築地明石町 | 八海老人日記

築地明石町

        

        (鏑木清方画・築地明石町・模写)


 この小唄を習ったのは大分前のことで、どこかの会で一度唄ったような記憶があるが、それが何処だか思い出せない。今度11月6日の室町小唄会で、飯島ひろ菊さんの糸で唄わせて戴くのでブログのテーマに選んだ。


 この小唄は、昭和39年に発行された木村菊太郎氏の名著・小唄宝典三部作の何処にも見当たらない。平成17年、同じ著者による昭和小唄三部作の第三巻に初めて新派小唄として紹介されている。川口松太郎作・演出、花柳章太郎主演の「築地明石町」という新派の芝居が明治座で上演されたのは昭和15年で、伊東深水作詞、五世・荻江露友作曲による「築地明石町」が開曲されたのは昭和34年であるが、小唄は新派の芝居の筋とはあまり関係がなく、美人画を得意とした画家・鏑木清方が昭和2年に画き郵便切手の絵にも採り上げられた麗人の絵を主題とし、清方の弟子でもあった伊東深水が小唄にし、エキゾチックな街の情緒と麗人のイメージ唄い込んだものである。芝居小唄というより、むしろ風俗小唄である。


 歌詞:「行く水や 出船の汽笛遠ざかる 柵に残りし朝顔の 花も侘しき紅の色 清方画く麗人の あだめく素足忍び寄る 肌刺す冷えにかこつ身の 羽織の黒や秋袷 情けも築地明石町」。


 明石町の界隈は、幕末の頃から外人の居留地で慶応四年に建てられた築地ホテルは、明治初期、文明開化のシンボルであったが、建てられて間もなく火災で焼けてしまった。明石町に近い築地一、二町目は、粋な妾宅が多く、清方が画いた麗人も、新橋や柳橋の芸者上がりか、落ちぶれた貴族の娘かで、大富豪や役人や外人などの囲われ者であった。


 作詞した伊東深水も曲付けした五世・荻江露友も、清方が「築地明石町」で、どんな女を画こうとしたのかよく判っていたと思う。深水は清方の画業を最高に受け継いだ弟子であり、露友は二世・佐橋章子の実妹で前田青邨画伯夫人である。