異説・柿本人麻呂ーその2 | 八海老人日記

異説・柿本人麻呂ーその2

 パソコンの故障でブログが途絶えた。故障回復と共に再び小林恵子(やすこ)氏の万葉集に戻る。氏の説によると、柿本人麻呂は百済からの亡命貴族で、六歳の頃倭国へやってきて、大海人皇子に預けられ、二つ年上の高市皇子と兄弟のように育てられたという。672年の壬申の乱の時は十四歳で、その後歌人としての才能を認められ持統天皇に仕えたのは32歳の頃であった。しかし人麻呂はあれだけ華々しく万葉の世界に登場しながら日本書紀からは名前を消され、最後は石見(島根県)に流され刑死するという運命を辿ったのはなぜであろうか。小林恵子氏の所説から人麻呂運命の糸を手繰ってみよう。


 倭国に亡命してきた人麻呂は大海人皇子(後の天武天皇)に庇護され、高市皇子と一緒に育てられた。この高市皇子というのは大海人の長子と云うのが通説であるが、実は中大兄皇子(後の天智天皇)が済州島にいた頃土地の女に生ませた子であるという。天智天皇が没した後、直系の長子である高市皇子は自分が皇位継承者と思っていた。だから壬申の乱は大海人皇子と皇太子・大友皇子の皇位争奪戦ではなく、本当は高市皇子と大友皇子の皇位を巡る争いだったのである。処が皇位は大海人皇子に横取りされてしまった。


 天武十五年九月(686年)、天武天皇が没し、その皇后であった鵜野讃良皇女が持統天皇として皇位を継いだことになっているが、本当は高市皇子が即位し、十年間高市王朝が続いたのである。しかし日本書紀は高市皇子の皇位継承の記録を抹消し、単に太政大臣として持統天皇に仕えたと記述した。大津皇子が殺されたのも本当は高市皇子が、皇位継承上のライバルである大津皇子を滅ぼした事件であった。


 日本書紀が高市皇子の即位記録を抹消し、同時に高市皇子に陰のように着き従っていた人麻呂の存在を日本書紀から消した。高市皇子は天智天皇の直系であり、天智天皇ー高市皇子ー長屋王(高市皇子の長子)という天智系王朝を復活させようとする流れは、天武系を担いで、外戚として政治の実権を握ろうとする日本書紀の編纂者・藤原氏にとって都合の悪いことであった。それが高市皇子の即位や人麻呂の記録の抹消、人麻呂の刑死、長屋王暗殺の本当の理由であった。