日でお天気も上々。邦楽の友社主催、第31回「江戸の名所を歩こう会」は、日蓮宗大本山池上本門寺境内散策コースが選ばれた。10時、東急池上線池上駅前集合で26名が集まった。半数以上が顔見知りである。邦楽の友守谷社長、目賀田幹部も参加、リーダーは至り尽くせりの三輪幹事。資料を配って、歩き始める前にコースの説明。


 日蓮が生まれたのは、今から786年前、1222年(朝廷と鎌倉幕府が戦った承久の乱の翌年)、千葉県の小湊という所で漁夫の家に生まれた。11歳で出家し、12年間、比叡山で修行、その間にあらゆる経典を全部読んだという。その結果、釈迦が予言した末法の世を救えるのは法華経しかないと信じ、32歳の時、日蓮宗を開宗した。35歳の時、幕府のお膝元、鎌倉で辻説法を始め、39歳の時、此の儘では国が乱れ、外敵が攻めてくると予言し、「立正安国論」を北条時頼に献じた。


 日蓮は、気性が激しく、他の宗派を罵倒、批判したため、幕府から人心を惑わすものとして捕らえられ、伊豆や佐渡に流された。やがて赦免となった後、身延山に篭り、久遠時を興した。61歳のとき病にかかり、温泉療養のため常陸へ向かう途中、武蔵の池上という所で病が重くなり没した。ここに本門寺が建てられ、日蓮宗布教の中心となった。


 私たちは、池上駅から本門寺入り口の総門まで歩き、総門に掲げられた本門寺という扁額を仰ぎ見、そこから大堂へと続く急な坂を見上げた。そこで三輪リーダーからクイズ、此の扁額を書いた江戸時代初期の文化人は何と云う人か、此の坂には、加藤清正が寄進したと言う石段がある。この石段は何段あるか。本門寺の散策コースには、11のクイズがあって、これらのクイズを解きながら歩くことになっている。因みに、総門の扁額は、本阿弥光悦の筆で、石段は96段。エレベーターもありますよと三輪リーダーが親切に言ってくれたが、私は手摺に掴まって数を数えながら全部登ったら、確かに96段あった。


 五重塔やら、本殿、霊宝殿、大堂など、7万坪の境内を歩き回ったら、結構草臥れた。最後に辿りついた建物が朗峰会館。此処は結婚式場、宴会場、団体の宿泊施設、講堂などがある地上4階地下1階のビルで、このビルの奥庭が、小堀遠州の作庭による「松濤園」という庭園で、朗峰会館の中から全景を眺めることが出来る。

ここの宴会場に腰を降ろし、ビールで乾杯、懐石料理に舌鼓、お酒も飲み放題、一杯機嫌で夫々自己宣伝をして散会した。

異説・柿本人麻呂ーその3-水底の歌

        八海老人日記

        (柿本人麻呂像)


 妻の病気などで暫くブログが途絶えたが、妻の足の病も小康をえたのでブログを再開する。小林恵子(やすこ)のテキストによる人麻呂説は今回を持って一先ず筆を措き、「万葉の世界」のテーマは「日本古代史」の中に収斂される。


 前回までの記述では、人麻呂が百済からの亡命貴族で、幼い頃倭国にやってきて大海人皇子の庇護を受け、その長子とされる高市皇子と一緒に育てられたと言うが、小林恵子説は更に飛躍し、中大兄皇子と大海人皇子とは兄弟なんかではなく、大海人皇子の方が年上で、中大兄皇子は百済王子で、大海人皇子は高句麗の武将で中大兄皇子とは赤の他人。二人は済州島で知り合い、一緒に倭国に来たらしい。更に大海人皇子と額田王の間に出来た子とされる高市皇子は、本当は中大兄皇子が済州島に居た時、地方の女に生ませた子であるという。


 小林恵子の説は、中国や朝鮮で今に残る古代アジアに関する膨大な文献資料(日本では720年日本書紀が編纂された時、藤原政権によって尽く焼き捨てさせられた)を比較検証することによって得られた情報に基づくものである。従って我々が国から教えられた偽装古代史に基づく通説とは大きく異なるのは当然である。


 日本書紀は、672年壬申の乱を、天智天皇(中大兄皇子)の没後、長子で皇太子であった大友皇子と大海人皇子の皇位争いと記述しているが、元々大海人皇子には皇位継承の資格など無かったのだ。高市の皇子は、自分こそ天智天皇の直系で皇位を継ぐべきだと思って大海人皇子と一緒に戦ったのに、皇位は大海人皇子に横取りされてしまった。大海人皇子は資格もないのに天武天皇となり、それを藤原一族が権力拡大に利用するため担いだ。だから天智系の高市皇子の即位も高市皇子と兄弟のように親しかった人麻呂の名も日本書紀から一切消されてしまった。


 天武帝を利用して権力を握った藤原氏は、天智系の巻き返しを恐れて、徹底的に弾圧した。長屋王を謀殺したのもそに一端である。人麻呂が僻地へ流され刑死したのも、藤原政権に疎まれたからに他ならない。古今集の著者・紀貫之は、人麻呂が罪無くして政治的理由で非業の死を遂げたことを知っていたと思われる節がある。



  


築地明石町

        

        (鏑木清方画・築地明石町・模写)


 この小唄を習ったのは大分前のことで、どこかの会で一度唄ったような記憶があるが、それが何処だか思い出せない。今度11月6日の室町小唄会で、飯島ひろ菊さんの糸で唄わせて戴くのでブログのテーマに選んだ。


 この小唄は、昭和39年に発行された木村菊太郎氏の名著・小唄宝典三部作の何処にも見当たらない。平成17年、同じ著者による昭和小唄三部作の第三巻に初めて新派小唄として紹介されている。川口松太郎作・演出、花柳章太郎主演の「築地明石町」という新派の芝居が明治座で上演されたのは昭和15年で、伊東深水作詞、五世・荻江露友作曲による「築地明石町」が開曲されたのは昭和34年であるが、小唄は新派の芝居の筋とはあまり関係がなく、美人画を得意とした画家・鏑木清方が昭和2年に画き郵便切手の絵にも採り上げられた麗人の絵を主題とし、清方の弟子でもあった伊東深水が小唄にし、エキゾチックな街の情緒と麗人のイメージ唄い込んだものである。芝居小唄というより、むしろ風俗小唄である。


 歌詞:「行く水や 出船の汽笛遠ざかる 柵に残りし朝顔の 花も侘しき紅の色 清方画く麗人の あだめく素足忍び寄る 肌刺す冷えにかこつ身の 羽織の黒や秋袷 情けも築地明石町」。


 明石町の界隈は、幕末の頃から外人の居留地で慶応四年に建てられた築地ホテルは、明治初期、文明開化のシンボルであったが、建てられて間もなく火災で焼けてしまった。明石町に近い築地一、二町目は、粋な妾宅が多く、清方が画いた麗人も、新橋や柳橋の芸者上がりか、落ちぶれた貴族の娘かで、大富豪や役人や外人などの囲われ者であった。


 作詞した伊東深水も曲付けした五世・荻江露友も、清方が「築地明石町」で、どんな女を画こうとしたのかよく判っていたと思う。深水は清方の画業を最高に受け継いだ弟子であり、露友は二世・佐橋章子の実妹で前田青邨画伯夫人である。

 


異説・柿本人麻呂ーその2

 パソコンの故障でブログが途絶えた。故障回復と共に再び小林恵子(やすこ)氏の万葉集に戻る。氏の説によると、柿本人麻呂は百済からの亡命貴族で、六歳の頃倭国へやってきて、大海人皇子に預けられ、二つ年上の高市皇子と兄弟のように育てられたという。672年の壬申の乱の時は十四歳で、その後歌人としての才能を認められ持統天皇に仕えたのは32歳の頃であった。しかし人麻呂はあれだけ華々しく万葉の世界に登場しながら日本書紀からは名前を消され、最後は石見(島根県)に流され刑死するという運命を辿ったのはなぜであろうか。小林恵子氏の所説から人麻呂運命の糸を手繰ってみよう。


 倭国に亡命してきた人麻呂は大海人皇子(後の天武天皇)に庇護され、高市皇子と一緒に育てられた。この高市皇子というのは大海人の長子と云うのが通説であるが、実は中大兄皇子(後の天智天皇)が済州島にいた頃土地の女に生ませた子であるという。天智天皇が没した後、直系の長子である高市皇子は自分が皇位継承者と思っていた。だから壬申の乱は大海人皇子と皇太子・大友皇子の皇位争奪戦ではなく、本当は高市皇子と大友皇子の皇位を巡る争いだったのである。処が皇位は大海人皇子に横取りされてしまった。


 天武十五年九月(686年)、天武天皇が没し、その皇后であった鵜野讃良皇女が持統天皇として皇位を継いだことになっているが、本当は高市皇子が即位し、十年間高市王朝が続いたのである。しかし日本書紀は高市皇子の皇位継承の記録を抹消し、単に太政大臣として持統天皇に仕えたと記述した。大津皇子が殺されたのも本当は高市皇子が、皇位継承上のライバルである大津皇子を滅ぼした事件であった。


 日本書紀が高市皇子の即位記録を抹消し、同時に高市皇子に陰のように着き従っていた人麻呂の存在を日本書紀から消した。高市皇子は天智天皇の直系であり、天智天皇ー高市皇子ー長屋王(高市皇子の長子)という天智系王朝を復活させようとする流れは、天武系を担いで、外戚として政治の実権を握ろうとする日本書紀の編纂者・藤原氏にとって都合の悪いことであった。それが高市皇子の即位や人麻呂の記録の抹消、人麻呂の刑死、長屋王暗殺の本当の理由であった。

継体天皇と息長氏

 前回のブログ「日本古代史」(08.07.31)で、527年頃起きた継体天皇と九州の豪族・磐井の戦争について掻いたが、今回は、推理作家・黒岩重吾が継体天皇と蘇我稲目を主人公にして書いた小説「北風に起つ」を横目に見ての話である。


 21代雄略天皇が多くの皇子や王族や豪族たちを殺したり追放したりして479年に62歳で病没した。それまで応神・仁徳王朝を支えてきた豪族達は、雄略帝の独裁政治に懲りて、大王を立てなかったらしい。日本書紀では万世一系の皇統が続いたように記述しているがこれは粉飾である。大和朝廷の有力な豪族達は、自分達の勢力拡大のため、血で血を洗う政争に明け暮れ、大王不在の時期が二、三十年続いた。と云うことは、その間大王(天皇)はいなかったということである。


 しかし、蘇我、大伴、物部など大王を凌ぐ力を持った豪族達は、自ら大王になろうとはしなかった。中国の場合は、皇帝が悪い政治をしたり力が衰いたりすると、強いものが出てきて革命が起きた。日本の場合は、不思議な血統意識があって、大王の血統でないものが大王になろうとしても、誰もそれを認めなかった。天皇制が出来て今日までの長い歴史の間で、血筋でもないのに天皇になろうとしたものは弓削の道鏡か織田信長くらいのもので、それも実現はしなかった。


 話が横道に逸れたが、大和朝廷の豪族達も、中国や朝鮮との外交上の理由もあって、いつまでも大王不在にしておく訳にも行かず、相談した挙句、大王に相応しい人物を探すことになり、方々探し廻ったところ、越の国の豪族で息長氏の血を引く男大迹大王(おおどのおおきみ)という人物を見付け出した。日本書紀では応神天皇五世の孫と称しているが怪しいものである。大伴金村が説得に行き、507年にやっと承知して即位した。これが26代継体天皇である。


 息長氏というのは地方の豪族であるが、代々天皇家に皇后や妃を差し出すことを使命とし、陰で朝廷を支えてきた氏族で、多分先祖は朝鮮半島か済州島辺りから来た渡来部族で、色白柔肌の美人系であったに違いない。今でも新潟や北陸に美人が多いのは、息長族の血が多少混じっている所為かも知れない。


 堀居左門著「息長氏の研究」という本をブログメイトから借りて読んでみたが、結局、息長氏の正体は掴めなかった。判ったことは、息長氏は地方氏族であるが、天皇家との関係が深かったこと。神功皇后の名がオキナガタラシヒメであるが、これは後から付けられた名であり、日本書紀の作者・藤原氏が、魏志倭人伝を意識して創作した架空の人物らしいこと。息長氏が地方紙族であったため、政争に巻き込まれることが少なく、地方で比較的長く繁栄を保持することが出来たということ。継体天皇には8人の妃がいて、その多くが息長族の女であったことなどである。宮内庁が天皇の墓の学術調査を拒否しているが、若し、応神天皇と継体天皇のDNA鑑定が可能であれば、血が繫がっているかどうかを確認することは可能の筈。




石原慎太郎氏と小唄

 十年ほど前コロンビアから出た小唄五題・石原慎太郎作詞集というCDがある。このCDを企画制作した人は、本間 崇(ほんまたかし 1933~2003)という特許弁護士で、慎太郎氏とはテニス仲間。彼は、平成2年(58歳)頃から菊地満佐家元に師事して小唄を習い始めたようだが、私が彼と知り合ったのは銀座の「バアー小唄」の客同士としてである。彼は、何処ででも傍若無人に振る舞い、鼻持ちなら無い類の人物で、酒が入ると人が変わり、「バー小唄」でも嫌われ、新橋「胡初奈」でも爪はじきであった。


 その彼が、テニス仲間を自宅へ招待して、「小唄を楽しむ会」というのを催した時の模様を石原氏はこんな風に書いている。「テニスを通じての畏友・本間弁護士が、身の程も省みず小唄に沈溺し病膏盲となり、ある夜、自宅で催す「小唄を楽しむ会」で自分の芸を披露すると言うので行ってみた。奥様の手料理とお酒を振舞われたまではよかったが、落語の「寝床」を地で行ったようなもので、本間氏始め前座を勤めた諸氏の小唄なるものは、むしろ謡(うたい)まがいの代物で、拝聴するのに辟易する始末。


 石原氏は、テニス仲間が唄う小唄を聴いて怖れをなし、自分が歌うことについては自信喪失したが、文学的には小唄の作詞に興味が無くも無く、例えば岡野知十作詞(石原氏の吉井勇作は間違い)の「騙されているのが遊び 中々に 騙すお前の手の上手さ 水鶏聞く夜の酒の味」の遊び人にしか分からない粋な味は何とも云えない。唄うのは断念したが、作詞ならと、折角ご馳走になった手前、本間氏に約束して出来たのが次の「小唄五題」である。


 「一人寝の」:一人寝の 侘しき思い掻き抱き 当てなく辿る思い出の 虚しい旅  

         にゆきくれて 鏡に写す我が胸に 君の残せし花のあと 

 「花のえにし」:今日は今日 明日は明日の桜かな 花を訪ねて来てみれば 風吹

         き初める夕間暮れ 人の命の旅故に 契るえにしの儚さや

 「今日のみぞ」:今日のみぞ ああ今日のみぞ わがものと 君を思えば明日は早

          この黒髪も色あせて 人のえにしの恨めしき

 「主の夜風」:今日は今日 明日はあしたの桜かな 主の夜風に散らされて

         花に悔いなどあるものか

 「待ちわびて」:君来るや 来まさざらむや音もなく 今日も虚しく暮れにけり 

          ふと眼をやれば我が宿の 簾動かし秋の風


 因みに、「待ちわびて」の後半、「簾動かし秋の風」は、万葉集巻四(488)の塚田王が天智天皇に恋して歌った「君待つと我が恋い居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く」から取り込んだもの。


 この歌詞に対する曲付けは、次の通り何れも一流中の一流の家元さんたちなどにお願いし、曲が出来上がるまでに数年を要したという。

 「一人寝の」:菊地満佐家元、「花のえにし」:蓼胡競さん、「今日のみぞ」:三浦布美子家元、「主の夜風」:千紫巳恵さん、「待ちわびて」:長生松美家元。


 9月11日、新橋「古今亭」で催される新胡初奈会で、石原慎太郎作詞、長生松美作曲の「待ちわびて(君来るや)」を、長生松奈美師の糸で唄わせてもらうことになっている。小唄五題の作詞に当たって石原慎太郎氏は、次のように言っている。「遊蕩の世界に何等かの形で我が名を残したい念じて作ったこの唄が唄い継がれ、作詞者・石原慎太郎の名が忘れられないでいたら、泣きたいほど幸せである」と。

異説・柿本人麻呂

     


       

       (猿丸太夫 実は柿本人麻呂)


 古代史研究家・小林恵子(やすこ)の万葉テキストも、前半の終りに近づいた。今回は、万葉後期に最も多く登場し、歌の聖とも言われた謎の歌人・柿本人麻呂についてである。小林恵子は言う。柿本人麻呂は百済の貴族で、百済で生まれ育った。百済が唐、新羅の侵攻を受け滅亡したのは660年。その前後、百済から多くの王族や貴族が日本に亡命してきた。柿本人麻呂もその中の一人だった。


 672年、壬申の乱が起きた時は、人麻呂はまだ14歳に過ぎなかった。人麻呂が宮廷歌人として持統帝に仕え、華々しく万葉に登場してくるのは690年、人麻呂32歳である。帝の行幸の度に従駕し、数多くの寿歌を献したにしては人麻呂の名が日本書紀に全然出てこない。代わりに柿本猿と云う名で出てくるのは、何らかの理由で人麻呂が日本書紀の編者から疎まれたため名前が消されたものと推測される。


 百人一首で知らぬ者無い「おくやまに 黄葉踏み分け なくしかの 声聞くときぞ秋は かなしき」という歌、これは猿丸太夫の作である。この歌の上の句の最後の五文字の二番目と三番目の「くし」を、下の句の最後の五文字の二番目、三番目に嵌め込むと「かくしなしき」となり、隠し名をしたという意味の暗号になる。


 更にこの歌の万葉仮名は十八文字であるが、これを六字毎、三行に並べると、

     奥山乎黄葉踏

     別鳴鹿之音聞

     時曾秋者悲敷

となり、これの二行目の三つ目の「鹿」と、一行目の四つ目の「黄」と、二行目四つ目の「之」と、三行目四つ目の「者」と、二行目五つ目の「音」と、規則的に(N字型)に拾って行くと「鹿黄之者音」という文字列が得られ、なんと(かきのもと)と読めるのである。


 これは、隠し名は柿本であると解き、猿の本名が柿本人麻呂であると知らせる暗号で、偶然の悪戯ということはありえない。百人一首の猿丸太夫という人物は、紀貫之の「三十六歌仙」にも名を連ねているが、生没年・伝不詳という謎の人であるが、柿本人麻呂の謎を解く者と言われている。八海老人説は、日本書紀の偽装を知っている紀貫之が、「奥山に」の歌に託して、後世の人に残したメッセージのような気がする。平安から鎌倉時代に掛けて、「いろは歌」のように、歌の中に隠し言葉を読み込むことが流行ったことがあった。「いろは歌」の七字目毎に拾って行くと、「とがなくてしす」(咎無くて死す)となるのを思い出して欲しい。